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2017年01月12日

学校教育:男女共学か別学か~明治以降

前回の投稿(学校教育:男女共学か別学か・・・江戸時代の場合)では、江戸時代の寺子屋や若者組の様子を勉強しました。
今回は、明治以降の近代教育の流れを見てみます。

 

江戸時代の寺子屋は庶民の子弟を対象としており、女子も教育を受けていた。
しかし、「男子と同一の教育内容を、同一の師に共に学ぶという文字通りの男女共学の例はきわめて珍しいことであった。
藩校は士族階級の男子の教育機関であり、幕末に始まる庶民州の門戸開放政策の際にも、女子を含めて検討した藩は
全体の3%でしかなかった。

 

◆戦前の男女共学・別学・・・戦前は男女別学
○1872年 太政官布告
学制とともに発せられた太政官布告では 「幼童の子弟は男女の別なく小学に従事」しなければならないとされた。
「そこには将来の母という女性という限界はあるが、男女ともに教育の対象とみる、新たな視点があった。

○1879年 教育令
教育令では「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス、但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ」として、
学制下で認められた男女共学を否定し、男女別学と性差に基づく教科の設定を原則として掲げた。

○1900年 小学校令施行規則
小学校1・2 年以外は原則として男女別学であることが明記された。

○1903年 専門学校令
専門学校にあっては 1903年の専門学校令による入学規定は単なる法令上の形式的規定に過ぎず、実際には各学校が
それぞれ定めることとなっており、 音楽学校を特例とするほかに共学は存在しなかった。

○1946年 国民学校令改正
大学については法規として明記されなかったので、1913年に東北帝国犬学総長沢柳政太郎は英断を以って女子の入学を
許しているが、それは例外的事例であった。
男女共学禁止の原則は1946年10月9日の国民学校令施行規則の一部改正 まで続いた。その間、国民学校初等科の男女
共学は原則として認められず、中学校・高校における男女共学が実施されるのは戦後の新学制発足と同時である。

 

◆戦後の男女共学・別学
○1945年 女子教育刷新要綱
戦後の新制高校における男女共学はアメリカ教育使節団報告書や女子教育刷新要綱、CIE(民間教育情報局)などの意向
を踏まえて発足した。
1945年12月4日に閣議了解された女子教育刷新要綱では男女の教育機会・内容平等について方針が明らかにされている。
すなわち、女子に対する高等教育機関の開放と男女共学の採用を明記し、女子中等学校の教育内容を男子中等学校と
同程度とすることが記載されたのである。 しかし、 中等教育段階の男女共学の実施については記述されていない。

○1947年 教育基本法
当時の文部省は、教育基本法の公布・施行に先立ち、高校では必ずしも男女共学でなくてもよいという方針を明らかにした。
中学校についてはすみやかに男女共学の実施を求めたが、高校についてはただちにこれを強行することを求めなかった。
このように男女共学に消極的であったのは、「教育刷新委員会での議論を見る限りでは、それは男女の風紀問題の発生への
危惧と男女の特性の相違ゆえ」であるといわれている。
男女共学よりも「教育機会と教育水準の男並み化が優先課題だった結果、
これらが保証されるのであれば共学は是非とも実施すべきものとしてはとらえられていなかった」のである。

○1960年代
男女共学は1960年代には制度として定着し日常化していったが、当時の教育政策の影響を大きく受けた。
1960年代の高校教育はマンパワー・ボリシー(人的能力開発政策) や後期中等教育の多様化政策などによって課程別、
学科別、コース別に教育課程が編成されるようになり、普通高校のなかにも男女比が極端にアンバランスな学校や男女別
クラスの存在する学校が増加し、共学率は増大するものの「共学制を実質的に崩す方向」が見られるようになった。
「男女別学が高度成長期に強化されていくのは、前近代的な男尊女卑の教育観への『回帰』ではなく、資本主義社会が
要請する性別役割分業に基づいた男女特性教育へと『前進』していったからなのである。

○1970年代
1970年代になると、別学校を多く残した東北地方や中部地方でも、宮城県や長野県などのように共学校への移行や共学校
を新設する動きが見られた。こうした共学化の動向は、「第二次共学化の波ともいえるほど多くの公立の男女別学高校の数
を減少させ、男女共学高校を増大させるもの」であった。

○1980年代・・・男女差別撤廃条約
男女差別撤廃条約が批准された1980年代には家庭科の男女共修を求める声が大きくなり、1989年3月の学習指導要領改訂
により、高校では1994年度から男女共修となった。

○1990年代・・・男女共同参画社会基本法
こうした時代状況背景に、1990年代以降は公立・私立ともに男子のみの学校、女子のみの学校の学校数は減少している。
少数となった公立の別学校に対する共学化の議論が起こり、男女共同参画社会基本法が制定された1999年以降、男女共学
化が急速に進められた。

○現在の状況
現在では宮城県や福島県などで全面的共学化が実現している。公立の別学校が比較的多く設置されている埼玉県、群馬
県、栃木県の3県では、宮城県や福島県同様、別学校の共学化が議論されたが、前述のように、各県教育委員会は別学校
を存続させている。
2014年5月1日現在、全国の公立高校3,628校中、男子のみの学校が9校、女子のみの学校が38校、あわせて57校と、
学校数ではわずか1.6%の存在となっている。

 

◆戦前の男女別学の理由
戦前の男女別学級編制の理由としては、男女によってその性質、風習、社会的な仕事が違うので教育の方法も違わざるを
得ないというものであった。
男女を分ける教育理念の背後には、『男女七歳にして席を同じうせず』といった儒教的思想の影もあったとされる。
当時の男女別学は教育空間の分離だけではなく、教育内容の差異を企図していた。
例えば、明治期の高等女学校では同年の中学校(男子)に比べ英・数・国の合計時間数は半分に満たず、裁縫、家事など
の科目に時間が割かれていた。女子の教育では家事、育児、内助といった「家庭役割」に適した科目に比重が置かれ、「男女
別学は文字通り内容上の別学にまで進んでいったのである。そのため、「同じ五年制の学校であっても、一般には、中学校
に比べて高等女学校は普通教育のレベルが一年分ほど低い」といわれていた。そのような教育を正当化したのが「良妻賢母」
思想である。女子については貞淑の美徳や婦徳の涵養が目的とされたのである。

こうした戦前の男女共学禁止、別学推進は、当時の政府のとった銭湯における男女における混浴、海水浴場における混泳
の禁止と同じ男女分離政策の一環であり、その背景には若者宿、娘宿に象徴される男女の関係をめぐる農民文化の破壊
旧武士風の規範の導入、さらにはキリスト教文明社会からもたらされた性欲に対する罪悪感や禁欲主義があり、こうした人々
の性道徳、性意識の変化とも密接に関係しながら強化されていったと考えられる。
当時、女子は男子に比べて生まれたときから遺伝的に能力が違い、学力が乏しいという認識は一般的であった。
ただ、戦前においても研究者や実践家の間では男女共学の意義と実施方法などについての検討はなされていた。
当時の男女共学否定論と賛成論の要点は次のようであった。
【否定論】風紀の乱れ恐れがあり、男女の美点長所を喪失させ、男女教育の特性が発揮できず、男子の学問的水準を低下させる。
【賛成論】男女共存は人間の生活形式であり、男女相互の理解と感化により円満な人格的発達が可能となり、男女の切磋琢磨に
より学力が増進し、経済的にも有利である。

 

◆戦後の男女共学の意義
新制高校における男女共学は全国一律に実施されたわけではなく、地域によっては別学校が存続した。
しかし、「人々の男女観、性別役割意識などに与えた影響という点からいえば男女共学制の採用は第二次世界大戦後の教育
改革のなかでも画期的な改革であった。 初期の共学校では共学そのものが「大きな生活学習」であった。
男女共学初期の男女生徒にとってはお互いが未知の世界との出会いであった。男女共学は、異性の実像を見きわめさせ、
いろいろな人間のいることを理解させるうえで大きな役割をはたしてきたのである。

 

参考:(リンク

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