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2017年04月27日

おしゃべりは介護!

いま、高齢者福祉施設の仕事に携わっている。
永く地域で仕事をしてきたオーナーは、地元に恩返しをしたいとの気持ちから地域の人に利用していただき、
みんなで作りあげていくような施設、スペースの提供を考えている。
子供たちが遊んで学べる場所、認知症の方も利用可能なカフェ、施設の方の手作り料理を楽しめるスペース、、、

ベースとなるのは高齢者の役割を作りだすこと。
小さなことでもいい、何か人に必要とされていれば、元気になれるもの。

できれば何か育てられるといい。
花、植物、野菜など自然と戯れながら、赤ちゃんの子守をしたり、小さな子どもに読み聞かせをしたり、
若いママさんに昔ながらのおばあちゃんの手料理を教えたりと。

そんな中で気になった記事をひとつ紹介。
「おしゃべり」が目的の会のお話。

人が集まればおしゃべりに花が咲く。
人と人との関係はおしゃべりから。
いろんな世代の人が集まると、いろんな時代の話が聞けて楽しい。
いろんあ地域の人が集まると、いろんな地方の話が聞けて楽しい。
いつしか聞く側から、語る側へと、自分の話に興味を持ってもらえる人がいると嬉しい。

こんな日常の場、関係が生まれていくことが前提にあるような気がした。
おしゃべりは介護! たしかにな~。
生まれてから老いるまで、何をするにしても人とのおしゃべりが基本なんだとあらためて思った。

 

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以下の文章は月刊誌『むすぶ』(2017年3月号)連載の「時代を駆ける 地域で生きる、地域をつくる」
のタイトルで掲載したものである。2回に分けて掲載する。(リンク

昨年10月から団地のみなさんに呼びかけて「談笑カフェ風(るん)」をはじめた。
毎回10人~15人が参加する。
いずれも年配の男性の方である。
会の目的は「おしゃべり」=乱談である。
また、人が集まる「たまり場」作りであり、仲間を作る「サロン」である。
おしゃべりで気が若返る、年を忘れる、元気がでる、ストレスが解消されてアンチエイジングにもなる。
そうなればラッキーである。
また、知らないことをいろいろ情報交換できたら、勉強になりためになる。
知力・気力・精神力ともにのばせたら、高齢化おそるべからずだ。
さらに、地域の人と交流してつながりができたらハッピーである。
風(るん)ではテーマは決めず、自分のしゃべりたいことを遠慮なくしゃべる。
人の話に尾ひれをつけ、切り替えし、切り込み、深め、広げ、豊かにする。
そんなふうにおしゃべりを楽しみたいとして出発した。
そして、会のルールとして次の五点を確認している。
①大きな声ではっきり話す。
②意見の違いを楽しむ。
③特定の政党・宗教の話は避ける。また、個人名もできるだけ避ける。
④だれでもいつでも参加できる。
⑤月一回の会報を発行する。
一番心配していたのは話題だったが、さすがに年の甲、一時間半がアッというも間に立ってしまう。

 

ともすれば地域に引きこもりがちな老人たちが集まって、談論風発で乱談を楽しむ。
それだけの会であるが、地域にとっておしゃべりは意外と大事だと思っている。
参加するみなさんが月1回の会合を楽しみにしてくれているのだ。
清水義範『ウケる!大人の会話術』を読んでいたら、
会話の根本は相手を楽しく、そして気持ちよくさせることだと書いてある。
だから会話は一種の介護だというのだ。
ナルホドと思う。
地域の老人たちが集まってしゃべくる「風(るん)」は、
支え合いでありお互いの「介護」の役割も果たしているのではないのだろうか。
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2017年04月27日

儒教は先祖崇拝シャーマニズムを土台として生まれた?

標題のような説があります。
『スピリチュアリズムの心霊現象論』「東北アジアの宗教の特殊性」を要約します。

●東北アジアの宗教の特殊性
東北アジアでは共通して、祖霊崇拝や供養が宗教的活動の中心を占めている。
インドから仏教が入ってきた時にも、東北アジア人(特に中国人)は仏教教理の根幹までも変えてしまい、先祖の霊や死霊を中心とする仏教ができ上がった。
この東北アジアの先祖(祖霊)崇拝はシャーマニズム文化の名残である。

●「儒教」というシャーマニズム宗教
中国でも古代以前から、アニミズム・シャーマニズムという霊的存在への信仰や自然崇拝や呪術が行われていた。
孔子は古代中国の原始宗教(アニミズム・シャーマニズム)に「先祖崇拝」という枠を設け、その結果、こうして中国のシャーマニズムは原始的なアニミズム・シャーマニズムから先祖崇拝を中心とする限定的シャーマニズムへと変化した。
つまり、儒教の土台は先祖霊の招魂儀式を中心とする先祖崇拝というシャーマニズムであり、シャーマニズムの上に倫理道徳や統治哲学を積み上げたものが儒教である。

古代中国では、人間は死によって魂と肉体が分離し、魂は肉体から離れると考えられていた。古代中国の「霊魂観(鬼神論)」では、死後に残された骨を死者の肉体と見なす。儒教の招魂儀式では、天から先祖の霊魂を呼び、地上に残された骨に憑依させることで霊と肉が一体化し、地上に先祖が再生する。それによって先祖は、地上で再び自分の子孫と出会い交流することができるようになると考える。これが儒教の招魂儀式の意味であり、儒教の特殊なシャーマニズムの内容である。従って、儒教では、死者の骨をとても大切なものと考え、死体は火葬ではなく土葬でなければならないとする。
これが古代中国人の霊魂観(鬼神論)であり、儒教の土台である。

孔子は「霊魂観(鬼神論)」については直接的な答えを保留し、前面に出して論じることはしなかったが、孔子は、原初のシャーマニズムを先祖崇拝を目的とした儀礼的シャーマニズムへと引き上げた。儒教の喪葬儀礼は事細かく規定されており、厳格に営まれる。孔子は、こうした先祖供養という限定的シャーマニズムの土台の上に、子孫としての生き方の規範や家族倫理・血族倫理という思想を積み上げ、先祖崇拝と親や血族に対する心がまえを理論化し、礼法をつくり上げたのである。

●一般のシャーマニズムと儒教シャーマニズムの違い
但し、儒教は、一般のシャーマニズムとは違って神がかり的な要素を排し、礼法を中心とした招魂儀式を営む。招魂儀式は、子孫としての守るべき礼法が付け加えられて倫理的儀式に引き上げられた。
シャーマニズムでは、シャーマンがトランス状態で霊的存在からのメッセージを伝えたり、シャーマンに霊的存在を取り憑かせて語らせる。一方、儒教では、子孫が祭司として先祖の霊を呼んで儀式(招魂儀式)を執り行うが、子孫がシャーマンのように神がかりになったりすることはほとんどない。
また、一般のシャーマニズムでは職業シャーマンが招魂をするが、儒教ではその役割を子孫が果たす。子孫にとって招魂儀式は最も重要な行事であり、その場には血族が一同に集まる。そこでは長子(長男)がシャーマンに代わって祭祀の中心的な役割を果たすため、儒教では長子が特に重要視される。儒教では血族の存続が第一で、血脈(血筋)が絶えることは先祖全体が救われないこと・不幸になることを意味する。こうして儒教の「先祖崇拝」と「血縁重視」は、異常なほどの熱を帯びることになった。

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2017年04月20日

社会から切り離された学校空間で道徳教育は可能なのか

道徳は長らく教科外の「活動」とされてきたが、2018年度から小中学校の「特別の教科」に格上げされるらしい。
外国人から見れば日本の道徳教育はスゴイらしいが、果たしてどうなのだろうか。

「道徳」で学ぶものは、社会における規範であり、それは共同体規範に他ならない。
共同体規範とは、人類が古くは極限時代から過酷な外圧状況に適応すべく常に「集団ためにどうする?」と追求してきた
集団の掟であり、それは皆の心の中に深く刻まれ、現代もなお心の深くにもっている不文律の規範である。
それは、あくまで集団が第一であることが前提であり、闘争課題の存在が前提である。

闘争課題もなく消費課題しかない密室空間の家庭に、道徳を教える教育機能はあるのか、
社会から切り離され闘争課題もない学校空間に、道徳を教える教育機能はあるのか、
個人主義を良しとする学校教育に、道徳を教える資格はあるのか、
人類500万年の歴史で築かれた不文律の規範を、文字面をおいかける教科書教育で体得できるのか、
道徳の習得度をたった一人の教師が評価するとは、どういうことだろうか、そもそも可能なのか、

このような不整合を学び追求することこそ、歴史教育であり、道徳教育ではないか。

 

◆外国人が感じた日本の「道徳教育」のすごみ(リンク

「若者の頭を教育する際、心の教育を忘れてはならない」と語ったのは世界的に有名なチベットの指導者、
ダライ・ラマだ。

現代の子どもたちが、家庭より学校でより長い時間を過ごしていることを考えれば、この考え方は意義深い。実際、米国に
おいても、日本においても、一般の小学生は6~7時間を学校で過ごす。さらに、放課後の活動を加えれば、子どもがどれ
だけ長い時間を家庭外で過ごしているかわかるだろう。

確かに、道徳教育の基盤は家庭にあるべきで、道徳を子どもに教える責任は親にある。しかし、子どもが夕方や夜間しか
家にいないのに、家庭内の教育だけでこれらの価値観を植え付けられると期待するのは非現実的だ。道徳教育において
学校は主要な役割を担っている。そこで、今回は日本と米国で道徳教育にどのような差があるのか考えてみたい。

多くの日本人は道徳教育を受けている。文部科学省は、学校のあらゆる教育活動において「道徳的な心情、判断力、実践、
態度などの道徳性を養う」を目的に掲げている。これには秩序、注意深さ、努力、公平性、人間や自然との関係における
協調性も含まれている。ガイドラインによると、週に少なくとも1時限は道徳教育に当てられる。

道徳は長らく教科外の「活動」とされてきたが、2018年度から小中学校の「特別の教科」に格上げされる。安倍政権は、
2011年に大津市の中学生がいじめを苦に自殺した事件など学校における深刻ないじめ問題を変革の理由に挙げた。
これまで教師が作っていた副教材や資料に代わり、標準教科書が使われるほか、教師は生徒一人ひとりの成績を記述し、
数値ではなく主観的に評価することになる。

 

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2017年04月13日

企業や地域との協業が、学校教育をより良く変える

「地域産業 教育 コラボ」で検索してみたら、最初に出てきたのが九州産業大学のKSUプロジェクト型教育。(リンク

見てみると実に面白そう。

現場の声を謙虚に「聞く」
現場で起きている事実の意味を「知る」
それの基づいて現場で「動く」
・・・『キク・シル・ウゴク』

変化の連続で、予想がつかない。従来の手法では答えが出ない。
そうした時代を生き抜くために必要なのは、「現場での実体験」。実社会の現場とは、何なのか。
そこでは、どういうことが語られているのか。どう動けばいいのか。これを、身をもって実感すること。
この現場こそ、KSUプロジェクト型教育の舞台。

課題は教科書の中にあるのではなく、現実に動いている現場にある。だから現場に出て聞いて知って動いて学ぶ。
「元来、教育は生産者を作り出すためにある。」
だから、現場に出て、現実を知り、事実に学ぶのは当たり前のことだ。

今後の教育は学校という檻から抜け出し社会と一体化しなければ取り残される。
最近注目を集めてきた「教育CSR」も同じ動きなのだろう。

ここ十数年にわたって、企業のCSR活動が活発になっている。
CSRとは、社会的責任(Corporate Social Responsibility)の略。
企業が社会を構成する一員としての責任を果たすために、地域の清掃活動や環境保全活動などの社会貢献を行うもの。
その中でも、最近注目を集めているのは、教育問題に特化して学校教育を支援する「教育CSR」。
その活動を日本でいち早く始めたのが、墨田区教育委員会の人物らしい。

教育CSR分野の第一人者で、学校と企業をつなぐコーディネーターとして活躍している墨田区教育委員会事務局すみだ教育研究所の
森本芳男氏のインタビュー記事を読んだ。(リンク

森本氏は、1996年に墨田中学校の校長になった頃から、
長年にわたって企業のノウハウと学校教育を結びつけようという活動を仕掛けてきたらしい。

そこで直面した問題とは、やはり地域との壁。
「地域に開いた学校」などと謳いながら、壁をつくっていたのは学校自身であった。

◆地域の人たちが後押ししてくれた
「当時は、学校崩壊が問題視されていた時代でした。
実際、赴任してみると、始業のチャイムが鳴っても、教室に生徒が入らない。やっと席についたとしても、先生の話を聞かない。
先生たちはいつも生徒たちを追いかけ回している状態で、授業になっていないクラスが多かったです。
私は悩みました。
どうすればよいのか分からず、藁をもつかむ思いで町を歩き、地域のおじいちゃんやおばあちゃんに聞いて回ったのです。」

すると、ある人が笑みを浮かべておっしゃるんです。
「町の人たちが学校に入っていけば、きっとよくなりますよ。子どもたちは町ではいい子ですから」と。

また、ある人はこう言いました。
「子どもは学校に行くと悪さをする。つまり、学校は悪さをする場所になっているんですね。
学校にいるのは先生だけ。その先生たちは絶対に手をあげない。注意をしているだけ。それでは全然収まらないでしょう。
40人の生徒に1人の先生。こっちを追いかけていたら、あっちで暴れて、あっちを追いかけたら、こっちで暴れ、
授業が成り立たないのは当たり前。なぜもっと地域の人の力を借りようとしないのですか。
地域のみんなで学校を再生させていきましょうよ」

「我々はいつでも何かお呼びがかかったら、学校に行って、子どもたちのために教育のお手伝いをさせてもらうよ。
あなたたち先生は教えるプロでしょうが、子どもたちは言うことを聞かない。近所のおばさんの言うことなら聞くんだよ。
みんな、いい子じゃん」って。本当に有難かったです。

「学校がもっと我々の言うことを聞いていたら、我々だってもっと応援してあげられたのに。
学校は地域の人たちを学校に入れようとしない。だから学校は良くならないんだ」と。
これほどまでに学校のことを思っていてくださる方がいたなんて、私はうれしくてたまりませんでした。

◆学校が変われば、社会が変わる
企業だけでなく、地元の人たちにも参加していただきたいです。
近所のおばちゃんやおじちゃんが手話を教えたり、地域の昔ばなしを語っていただいたりといった具合にです。
地域の活性化にもつながりますし、その地域のボランティアの方たちの居場所ができてくる。
すると、学校教育を通して地域社会のかかわりが変わっていくと思います。

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2017年03月23日

教育改革による地方再生~成功のカギは「志」の育成

島根県隠岐諸島・中之島に位置する海士町はかつて高齢化・過疎化で存続の危機に陥っていたが、島民一体で産業創出
や都市交流、教育改革に取り組んだ結果、今では都会から300人のIターン者が集まる活気あふれる街になっている。
一過性の町おこしに終わらず、恒久的に街が発展していける仕組みをつくった海士町は今や「離島の星」として、全国から脚
光を浴びている。(リンク

今や日本中どこでも地方再生に取り組んでいるが、教育改革で活気あふれる町になった事例は珍しい。
一体どのような改革を行なったのか。

ポイントは、地域の課題を高校生自らが取組んでいることにある。
教科書を学ぶだけでは何も解決しない現実課題であること。
それは、「人や社会の役に立ちたい」という若者の最大欠乏と合致していること。
加えて、地域課題に取り組むことで、地域に貢献したい、故郷に恩返ししたい、という「志」をもった人間が生まれていくこと。
「志」教育、今もっとも求められる人材育成がここで行なわれている。だから、全国から注目が集まっている。

 

 

“志の育成”、全国からの“島留学”。魅力溢れる離島の教育改革 (リンク
島根県に海士町(あまちょう)という島がある。
以前は若い人たちを中心に人口流出が止まらず、島の高校は廃校寸前だったが、教育改革により島はⅤ字回復した。
「教育が地方を救う」21日の教育のキモでは、このサクセスストーリーを作ったプロジェクトメンバーの一人、株式会社Prima Pinguino(プリマ・ペンギーノ)代表取締役社長、教育政策アドバイザーの藤岡慎二さんにお話を伺った。

◆ 離島での教育改革
藤岡さんは11年前にPrima Pinguinoを創業。
当初は高校生向けにキャリア教育の教材作成などを展開していたが、海士町の知人からある連絡が入ったのをきっかけに、
藤岡さんの第2のキャリアが始まった。

藤岡さん「海士町から公営塾の講師を紹介してほしいという依頼だったのですが、離島での教育改革という聞いたことがない
プロジェクトに、私自身がやってみたくなりました。島というと最初は閉鎖的なイメージでしたが、島の人が前向きで何とかし
てみようと。」

当時の海士町は、超少子高齢化で人口流出が止まらず、行政は財政難と課題だらけの離島だった。このため、島にある隠
岐島前高校は、入学者数が減り存続の危機に直面していた。
「高校がなくなれば高校生だけでなく、子育て世代が家族ごと都市部に引っ越し、これから地域を担う世代がいなくなる。」と
危機感を持った行政、住民が立ち上がり、まずは高校からと「高校魅力化プロジェクト」をスタートした。

 

◆ 高校魅力化プロジェクト
藤岡さん「地方出身の若者は『仕事がないからふるさとに帰れない』とよく言います。
しかし人口減少・流出にあえぐ地域としては、『仕事をつくりに帰りたい』という気概を持った人材が必要です。
高校ではそのような意識を育む学びをみんなで考えました。」
高校魅力化プロジェクトの柱は3つ。「その地域・高校ならではの学び改革」、「公立塾」、そして「教育寮」だ。

 

◆ 高校生が地域の課題を探し出し、解決に向けて大人と一緒に取り組む
「海士町は、課題先進国日本の中でも、さらに20年、30年先を行く課題先進地域。まさに世界最先端です。
高校生が地域の課題を探し出し、解決策を大人にプレゼンし、解決に向けて一緒に取り組む。課題先進地域だからこそでき
る学びです。」
課題山積の離島だからできる。まさに「逆転の発想」、「ピンチはチャンス」だ。

 

◆ 学力だけでなく、志を育成
さらに「公営塾」では、「学力だけでなく、志を育成する」(藤岡さん)という。

藤岡さん「塾はふつう学力だけですが、ここでは自分たちの夢を発表し、ディベートをし、進学や就職の目的意識を学力ととも
に育てていきます。そんな学び舎は都会にはあまりないと思います。」

 

◆ 日本全国、世界各国から募集する“島留学”制度
そして「教育寮」。

海士町では、これらの教育内容に興味がある生徒を、地元からだけでなく、日本全国、世界各国から募集する“島留学”制度
を実施している。
「いまや高校生の半分は、島外出身者。ドバイの日本人学校にいた生徒や、東京、大阪など都市部からも生徒が集まり
ます。」
プロジェクトを始めて以来、地元に貢献したい、ふるさとに恩返ししたいという生徒が増えたという。

藤岡さん「ふるさとに戻り、地域の課題に挑戦することで地域を元気にして恩返ししたいという生徒が増えました。さらに、
偏差値だけで進学先を選ぶのではなく、目標を持ち、大学で学ぶ目的を明確に持って進学するようになりました。

 

◆ 挑戦は全国に…
そして、こうした挑戦は、全国にも広がっている。

「長野県白馬村は人口9千人ですが、200万人の観光客が訪れ、外国人も多いです。県立白馬高校では、国際観光課を作っ
て全国から高校生を募集しています。また、広島県立大崎海星高校も離島にありますが、この島は瀬戸内海の海賊の一派の
末裔が住む島です。
これを活かして、社会の“潮目を読む”「潮目学」、自分を読む「羅針盤学」などを教えています(笑)。」

しかし、高校魅力化プロジェクトにもまだ課題はあると藤岡さんはいう。
「いまは生徒の数が多くなることがいいことだと言います。しかし、実は生徒の奪い合いになっているのです。これからは生徒
が少なくてもいい学校を目指さなければいけません。限られた人数でもICTをフル活用し、地域と連携することで最高の教育
効果を得られるような学校づくりを全国で展開したいと思います。」

疲弊する地域を救う高校魅力化プロジェクト。藤岡さんの挑戦は続く。

 

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2017年03月09日

実現の時代~「社会認識」が古い制度を駆逐し、現実を塗り替える

以前の記事で、教育改革に取り組んでいる世田谷区長について紹介した。

「教えない学校」~自治体首長も教育革命に取り組んでいる

彼のブログを読んで感じたこと。
「制度」はどのように変化し、実現していくのだろうか。

現在の学校教育制度は、明治時代の西欧列強の外圧に対峙すべく、軍隊式を取り入れ、国家の手足となる人材をつくる目的であった。
現在の外圧はどうだうか?
政治、経済、環境、医療、教育、子育て、高齢者、、あらゆるところで問題は山積み、もはや国家統合が機能不全を起こしている。
だからこそ統合者は不正選挙までして、法制を強化し、制度収束を強め、強制力を強め統治するしかない状況に追い詰められている。
しかし、古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する

このように社会が閉塞状況に陥っているということは、
これまで社会を導いてきた思想、観念、法律、制度などが間違っていたということ。
とりわけ、その中心にあった近代思想(個人、自由、平等、、)の罪は大きい。
その近代思想を、純粋無垢な子供たちに強制的に植えつけてきたのが、「学校教育」である。

現実の社会問題に危機を感じ、新しいあり方を模索して、古い制度から脱し、動き出した先人はたくさんいる。
すでに、多くの成功例も報告されている。
現実の場で変革し、新しい可能性を実現していくことが、人々を説得する確かな力となる。
そして、現実の断片的な問題群を歴史構造的に認識することが、極めて重要だ。
社会認識と、外圧適応の変革、その両輪が現実を変えていく。
もはや古い制度では適応できない、負けていくばかり。
新しい認識が、古い制度・認識を駆逐し、新しい社会へと塗り替えていく。まさに「実現の時代」。

 

■■2014年8月26日
「代ゼミ20校閉鎖」で見えた競争の変化

60年代の高度経済成長期から親子2代にわたって続いた安定期は、90年代半ばに終わりました。社会に出ていく若者たちの前にはもう、安心して身を委ねることができる「太いレール」はありません。この間に平均賃金は下がり続け、職場における競争は激化し、スピードと効率、さらには正確な処理も求められ、長時間労働も常態化しました。

時代の変化は、少子化だけではありません。97年の金融危機を引き金とした長期不況の中で、企業にはリストラの嵐が吹き荒れました。全人格を会社に委ねていたような人々は、非情な肩たたきにおびえました。「終身雇用」は名実ともに崩れ始めています。

いま、盤石に見える企業も10年後には解体・再編の渦中にあるかもしれません。「いい会社に入れば生涯安泰」どころか、会社に入っても競争は続き、「いつ何があるかわからない」状態に転じているのです。

もはや、20年前のように、「いい学校を出て、いい会社に入るのが人生の幸せです」と言われても、にわかに肯(うなづ)くことのできない現実があります。ステレオタイプの受験競争や偏差値信仰はようやく過去のものとなりつつあります。

 

■■2015年2月17日
「不自由な生活」から「自由な発想」生まれるか

高度経済成長モデルが崩壊し、90年代後半から日本社会はデフレ不況と収縮型の社会へと変化しました。「学歴」や「偏差値」を絶対化する神話も崩壊し、「学びとは何か」「人が生きる上で必要な知力とは何か」という本質が問われる時代に入ってきました。

これまで、受験を前に行われてきた「詰め込み勉強」は、暗記力と早く迅速な情報処理力に重点が置かれていたのに対して、今後は「課題発見能力」「複合的な課題を結合する編集力」「目に見えない変化を見通す想像力」などが重視される方向へ舵は切られつつあります。

大学入試に詳しい「リクルート進学総研」の小林浩所長は「暗記した知識を再生するだけの入試を受けて大学に入ることがゴールだった時代は終わり、知識を活用する力を身につけて入学後も能力を高めることが求められ、偏差値だけで学校選びができない時代が来る。少子化で予備校や塾の再編も進んでおり生き残りをかけてカリキュラムを変えていく動きは広がるだろうし、多面的な力をどのように育成していくか、予備校だけでなく学校教育全体が変化を求められることになる」と話しています。(NHKニュース)

教育内容が単なる「暗記力」「情報処理力」であれば教えることも、評価することも安定した経験則が存在しています。一方で、学科を超えた学びや、自由な想像力、議論を通して認識を共有し高めていく力などを教えることが果たして制度化できるのだろうかという疑問があります。

制度設計をしていくのは誰でしょうか。それは、きっと文部科学省の官僚です。かれら自身が、これまでの教育制度にどっぷりつかって子ども時代を過ごし、成績や受験での「成功体験」を刻んできた存在のように思えます。「常識的な発想」「定番の処理」に手慣れた官僚が、新たな価値軸を提示していく制度設計をするためには、まず自らが変わる必要があります。

これから、文科省が取り組む大学入試改革を前に、「自由に発想する技術」、「創造性を高める教室」などが流行するかもしれません。しかし、「自由な発想」を「不自由な生活」からめざせというのは無理な話です。

親として心がけたいのは、制度の転変に右往左往しないことです。子どもは、自ら内側に育つ力を持っています。遊びの中から生まれる濃密な時間、全身をつらぬく感動、そして興奮と鎮静。子どもが子どもとして過ごせる環境を守るのが親の役割だと思います。

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2017年03月02日

教育革命~地域産業と教育の一体化に可能性

>学校教育:男女共学か別学か~生産活動に根ざした教育機関であることが先(リンク

「元来、教育は生産者を作り出すためにある。」

つまり、生産活動と切り離された教育では意味が無い、ということ。
「学校」のあり方、「学び方」を根本的に変えていかなくてはならない。
現状の学校(制度)は、無目的で現実と繋がらない勉強圧力ばかりで、子供たちの活力を下げるだけの害悪であり、そればか
りか思考停止人間を作り出す張本人である。だから、何の生産課題も無く、現実社会から切り離された無圧力空間たる学校教
育を、生産活動を軸とした教育機関に変えなければ、根本解決にはならない。

地域産業と教育の一体化が出来ないか、
そうすれば、教育改革も産業再生も地域活性化のもとに地域一体で取り組んでいける皆の課題となる。
行政と、生産者と、教育者と、子ども達(保護者)とがひとつになれば、何だって出来る気がする。

単に学校授業に職場体験を組み込んだだけでは、大きくは変わらないだろう。
単に学校で生産者が出張授業をしたところで、施設建設や単発のイベントを仕組んだところで、大きくは変わらないだろう。

地域産業には、その地域固有の歴史文脈があり、代々受け継がれてきた使命とともに歴史がある。
地域を守り、育てていくためには、歴史や人々の想いを時間をかけじっくりと教え、学び、血肉に染み込ませる必要がある。
地域のDNAを未来に脈々と受け継いでいくのは簡単ではないが、「ものづくり」とはそういうものだ。

新潟県燕三条の取組みを紹介する。

「ものづくりニッポン」という言葉をよく耳にする。
しかし、私たちは「ものづくり」の楽しさや大変さを、次の世代にどれだけ伝えられているのだろう。
そもそも、私たち自身は「ものづくり」をどれくらい知っているのだろうか。

例えば、毎日の食事で使われている包丁。
この包丁ひとつとっても、切れ味を出すためにどのような工程を経ているのかは、製造現場を見ないとわからない。
高度成長期以降、「燕三条」の大人ですらそうだった。
しかし、この地域では、約十年前から伝統継承の教育が始まった。
今、三条市内のすべての小中学校では、授業の中で和釘づくりや包丁研ぎなどを体験するまでになっている。

燕三条では、「ものづくり」を地域の文化と誇りとして子どもたちに伝承しようと、産業界とともに教育の仕組みづくりの努力を
続けてきた。燕三条が面白いのは、伝統継承についての問題意識をもつ大人たちが、「子どもが憧れる、ものづくりの現場」
を目指して改革に取り組んでいることだ。生きたキャリア教育を実現するためでもあり、職場そのものに魅力や将来性を感じ
てもらうためでもある。燕三条の産業とキャリア教育が一体になって起きたシフトには、日本の他地域がいかにして伝統文化
を継承していけばよいのか、そのヒントが隠されている。

燕市でも高度成長期以降は職人を目指す人が減り、後継者不足で廃業する工場も増えていった。
同時に宅地化が進み、工場は人々の視界に入らない工業団地などにどんどん移転していく。
そんな中、ものづくりのDNAを絶やさぬように、十年ほど前から小さな変化が始まった。
燕三条の学校教育に、地元の特色である「ものづくり」の現場を知ってもらう体験授業が組み込まれたのだ。

三条市では、子ども向けだけでなく、教員向けの教育プログラムにも力を入れている。
「三条学」講座と呼ばれ、三条市の教職員を対象に、彼らが三条の良さを子どもたちに伝えられるように、三条のヒトやモノ、
自然を知ってもらう内容になっている。「三条の子どもに教えるためには教師自身が三条のことを知らなくてはいけません。」
日本全国で見直されている「特色をもつ地域づくり」のヒントがここにあるのではないかと感じている。
大事なのは、自分たちの特色を発信することだ。地域の企業が行政と一体になり、自分たちの取り組みをオープン化して発信
することは、人に見てもらうために自らに磨きをかけて成長することにもつながる。そういう企業が集まると、産業全体もオープ
ン化して情報を発信することになるので、産業そのものが活気づく。

さらに、地域の特色を発信する相手を大人だけでなく、教育現場にも広げることで、子どもたちは自分たちのルーツに誇りを
もてるようになる。そうすることが、地域の未来には不可欠になってきているのだ。

参照:リンク

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2017年02月23日

古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する

1970年、豊かさ実現により、社会構造(パラダイム)が大きく変わった。
人々は「飢え」を前提に、力のあるものに従わざるを得ないという、力の原理=本能的条件が無効となったこと。
その結果、力の原理=序列原理で成立している国家権力が、ますます強制圧力(制度・法律)を強めている。
しかし、強制圧力を強めるほどに、現実社会と乖離し、単なる制度圧力として人々を苦しめているのが現在の姿。

あちこちで「制度疲労」が起こっている。
力の原理はもはや働かない以上、国家機構の暴走の果てに、強制制度は自滅するしかない。
主に結婚制度について、ネットから人々の声を拾ってみた。

◆結婚制度について思うこと〜世界から取り残される日本〜(リンク
 厚労省の調査で比較されるこの20年間の各国の変化を見ても、経済大国第3位の我が国の「結婚制度」は、
 明らかに「制度疲労」を起こしている。

◆結婚に代わる未来の制度(リンク
 結婚制度は確かに古くて制度疲労が起きている。
 旧来の感情的な価値観にささえられている結婚制度から感情を抜いたとき、そこに残るのは個別および全体最適のための仕組みである。

◆「年収600万円以上あるのに結婚したがらない男の本音」について考える(リンク
 結婚制度が現代という時代にそぐわず、制度疲労を起こしているのではないかと思います。
 結婚制度も、時代に合わせて変えればよいと思います。

◆そろそろ結婚制度自体を見直したら?(リンク
 世界的に見ても、結婚という制度自体が、もはや明らかに制度疲労を起こしつつある。
 少子化が進む中、子育てにかかるコストの多くの部分は社会全体で負担していくべきものだという考え方が定着すれば、
 子育てのために婚姻関係を継続しなければならない理由は徐々に希薄なものとなっていく。

◆『事実婚 新しい愛の形』(リンク
 なぜ若い男性が結婚したがらないか。
 その最大の理由は、彼らにとって今の日本の婚姻制度が『重すぎる』からである。
 ここまで結婚しない若者が増えてきたということは、従来の結婚制度を見直す時期が来ているのかもしれません。
 日本における結婚制度が制度疲労を起こしているという見方もできるでしょう。

◆ニッポンの働き方と家庭のあり方は問題だらけ(リンク
 男性にとっても、女性にとっても問題の多い働き方と家庭のあり方。
 今、女性が家庭の中で使っている時間をただ就労に回せばよいとうことではなく、日本社会の制度疲労の問題だと思うんです。

◆日本の学校システムはすでに崩壊している。(リンク
 現代の教育システムが、子供たちが社会に出たときに働くその職場環境に果たして合致しているのでしょうか。
 というか、親の世代からして、その親が働く職場環境は、もう日本の学校システムが想定するものとは大きく違ってきてしまっています。
 日本の学校は明治期以来の一方通行型の一斉授業からほとんど変わっていないからです。

 

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2017年02月16日

「脱○○」で思考が自由になる!

・「脱学校」の潮流が始まった!(リンク
・結婚制度は崩壊寸前!?~個人の自由と集団再生の綱引き(リンク

脱学校、脱結婚、脱市場、、、
近代社会が作りあげてきた強制的な制度が崩壊しようとしている。
かつての「反」でも「非」でもなく、「脱」という動きで、人々は動き始めた。

「反」は単に否定して終わり、何も生み出さない。
対して「脱」は、強制からの解放、新たな道を探ること、可能性に向かうこと、、、

面白いブログ記事があったので紹介しよう。

 

「脱◯◯」でブログネタ量産!自由になれる思考ツール♪
脱なんとか、って脱サラが始まりなんでしょうか?誰が言い出したのか知らないけど、最近増えてる気がする。
これ、いい表現だな〜。 コピーライターだけのものにしておくのはもったいない。

「反対」(反)でも「否定」(非)でもじゃないところがいい。
その土俵ごと、古いですよ、ってニュアンスがあって。
同じ土俵で賛成も反対もしませんよ。もうそこからは脱出しますからね。っていう。

 

もーやだーって何かに嫌気がさしたときにおすすめ
とりあえず「それ」に「脱」つければいいですね。
それだけで、とりあえずその嫌なものの根本からちゃぶ台ひっくり返せる土壌ができます。

脱会議・・・会議なんてそもそもいらない!?
脱恋愛・・・恋愛ってしないといけないもの?
脱営業・・・(その)営業じゃない方法もあるかも?
脱ダイエット・・ダイエットってなんのためにしてるの?
脱健康・・・あれ?健康ってなんだっけ?
脱育児・・・育児こうあるべき、があるから辛いのかも?
脱学校・・・学校に行かずとも・・・?
などなど。

 

ブロガーにおすすめ
ちょっと考えるといくらでも作れて楽しいです。
脱、って思考を自由にする便利ワードなんだなあ。
ブロガー的には、困ったら脱つけてみようっていうワザはありかもね。笑
脱というからには、じゃあなんなんだ?っていう、明確に新しい提案が必須になっていい頭の体操になります。

脱残業
脱モテ(非モテではない)
脱正規(非正規ではない)
脱就活
脱起業
脱結婚
脱成長
・・・まだまだ普通かも。

脱ブログ
脱コミュニティ
脱食事
脱性別
脱不倫
脱女
・・・この辺になるとちょっとひっくり返りレベルが高くなる感覚。

 

たとえば、最近思うこと。
反戦じゃなくて脱戦争がいいなあ。
フランス人がテロでたくさん亡くなって、テロは許せないという。
あるいは、フランス人だけじゃなくて全世界のテロや紛争などで亡くなった人へ思いを馳せようという。
犠牲になったフランス人だけに追悼するのでも、全世界の犠牲者に思いを馳せるのでも、戦争やテロに思いを馳せるのと変わらない。
「Pray for France!」
「戦争反対!」
そう思うとき、テロや戦争のことをイメージする。そのイメージに囚われちゃう。
全世界でテロ、紛争は絶えないんだな、怖いことだな、悲しいことだな、もう起きてほしくないけど、いまも戦っている人はいるんだ・・・
そんなことを考えちゃう。

戦争なんていらない
戦争でお金を使うなんてバカみたい
経済のために戦争するなんてもういやだ
そんな戦争で殺し合わされるなんてくだらない

そう思うなら、祈ってる場合ではなく、
そのすべての文脈、イメージから脱出するのがいいのかもしれない。

就活なんていやだ!と思ったときに、脱就活の考え方で、
いわゆる「就職活動」とまったく違うことをしているうちに就職活動の必要性とか重要性は消えているように、

戦争なんていやだ!と思ったときは、脱戦争の考え方で、「戦争」のすべての文脈から脱出する。
祈ったり戦争反対デモをしたり意思表明をしたりするのではなく、
まったく逆のことをやっていれば、戦争の存在感が薄れていくのかもしれない。

抜け出したい「現実」とやらに「脱」をつけてみれば、
新しい自分仕様の世界が開けるぞー!

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2017年02月09日

勉強も部活も「強制」、どこに「自主」が存在するのか?

今や学校は、勉強だけでなく、部活も「強制」、ブラック部活であるという。
どこに「自主」が存在するのだろうか?
我慢も限界を超え、学校から離脱する流れが加速するのも無理はない。
どんな状況なのか、記事を拾ってみた。

 

なぜ中高の「部活動」は”強制”になったのか?リンク
子どもたちも先生も疲弊している!
本来は「やりたい人がやるもの」なのに、なぜか「やらなければならない」ことになっている中学・高校の部活動。
“強制”化してしまうのは、一体なぜなのか?

当初は志をもった先生たちの自主的な取り組みとして設計されていたんですが、学校週5日制導入に向けて1989年に
学習指導要領が改訂されたとき、“クラブ活動の代替”という位置づけになったんです。
それによって事実上カリキュラム内に入り、“必修”に近い形になってしまいました。
あともうひとつ背景があって、1980年代に「子どもをペーパーテストだけで評価していいのか?」という問いから
「もっと多様な能力で評価しよう」という流れが出てきました。それで入試のとき、
「勉強だけではない」基準として、スポーツや芸術活動を行う“部活動”が評価されるようになった。
つまり、部活動が“成績”として受験に響くものになった、、、

 

子どもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情リンク
丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前
性論で健康を害するほどの練習を強いられ、絶対権力者の顧問に意見もできない。
そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる?

 

中学の部活動は「素人指導」のままでいいのかリンク
この時代の出会いが”スポーツ人生”を変える

 

少年スポーツを「成果主義」で測る”異様”リンク
「勝つか、辞めるか」を子に迫る大人たち
都内で小学生の女子サッカーチームでコーチを務める男性は耳を疑った。
「今日ね。試合で5回ボールをさわらなかったら、サッカーやめなさいってママに言われたの」

 

学校は、なぜ「治外法権」になってしまうのかリンク
巨大組体操、PTAの背景に潜む問題
たとえば、部活動は今、成績評価につながってしまっているんです。
聞いた話では、大学入試の面接で「あなたのいいところは?」って質問されると、多くの生徒が「部活動」のことを言う。
「勉強で1番をとった」とか言う子はいない。
1980年代に学力の多様化ということが言われて、
部活動というものが子ども全体を見るときの大きな軸になってしまったんです。
そのため、たとえ周囲が「部活動はやらなくていいよ」と言っても「でも進学に関係があるし」ということで、
やらざるをえない作用が働いてしまう。

 

箱根を制した青山学院・原監督の「仕事語録」リンク
「僕は陸上の人というより、ビジネスマン」
「ビジネスマンとしても通用する人間を育てたい」
「自分自身で目標を決めて、その具体的な事例を自分の言葉で書き込む。
そうすることが『自立』につながっていきます。
今できることの半歩先を見つめながら、少しずつ向上していくだけでも、4年間でものすごい成長があるはずなのです」

 

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