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2017年06月22日

赤ちゃんの言葉の発達過程から、人類の言語の登場過程を推定する

胎児→乳児→幼児に成長していく過程は生命の進化過程をなぞっている。ということは、言語の登場過程を解明する鍵も、赤ん坊にある。

『赤ちゃんの進化学』(西原克成著)によると、赤ん坊は一歳までは身体構造上、気管と食道が分かれている。これは、サルをはじめとする哺乳動物と同じであり、身体構造的に言葉を発することができないらしい。

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胎児では、受精後、単細胞から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

しかし、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえている。

一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

赤ちゃんは、母親の乳首に吸いついて数分間、息継ぎもせずにお乳を飲む。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、大人の人間にはできない。つまり、大人は食べ物や飲み物を飲み込むとき息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも飲み込める。

大人は、食道と気管が交差しているが、赤ちゃんは、この食道と気管が分かれていて、食道と気管がそれぞれの働きを同時にに行うことができるからである。サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物と同じ段階にある。

成長した人間だけが他の哺乳動物と異なる喉の構造になったのは、人間が言葉を話すようになったためである。
声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が吠えるときは喉を激しく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)。これは、かなり努力を要する特別な作業である。赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

気管と食道が交差してある程度、人間の構造を備えてくるのが、一歳ごろだといわれている。
二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。そして、三~五歳ごろに脳細胞が急激に発達する。

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だとすれば、①人類が言葉を話し始めたのは赤ん坊の成長段階でいうと1歳頃に相当する。②2歳に相当する段階でかなり言葉を話せるようになり、③3~5歳に相当する段階で急速に頭脳が発達した(言葉がしゃべれるようになっていきなり脳が発達するわけではない。おそらく、この3~5歳の脳発達に相当するのが現生人類の数万年前の急激な知能進化→道具や壁画の進化であろう)。

赤ん坊が1歳になる前に焦点を当てると、もう一つの顕著な変化がある。

生後数ヶ月の赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞き分けられるらしい。それが、1歳を迎える前に大きな変化が起き、自国語に応じた脳構造に変化するらしい。

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「赤ちゃんは、あらゆる言語の音を聞き分けられる」

東京の赤ちゃんと シアトルの赤ちゃんについて 「ra」と「la」を聞き分けるテストを行なった所、生後6~8ヶ月の赤ちゃんでは違いが見られなかった 。それが2ヶ月たつとアメリカの赤ちゃんは成績が良くなり 日本の赤ちゃんは悪くなる。
赤ちゃんの頭の中で言語の統計処理が行なわれており、赤ちゃんは言語の統計を吸収し それが脳を変化させる。

第2言語に接したことのないアメリカ人の赤ちゃんに、生後8~12ヶ月の言語習得の臨界期に初めて中国語に触れさせると、10ヶ月半ずっと中国語を聞いてきた台湾の赤ちゃんに劣らぬ、良い成績になった。赤ちゃんは、新たな言語に対して統計処理をしている。何語であろうと赤ちゃんは接した言語を統計処理する。

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まとめると、こういうことになる。

一歳になるまでに、①赤ん坊の身体構造(喉)は、気管と食道が交差するようになり言葉が話せるようになる。②それまでは、赤ん坊はあらゆる言語の音(波動)を聞き分けられる脳機能を備えているが、生後8ヶ月~1歳までの間に周囲で話されている言語に特化した脳構造に変化する。

原始人類が言語機能を獲得した時も同じ過程を踏んでいるはずである。

赤ん坊生まれた時が、500万年前カタワのサル=人類が登場した時だとする。3~5歳の急激な脳の発達が10~3万年前の現生人類だとする。それから推定すると、人類の言語機能の発達過程は次のようになる。

1歳児≒350~300万年前に喉の気管と食道が分かれた。同時に、それまで人類はあらゆる波動を聞き分ける聴覚(脳機能)を備えていたが、言語機能に特化した聴覚(脳機能)に変わる。小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)もこの段階で進んではず。

2歳児≒200~100万年前の間に、かなり言葉を話せるようになり、

3~5歳時≒10~3万年前に急激に脳が発達し、道具や壁画が発達する。

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2017年06月15日

言語機能を司る脳の構造(小脳の発達と照準力を司る左脳シフト⇒右脳の抑制制御)

人類も鳥類も、運動機能を司る小脳の進化によって、言語機能を進化させた。
一度自転車に乗ることを覚えたら一生忘れないように、運動機能⇒小脳の記憶力は絶大である。

『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』(中田力著 紀伊国屋書店)の要約。

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カナリヤが歌を歌うために用いる脳に優位があり、その内容は学習による。カナリヤは人間の言語同様に、片側の脳を優位に使って歌を歌い、父親から最初の歌を習う。

ここに、ヒトの言語が生まれてきた秘密を解く鍵がある。 脳の機能画像で確認されたが、言語と音楽とはヒトの脳にとっては、ほとんど同一の機能である。これは 言語機能の発生にとって高い知能が必ずしも必須でなかったということを示す。 オウムも九官鳥もカラスも人間の真似で言葉を話す。ヒトの言語は高度の知性にもとづいているが、高い知性を獲得しなかった鳥は知性の高くない言語しか持っていない。

ヒトも鳥も小脳の機能を顕著に進化させることで、運動機能の飛躍的進化を果たした。事実、ヒトの脳が相対量として最も増加させた脳は小脳であり(絶対量としては前頭葉)、鳥の脳で中心を占めるのも小脳である。
言語機能は運動系の進化、小脳の進化から生まれてきた。ヒトの祖先は高度化した声を出す運動機能を用いて、言語を生み出した。
言語機能にとって小脳が重要な役割を果たすことは、自閉症の研究によって知られる。言葉を発しない子供たちに共通するのは、小脳の未成熟度である。
鳥類は小脳の進化によって運動機能を進化させ、飛行を実現した。その運動機能を発声に応用する種が生まれ、音楽機能を獲得したが、鳥類は高度な知能はなく、歌を歌う能力とオウム返しの言語能力しか獲得できなかった。

歌う鳥はその音楽機能に片側の脳を優位に使うのと同様に、ヒトも言語機能に優位半球を持つ。
ヒトでは左脳と右脳で機能が乖離しているが、歌う鳥にも同じような機能乖離がある。このことは、言語機能の基本構造が優位半球を持つことが必須であったことを意味する。
その必須条件とは何だったのか?何故、両側の脳を使っていてはいけなかったのか?
発声に使われる筋肉は、元々、呼吸とか食物の摂取とか、生きてゆくための基本的な動作に必要な筋肉(球筋)である。球筋を支配する神経に出発点が延髄である。 球筋の特徴は、左右両方の脳から支配を受けることである。

ここに優位半球登場の秘密を解く鍵が隠れている。
全身の筋肉は左右対称に存在する。一部の例外を除き、身体の右側にある筋肉は左の脳、左側にある筋肉は右の脳に支配される。 ところが、球筋は左右両方の脳の支配を同時に受けている。両側の脳からの支配を受けていれば、片側の脳に障害が起こったとしても球筋の麻痺は起こらない。呼吸や食物の摂取など生命の維持を左右する筋肉は麻痺しない。しかし、両方の脳が健全な時には、ちょっと働き難い。左右両方の脳の正確な同期を要求するからである。

 ヒトは調音器官に高度の運動機能を獲得することで言語機能を獲得した。その調音器官の中心的な運動は球筋によってなされるが、球筋は、左右の脳の両方から支配を受け、単純作業をやるものと決められていた筋肉である。 球筋の主な仕事である呼吸とか食物の摂取などは、ほとんど一定の作業である。随意に動かす場合でも自由な動きをさせることはできないので、言語機能という繊細な運動機能には向いていない。

 そこで、脳は言語機能に関する運動においてのみ、球筋への命令を与える権利を片側の脳に優先的に与えることにした。
しかし、基本的な球筋の運動の両側支配は残したまま、言語運動のときだけ片方の脳に支配させる機構を作ることは容易ではない。
言語運動は随意運動であるが、球筋の随意運動に対して左右の脳にランクをつける仕組みが生まれた。 脳は、随意運動を開始する信号を受けて、自動的に片方の脳の支配を押さえ込む制御装置を作った。随意運動の開始が自動的に片側の脳の支配力を低下させ、その結果、片側の脳が球筋の運動支配に優先権を持つようにした。優位半球の登場である。これを抑制制御といい、抑制制御の装置を加味することで、両側支配の構造を変えずに、片側支配を作り出すことができる。言語機能という随意運動の場合のみ、球筋への支配は優位半球からの信号が優先される。

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言語機能の場合だけ、右脳の支配を抑制制御する仕組みを脳は作り上げた。これが言語機能における優位半球(左脳優位)である。

『るいネット』「哺乳類の逆境からの進化適応が、右脳と左脳を接続する脳梁を生み出した」にあるように、右脳が360度の(外圧)情報探索、左脳が照準力を担っている。

以上を踏まえて、言語機能がどのようにして登場してきたのか?

人類はサル時代から表情や身振りを頼りにしてきたが、それらの情報を含めて全ての情報は、意識や集団を共認統合するためにある。その統合度を上げるためには、刻々と変化する意識を固定・定着させた方がよい。そのために生み出されたのが言葉である(さらにその先には言葉よりも一段と固定度の高い文字が生み出された)。

この言語機能による意識の固定化とは、360度の外圧情報の中から照準を絞り込む照準力と非常に近いものがある。すなわち、言語によって意識を固定化するためには、強力な照準力が必要とされるので、そのために照準力を司る左脳シフトが行われた。
言語機能がデジタル構造(タコツボ構造)になるのも、一点に照準を絞り込む照準力の成せる業であろう。
これが、言語機能における優位半球(左脳優位)が形成された理由ではないだろうか。

外圧情報のキャッチは生物にとって最も根底的機能かつ重要な課題でなのであって、外圧情報のキャッチ担う右脳機能を抑制するのは生物にとって危険な行為である。それほど重要な右脳(外圧情報の探索機能)を、人類が抑制制御した理由は何なのか?

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2017年06月15日

生涯未婚率急上昇! 国家が足元から崩れようとしている

【生涯未婚率】男性23%、女性14%に急上昇 「皆が結婚する社会こそ異常」と指摘する専門家も

50歳まで一度も結婚をしたことがない人の割合を示す「生涯未婚率」について、2015年の国勢調査の結果、男性で23.37%、女性で14.06%にのぼったことがわかった。前回の2010年の結果と比べて急上昇し、過去最高を更新した。
今回の調査では、男性のおよそ4人に1人、女性のおよそ7人に1人が生涯未婚であることがわかった。

 

文書 1

 

未婚率の上昇カーブには驚いた。
男性は90年、バブル以降に急上昇している。
女性は05年から急上昇、収束不全が顕在化して以降か。
このまま進むと日本はいよいよヤバくなる。どうする?

子供たちは学校で試験のための勉強ばかりを強いられ、やる気を失い、思考停止人間が量産される。
仕事をするようになっても、国家をあげて長時間労働を締め付け、活力源であるはずの働きがいまで奪われようとしている。
そして未婚率の急上昇、、、国家統合の最小単位である「家族」はすでに崩壊している。
加えて、社会の最基盤にある男と女の充足関係は、ますます刹那的になっているように思える。

国家が足元から崩れれようとしているのに、政府は共謀罪やら憲法改正やら強制統合を進め、権力維持しか頭に無い模様。
しばらく教育関係を扱っていたが、また男女関係、家族、地域、共同体などの視点で追求してみる。

恋愛至上主義や個人主義が進んだ結果、ついに結婚制度が崩壊へ
古い強制制度は「制度疲労」を起こし自滅する
結婚制度は崩壊寸前!?~個人の自由と集団再生の綱引き
結婚はオワコン!?~制度崩壊の先の、男女の性充足関係を如何に再生させるか!

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2017年06月08日

経産省 次官・若手プロジェクト「不安な個人、立ちすくむ国家」への違和感

経産省の「次官・若手プロジェクト」がネットで注目を集めている。
行き詰った国家統合に若手官僚が声をあげたことは○だが、本来それが統合者の役割である。
しかし、それにしては極めてお粗末な内容である。

「不安な個人、立ちすくむ国家」
まず最初に、このタイトルに違和感を感じる。個人と国家という枠組み。
個人のために国家があるのか、国家は個人のためにあるのか。
個人が主体となったのは戦争が始まった5000年前以降、日本においては村落共同体が解体されていく明治以降に過ぎない。
人類500万年の歴史において、99.9%は集団第一の時代であり、個人が主体の時代は人類史上極めて異常な状態といえる。

こと日本においては一部の地域では戦後も夜這い婚が続いていたなど、村落共同体の様式を色濃く残している。
西欧に追いつけ追い越せとばかりに、近代思想を輸入し、学校教育で洗脳し、個人の自由を夢見させ、国家を挙げて市場化に精を出した結果が、現在の行き詰った姿に他ならない。であれば、まず近代の総括が必要であろう。

先日の「実現塾」では、愛・人権・平等などといった感応観念のもつ支配力の強さについて考えさせられた。たしかに近代は、自由・平等・博愛にはじまる近代思想に導かれ、誰もが個人の自由・恋愛へと私権獲得に収束した。その言葉自体だれも真っ当に説明できないが、誰もが納得する力をもつ、それは何故なのか?

本来、言葉は洞窟に隠れ住んでいた仲間に伝えるために生まれたもの。仲間発、集団発である。
それに対し感応観念は、個々人の心の内にある自我に訴えかけたもの、個人発の言葉である。
だから誰も傷つけないし、誰からも受け容れられる。しかし、集団にとっては「個人の自由」は敵対物に他ならない。
感応観念たる近代思想は個人発の、個人が主体の観念である。
ちょうど戦争が始まって古代宗教が生まれ、近代国家のはじまりに近代思想が生まれたことが符号する。
集団から個人へと転換するには、個人主体の観念が必要だったということ。

そして今、個人が主役の市場社会は終焉を迎えようとしている。
にもかかわらず、個人発の観念でしか社会を捉えれられないのが、試験の勝者にすぎない官僚の限界である。
これは学者も政治家もマスコミもみな同じである。
近代思想を疑うどころか錦の御旗に私権社会を勝ち抜いてきた彼らに、自らの基盤を否定し新たな観念を生み出すことは出来ない。

不安な個人に、国家が答を出そうとするのが、そもそも間違いではないか。
現実に生きる不安な個人、その不整合・危機感の集合体が、自らの生きる場を自分たちで作っていくうねりとなる。
それこそが、いわゆる「民主主義社会」であり、日本人の誰もが心底にもつ「共同体社会」への実現の道である。

不安な個人、立ちすくむ国家
~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~

かつて、人生には目指すべきモデルがあり、自然と人生設計ができていた。
今は、何をやったら「合格」「100点」か分からない中で、人生100年、自分の生き方を自分で決断しなければならない。
世の中は昔より豊かになり、日々の危険やリスクは減っているはずだが、個人の不安・不満をこのまま放置すると、社会が不安定化しかねない。我々は、再び「権威」や「型」に頼って不安・不満を解消するのではなく、「自由の中にも秩序があり、個人が安心して挑戦できる新たな社会システム」を創るための努力をはじめなければならないのではないか。

人類がこれまで経験したことのない変化に直面し、個人の生き方や価値観も 急速に変化しつつあるにもかかわらず、日本の社会システムはちっとも変化できていない。このことが人々の焦り、いら立ち、不安に 拍車をかけているのではないか。
なぜ日本は、大きな発想の転換や思い切った選択ができないままなのだろうか。

今後は、人生100年、二毛作三毛作が当たり前。
にも関わらず、「昭和の標準モデル」を前提に作られた制度と、それを当然と思いがちな価値観が絡み合い、変革が進まない。これが、多様な生き方をしようとする個人の選択を歪めているのではないか。

みんなの人生にあてはまり みんなに共感してもらえる「共通の目標」を政府が示すことは難しくなっている。

戦後、日本は、世界に誇れる社会保障制度の構築に成功し、公平性を維持した経済成長を実現。
しかし、本格的な少子高齢化が進むなか、過去に最適だった仕組みは明らかに現在に適応していない。
既に人々の価値観は変化しつつあるにもかかわらず、過去の仕組みに引きずられた既得権や固定観念が改革を阻んでいる。
「シルバー民主主義」を背景に大胆な改革は困難と思い込み、誰もが本質的な課題から逃げているのではないか。

このままでは、いつか社会が立ちゆかなくなることは明らか。
若い世代には、そんな日本を見限って、生活の場を海外に移す動きも出てきている。
従来の延長線上で個別制度を少しずつ手直しするのではなく、今こそ、社会の仕組みを新しい価値観に基づいて抜本的に組み替える時期に来ているのではないか。
①一律に年齢で「高齢者=弱者」とみなす社会保障をやめ、働ける限り貢献する社会へ
②子どもや教育への投資を財政における最優先課題に
③「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に(公共事業・サイバー空間対策など)
これにより、個人の帰属・つながりを回復し、不確実でも明るい未来を実現する。

2025年には、団塊の世代の大半が75歳を超えている。
それまでに高齢者が支えられる側から支える側へと転換するような社会を作り上げる必要がある。
そこから逆算すると、この数年が勝負。
かつて、少子化を止めるためには、団塊ジュニアを対象に効果的な少子化対策を行う必要があったが、今や彼らはすでに40歳を超えており、対策が後手に回りつつある。今回、高齢者が社会を支える側に回れるかは、日本が少子高齢化を克服できるかの最後のチャンス。

2度目の見逃し三振はもう許されない。
日本は、アジアがいずれ経験する高齢化を20年早く経験する。
これを解決していくのが日本に課せられた歴史的使命であり 挑戦しがいのある課題ではないか。
日本社会が思い切った決断をして変わってみせることが、アジア、ひいては国際社会への貢献にもつながるのではないか。

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2017年06月01日

教員も軍隊式の強制教育を受け養成された

学校において生徒たちにとっての教員とは、絶対的な存在である。
学校制度ができた明治時代には、その教員を養成する師範学校が重要な役割として設立されている。
師範学校の生徒(将来の教員)は、徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入され、
兵式体操で身体を訓練し、全員が寄宿舎生活をし、帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されたという。
教員もまた軍隊式による強制教育を受け、養成されたのであった。
(※学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。)リンク

 

近代的教職像の確立と変遷
1885年、太政官制に代わって内閣制度が導入され、伊藤博文が初代首相に任命される。
伊藤により米国、英国などで外交官を経験していた開明主義者の官僚、森有礼が初代文部大臣に任命される。
西欧化による国民の啓蒙を続行しつつ、天皇を中心とした日本人としての国民意識形成と倫理的行動原理を育成強化するというという重要な 課題と、明治初期から目前の必要をみたすために応急的、試行錯誤的に進められてきた教育事業を整理して、一貫した教育体系を作り上げる課題が森有礼に課せられた。

この森文相によって、1886年に「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が 公布され、この後の日本教育発展の基盤となる教育制度の基本的骨格が形成されることになる。
1890 年には教育勅語が発布される。
その直前に行われた小学校令の改正では、「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及 国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨スト」として 小学校教育の目的が規定され、道徳教育、国民教育、普通の知識技能の習得の三本柱で構成される初等教育の目的が明示された。この目的規定はその後50年にわたって変わることなく維持された。

森文相は、国民教育における初等学校教員の重要性を認識しており、師範学校の役割を重視した。
森の制定した師範学校令第一条は、次のように規定した。
「師範学校ハ 教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシム ルコトニ注目スヘキモノトス」。
ここで注目されることは、法令の条文でわざわざ、未来の教員に「順良」「信愛」「威重」という三つの気質ないしは徳性を植えつけること をめざすと書き込んでいることである。
森の案では、当初は、それぞれ、従順、友愛、 威儀と表現されていた。こちらの方が分かりやすい。
師範学校の生徒が身につけるべき理想的な資質は、「順良、信愛、威重」すなわち、上長の命令に従属すること、同僚に愛情あふれた信頼を寄せること、児童の行動や態度を重々しく威厳をもって統制するということにされたのである。

未来の教員に徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入することを目指す。
生徒は、兵式体操で身体を訓練し、また全員が寄宿舎生活をして帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されることになる。生徒には、兵役の免除、授業料や食費の無償、衣服や雑費の支給などの特権が与えられた反面、 卒業後一定期間の教職への奉職義務(男子10年、女子5年)が課されていた。また、中等学校教員および師範学校の教員を養成するための機関として、高等師範学校が設置された。

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2017年06月01日

気候変動と日本史

気候と日本史

上記画像および下記年表は、ブログ「家・街・考」からお借りしました。

大きくは、600~700年は寒冷期→700~1300年は温暖期→1300~1800年は寒冷期→1800~現在は温暖期だが、途中でも急激な寒冷化や温暖化が見られる。

●600~700年(寒冷化)
・587年:蘇我氏が物部氏を滅亡
・618年:隋が滅亡し、唐が中国を統一、律令制を整備
・644・661・667年:唐が高句麗に出兵し、朝鮮半島の戦乱が激化
・645年:大化の改新=中大兄皇子・中臣(のちの藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害
・660年:唐+新羅連合軍が百済を滅亡
・663年:白村江の戦い=日本+百済連合軍が唐+新羅連合軍に敗戦
・668年:唐+新羅連合軍が高句麗を滅亡
・676年:新羅が唐に敵対・戦勝し、新羅が朝鮮半島を統一
・672年:壬申の乱=天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が天智天皇の子・大友皇子に戦勝
・694年:藤原京が完成=持統天皇が皇位継承
・701年:大宝律令=法律で統治し、公地公民を規定

●700~800年代後半(温暖化)
・710年:平城京へ遷都
・743年:墾田永年私財法=新規開墾した土地は私有でき、子孫への相続や売買も自由に
・794年:桓武天皇が平安京に遷都
・797年:坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、朝廷が東北地方の蝦夷に派兵し、反乱を鎮圧

●800年代後半~900年(寒冷化)
・894年:遣唐使の停止
・907年:唐が滅亡、五代十国時代に

●900~950年(急速な温暖化)
・935・936年:新羅が滅亡し、高麗が朝鮮半島を統一
・939年:平将門の乱(関東地方)
・939年:藤原純友の乱(瀬戸内海地方)

●950~1000年(寒冷化)
・960年:宋(北宋)が中国を統一
・1016年:藤原道長が摂政となり実権を掌握

●1050~1200年(温暖化)
・1051年:前九年の役(東北地方)=源頼義・義家父子が地元の有力豪族・安倍氏を滅亡
・1083年:後三年の役(東北地方)=源義家が地元の有力豪族・清原氏の内紛に介入して平定
・1086年:白河上皇の院政開始=白河上皇→鳥羽上皇→後鳥羽上皇と院政が継承
・1156年:保元の乱
・1159年:平治の乱
・1167年:平清盛が太政大臣に就任
・1185年:壇ノ浦の戦い=源氏(源義経)が平氏を滅亡
・1192年:鎌倉幕府開設

●1200~1300年代前半(寒冷化)
・1206年:チンギス・ハンがモンゴルを統一
・1221年:承久の乱=幕府(北条氏ら)が朝廷(後鳥羽上皇)に戦勝、幕は六波羅探題で朝廷を監視
※御鳥羽上皇の味方の貴族・武士の西日本の領地を没収し、功績のあった東日本の御家人をその地頭に任命
・1232年:御成敗式目=執権・北条泰時が武士の法律を制定
・1271年:モンゴル帝国のフビライ・ハン(5代)が中国統一し、元の皇帝に
・1274年:文永の役
・1281年:弘安の役
・1297年:永仁の徳政令=困窮化対策に、御家人の所領の売却・質入禁止、御家人の元所領の無償返却
・1333年:鎌倉幕府が滅亡
・1333年:建武の新政=武家を排除し、後醍醐天皇を中心にした公家政治
・1336年:南北朝の動乱=武士の不満から挙兵、京都の北朝と吉野の南朝(後醍醐天皇)に分裂
・1338年:足利尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府開設
※ 守護には軍事費用の調達を名目に権限が強化され、武士や荘園・公領を支配下に組み込んでいき、領国化していったが(守護大名)、一部の武士や農民は団結して一揆等で対抗

●1300年代前半~1400年(温暖化)
・1368年:元がモンゴルへ退去し、明が中国を統一
・1392年:高麗滅、朝鮮国(李氏朝鮮)が朝鮮半島を統一
・1392年:足利義満が南北朝を統一
・1404年:足利義満が日明貿易を開始

●1400年~1500年代前半(寒冷化)
・1428年:正長の土一揆=京都近郊の惣が団結し、借金帳消・土地返却のため、土倉・酒屋等を襲撃
・1467年:応仁の乱
・1485年:山城の国一揆=武士と農民が管領で守護大名の畠山氏を追い払い、約9年間自治
・1488年:加賀(石川県南部)の一向一揆=浄土真宗信者が守護大名を自害に追い込み、約93年間支配

●1500年代前半~1600年(温暖化)
・1560年:桶狭間の戦い
・1573年:室町幕府が滅亡
・1590年:豊臣の全国統一
・1600年:関ヶ原の戦い
・1603年:徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開設

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2017年05月25日

江戸時代の試験制度に対する反対論・慎重論

江戸時代以前の日本では庶民は試験と無縁であったが、武士が通う各藩校では試験による評価が行われていた。但し、その主要な目的は選抜ではなく武士の学習を奨励することが目的であった。一方、儒学者たちも試験制度に対する異論を提起している。
「江戸時代の評価における統制論と開発論の相克-武士階級の試験制度を中心に-」国立教育政策研究所紀要第134集(橋本昭彦)から引用します。
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●江戸時代は私塾や寺子屋では試験が行われていた例はほとんどみつかっていない。
試験による評価は武士層が学ぶ藩校でみられ、名称も「試験」「試業」「吟味」「考試」「試み」「お試し」などと一定せず、その種類・
目的・運用実態はそれ以上に多様である。
試験制度が諸藩に広まり始めたのは、幕府が学問吟味 (1792)・素読吟味 (1791)を導入した後であるが、諸藩の試験制度の多くは武士たちの学習を奨励し、統制するためにあった。

●試験制度に対する異論
【1】立身出世のための学問への反発
 出世を願って学問に励むということ自体への反発がある。もともと、孔子の教えの中に「立身出世」の文字は無く、「学べば稼ぎはその中にあり」「富貴はあとから付き従ってくる」という考えである。
享保の改革時に、各種の学事振興策を検討した室鳩巣も、「然れども自分に立身を願い申し書く、是れ以て士の風儀を失ひ申す事に御座候」「我と年労を自ら陳べ候て官位を乞い候事、第一士の廉節を傷ない申す事に御座候」と述べて 、立身を願う心根と廉節の気持ちが両立しないとしている。

【2】競争至上主義の弊害への懸念
 じつは、この観点は、幕府にあって学問吟味の路線を敷いた儒者の柴野栗山自身が問題意識を披露している。すなわち、栗山は中国での先例からみて試験による学事奨励効果は大いに期待できる、としつつも、「しょせん対症の御処置」だと述べ、根本的な施策では無いことを示唆している。げんに、競争的な試験にすることの弊害は、すでに第一回の学問吟味の時点で、学問所関係者をとらえている。
第一回学問吟味は、林大学頭らと幕府目付たちとの採点基準が違うことから、褒賞者名も発表できず、事実上「流れ」ている。それも、目付たちが上位 50人の相対評価で優等成績を出すことを主張したのに、大学頭側が絶対評価によって水準を確保しなくてはならないと譲らなかったためである。
 室鳩巣と学統的にも縁の深い金沢藩でも、学問吟味方式の試験による競争至上主義への批判が儒者の一人、大島清太から上がっている。すなわち、名前を張り出して競わせるのは「学者を教える法にあらず」とした北宋の儒学者・程伊川の言葉に寄せて、学事奨励型の試験ではなく、個人指導型の試験制度に戻すことを要求して藩校・藩当局と争った。

【3】「稽古」としての試験の推進
 褒美ねらいの競争としてではなく、個人指導型の試験を志向したのは、ひとり金沢藩の儒者だけではなかった。幕府の昌平坂学問所でも、「三八試業」「三八朝試」などと称されて三の付く日と八の付く日に行われていた平常試験も、教師による稽古人への指導的な試験として行われていた。その試験の様子は、幕末の教育改革についての文書綴りの中に、1865(慶応元)5 月に林大学頭から若年寄・田沼玄蕃頭に宛てて出された学政改正の上申書には、次のような意見があり、三八試業の実態の一端を知ることができる 。
これを見ると、稽古人は一人一人のテキスト(持ち株)を決めて、個々に講釈などの課題を与えられ、じっくり理解度を診断され、必要な指導を与えられる「終日の修行」だとされる。すなわち、各稽古人の日常学習に密着した試験であって、学問奨励もさることながら、何よりも儒者による稽古人たちの学習への指導ないし監督という機能を持ち得たと考えられる。

【4】④選抜には筆記試験よりも観察・人物評価
 選抜に値する人物の能力を評価する方法として、中国の「科挙」流の試験によるよりも上司などによる人物評価の方を有効であると考える「科挙無用論」の識者が少なからず居たことは横山尚幸の調査に詳しい。8代将軍徳川吉宗のもとでいわゆる「享保の改革」のブレーンとなった儒者・荻生徂徠なども科挙の試験よりも、「有徳」の人に着目して行う上司による平常の人物・行動の観察のほうが、より合目的的な選考ができると述べている 。そのような観察による人物評価のもつ選抜における効果は、後に「寛政の改革」で老中松平定信のブレーンであった儒者の柴野栗山も支持した。栗山が、上司(組頭など)は「常に其の組子の人柄をも呑み込み<後略>」などと、部下の観察をよく行うべきことを訴えていたことは、本稿の3章末でも述べた。
 このほかにも、試験の競争性や射幸性を批判する声は大きく、たとえ盛んになっていたのだとしても、学問吟味方式が識者の学理的な支持を得ていたとは思えないのである。
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2017年05月19日

日本の学術が考える「教育改革」

「21世紀の教養と教養教育 」と題し、日本学術会議が議論を重ね、大学教育についての提言をまとめている。
2010年の内容であり少々古いが、日本の学術界がどのように現状を認識し未来を築こうとしているのか、興味深い。

 

日本の展望―学術からの提言2010
グローバル化の進む21世紀初頭の現在、地球環境・生態系破壊の危険性や、地域紛争・テロ、新型感染症、金融危機といった問題など、予測のつかない困難が人間・国家・人類社会を襲っている。他方、世界各国は、グローバルな経済競争のなかで自国の豊かさの維持・向上を図り、それぞれの社会内における種々の対立や貧困・差別などを解決しつつ、多文化共生・多民族共生とローカルな文化・社会の活性化を持続的に確保し促進するという課題や、それらの課題への適切な対応と活力ある豊かな市民社会の展開を図るという課題に直面している。
世界各国と人類社会が共通に直面しているこうした現代のさまざまな問題と課題は、それらに対応しうる知識・知性・教養の向上を切実に求めている。その知識・知性・教養とは、異質なもの(個人・民族・国家や宗教・文化)の間での相互信頼と協力・協働を促進し、それらの問題や課題の性質・構造を見極め、合理的かつ適切な解決方法を構想し実行していく基盤となるものである。しかるに、その基盤となるべき教養は低下していると言われ、その再構築が喫緊の課題だと指摘されている。

人類社会が直面している様々な課題に対し、どのように答を出し、未来をつくっていくのか。
答を出すためには、それに対応しうる知識・知性・教養の向上が必要であり、低下した教養の再構築が必要であると言う。
しかし今現在、新たな社会構築に向けた有効な新理論はどこからも誰からも出てこない状況。
それは何故なのか?
そもそも冒頭の様々な問題はどのように生まれてきたのか?
基盤となる教養が低下したのは何故なのか?
社会の要請に対し、学術はどう応えていくのかが問われているわけだが、、、

20世紀半ば以降、例えば、生活水準の向上をもたらしてきた科学技術・経済の発展が地球環境・生態系の破壊などの危機を引き起こすというように、人間の営みが交叉反転し矛盾した結果をもたらすという事態が目立つようになった。自由・人権の拡大、自我の解放と個の確立や「豊かさ」の追求をはじめとする「近代(モダン)のプロジェクト」への信頼が揺らぎ、そのプロジェクトを支え先導してきた科学技術や「知」の在り方が問い直されるようになってきた(この知の在り方に関わる変化を「知の地殻変動」と呼ぶ)。この問い直しは、その根底において、価値と倫理の再編・再構築を迫っている。自己中心・自国中心・強者中心の生き方・考え方や社会の在り方ではなく、多様性と自他の違いを認め尊重しつつ、相互信頼と連帯・協働の輪を拡げていくことのできる生き方・考え方と社会の在り方を求めている。この求めに応えうる倫理の再構築とその倫理に裏打ちされた教養の形成を図っていくことが重要である。

市場社会をリードしてきたのは、自由・人権の拡大、自我の解放、個の確立といった近代思想であることは間違いない。
その結果、地球環境・生態系の破壊などの危機を引き起こした以上、社会を牽引してきた近代思想が間違っていたと言わざるを得ない。まず、この点の総括が必要ではないか。

「るいネット」より
大転換期の予感と事実の追求
>「人々は、これまで無数の常識(規範とか観念。現在もっとも支配的な観念は、自由とか個人とか人権だと云って良いでしょう)に則って家庭生活を営み、あるいは経済生活を営んできました。しかしその結果が、先進国における全面的な行き詰まり(世界バブル・財政破綻・環境破壊・精神破壊)であり、崩壊の危機であるとすれば、それらを導いてきた常識群の根幹部が(従って、大部分の常識が)根本的に間違っているからだと考えるしかありません。おそらく人類は今、全文明史を覆すほどの大転換期に入ったのではないでしょうか。 」<

そう、近代への信頼が揺らいだとか、知の地殻変動といった位相の問題ではない。
全文明史を覆すほどの大転換期である。
近代思想を含め、これまでの常識では全く答を出せないということ。
全文明史を遡って、人類史の構造を解明しないと答えは見えないということを意味している。

古典的な「教養」は、広い意味での階級社会を基盤にして、エリート性を含意しつつも人格の陶冶を含む啓蒙主義的な理念として構築されてきた。そして、特に19世紀後半以降の産業社会と市民社会の進展を背景にして、近代的な産業社会・市民社会(政治社会)に参入し、そこで成功するにふさわしい知的・文化的素養や倫理・規範を身につけていることとして観念され評価されるようになった。言い換えれば、教養は、エリート性を維持しつつ、「近代=産業=市民社会」において成功するための重要なパスポートとして機能してきた。そして、この間、その理念と機能は、「教養主義」によって維持され展開してきた。この伝統は、日本を含む先進諸国では、経済の高度成長と高等教育の大衆化が急速に進んだ1970年頃までは、エリート性を徐々に低下させてきたとはいえ、個人的成功の要件として機能し、その機能にも裏打ちされた「大衆的教養主義」として曲がりなりにも維持されてきた。

しかし1970年代後半以降、「教養主義の没落」「教養主義の終焉」とも言われる変化が起こり、その変化に対する危機意識が表明されるようになった。その変化と危機意識の背景には、次のような社会と大学教育の変化があった。前述のようなグローバル化の進展やメディアの地殻変動に伴って、国際的な経済競争の激化と産業構造・企業活動・仕事世界の流動化・複雑化、豊かな情報消費社会の進展とライフスタイル・価値観の多様化などが進んだからであり、もう一方で、大学教育のさらなる大衆化と学問・研究の専門分化・高度化に伴って、学生の学力や学習意欲・興味関心の多様化と専門教育・実学教育のウェートを高める傾向が目立つようになったからである。かくして1980年代半ば以降、大学教育の質向上や「卓越性の追求」をスローガンに掲げた改革と、一般教育・教養教育の見直しと再興・再構築を目指す改革の動きが活発化することになった。

1970年を境とした変化は、国際的な経済競争の激化と産業構造・企業活動・仕事世界の流動化・複雑化、豊かな情報消費社会の進展とライフスタイル・価値観の多様化、、などといった変化の類なのだろうか。

明治の近代化以降、西洋の近代思想を輸入し、国家を挙げて市場拡大に躍起になった。
誰もが豊かさを求め、近代思想をバイブルとし、勉強に励み、受験戦争を勝ち抜き、市場の牽引車になっていった。
日本においては1970年頃、ついに豊かさを実現した。つまり、豊かさ追求の方程式は成立しなくなった。
かつては、時代の要請は先進国の仲間入り、豊かさ追求にあった。だからこそ、それに応じた学術が必要とされたに過ぎない。そうである以上、今現在の社会の要請は何か、人々の期待は何か、そこに応えていくのが学術の役割であり、教育の存在意義である。

「21世紀の教養と教養教育」は大学教育のカリキュラムへと提言が続くが、
まずもって学術界を牽引してきた学者自らが、その拠って立つ思想を総括し、人類史に遡り社会構造を解明し、今後の社会をつくっていく新たな理論構築をすべきであろう。それ無しにこれまで同様、近代思想を大事にしたままの教育を続けても全くもって意味がないどころか、ますます迷宮に入るだけである。

 

 

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2017年05月18日

一神教(キリスト教・イスラム教)とシャーマニズム

『スピリチュアリズム普及会第3公式サイト』「5)教理宗教下における“神秘主義”――神・超越者との神秘的合一を目指す組織宗教内の異端児」の一部要約です。

●教理組織宗教の形成と、教理による霊的現象の抑圧
古代以前には全世界でアニミズム・シャーマニズムという「霊的存在への信仰」行われていた。その後、部族宗教・民族宗教という古代宗教が形成され、続いて教理宗教の創始者(教祖)が現れ、自らの啓示や悟りを広める集団をつくる。霊的啓示や悟りは「教義」となり、教団拡大の原動力となった。教義をつくる過程で、啓示の内容は宗教組織にとって都合のよい内容に変化させられ、創始者を神格化するためにしばしば捏造が行われた。

「教祖・教義・組織」という3つの要素を整えた教理組織宗教は、「シャーマン」を中心とする小規模な宗教社会や「祭司」を中心とする古代宗教社会に向けて布教活動を展開し、それらを勢力下におさめてゆく。それら教理組織宗教の中で「キリスト教・イスラム教」が巨大な一神教の教理組織宗教が現れ、アジアでは「仏教」が広大な地域に宗教版図を形成した。

そうした「教理組織宗教」は、アニミズム・シャーマニズムという原始宗教や、祭司を頂点とする部族・民族宗教とは比較にならないほど強い支配力と拘束力を持った。宗教組織(教団)の教えと指導が絶対的なものとなり、すべての信者が従うこととされ、教団に反した見解や、教団の指導範囲を越えた宗教活動は禁止された。特にシャーマン的人間の語る啓示は、しばしば教理宗教の教義や指導者の考え方と食い違うため、教団はシャーマニズム的動きを徹底して弾圧した。教理組織宗教は、教理による信仰の支配によって「シャーマニズム的心霊現象」を押さえ込んだのである。

ところが教団側がどれほど信者を規制しても、人間にもともと備わる「霊能力」それ自体を無きものにはできない。鋭い霊能力を持った人間・シャーマン(霊媒)的素質を持つ人間を中心に「神秘現象」が自然発生する。こうした神秘体験に基づく信仰的なあり方を、教理宗教における知性に基づく通常の信仰と対比して「神秘主義」と言う。教理組織宗教はそうしたシャーマン(霊能者)や神秘現象に対して、より強硬に臨むことになり、とりわけ近代以降は神秘主義に対する蔑視が強くなり、謎めいたもの・不思議なものは何もかも神秘主義の中に組み込まれるようになってしまった。

●キリスト教の「異端」と神秘主義
キリスト教がイエスという霊能力を持ったシャーマン的人物から始まったことは事実であるが、キリスト教では、イエスの奇跡は、イエスという一人の人間だけに可能なものであったと主張する。イエスは「神の一人子」だから奇跡が実現したと言うのである。他の人間がイエスと同じような心霊的現象・神秘的現象を引き起こすことを決して認めない。

キリスト教が教理組織宗教として拡大してからは、霊的能力のある人間や神秘体験者を「サタンの手先」、心霊現象を「サタンの仕業」として徹底的に排斥するようになり、キリスト教会は、神秘主義者や霊能者を「異端」として弾圧した。
中世末期から近世初期にかけて、「異端」とされたものの中には初期のグノーシス派や中世のカタリ派がある。これらはキリスト教会から激しい弾圧を受け、歴史の表舞台から消滅した。またフランチェスコ会から発生した聖霊派も、キリスト教会から異端として処断されている。13世紀にマイスター・エックハルトがドイツ神秘主義を確立し、キリスト教神学にはない神との合一性を説いたが、その神秘思想も1329年に異端宣告を受けた。中世から近世にかけて(*実際にはつい最近まで)行われた「魔女狩り」は、キリスト教組織によるシャーマニズム文化・心霊現象への弾圧である。

●一神教の神秘主義の特徴――エクスタシー状態での、超越者・絶対者との合一体験
一般のシャーマニズムでは精霊や死霊・先祖霊など様々な霊的存在が信仰の対象とされるが、キリスト教下の神秘主義では「唯一神」だけが対象とされ、その神との霊的一体化を目指す。キリスト教の神秘体験者の多くも、伝統的なシャーマンと同様にトランス状態に入るが、その
神秘体験は常に「神との合一化・絶対者との一体化」と語られる。

こうした神との合一体験には、さまざまな「心霊現象」が付随している。
例えば、入神状態(トランス)下でイエスや天使に出会うという体験(幻視・霊視現象)や、聖痕が身体上に現れるが、キリスト教の神秘主義では、そうした心霊現象よりも「神との合一」という現象に重要性を認める。スピリチュアリズムからすれば、神との一体感覚を持つという神秘体験はあくまで心霊現象の一つにすぎないが、一神教の場合には、神への意識が強い分だけ「神との合一体験」が他の心霊現象よりも重視される。

この「神との合一体験」という心霊現象は、同じ一神教のイスラム教にも存在する。その代表が「スーフィズム」である。イスラム教の神秘主義スーフィズムでは、絶対者(神)との合一化・一体化が、最も重要な神秘体験とされる。イスラムの神秘主義は、9世紀頃から「スーフィー」と呼ばれる神秘家たちによって進められた運動で、修行によってアッラーの神と神秘的合一・一体化を果たすことを究極の目的としている。

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2017年05月12日

「聖職」とは国家がつくりあげた絶対者としての教員像

前回記事では教員の労働実態から、疲弊している教育現場の二ユースを紹介したが、
今回、あらためて「教員はどのようにして作られてきたのか」について調べてみた。
かつては「聖職」と呼ばれた先生が、どのようにして現在のような教員になったのだろうか。

現在日本の初等・中等教育レベルの学校 で働く教員の数は、
幼稚園:約11万人、小学校42万人、中学校25万人、後期中等教育24万人、合計約102万人に達する。
その数は、例えば、医師数16万7千人、薬剤師25万人、警察官28万8千人、自衛官24万人、看護師95万人などを上回っており、単一の専門的職業集団としては、日本でも最大規模のものとなっている。

教員数が100万人を超えているとは驚いた。
 単に教科書に書いていることを教えるだけならAIで十分可能、大量の教員は不要である。
 100万人もの人材が何を担い、どのように活かしていくのか、AI時代の大きな課題だ。

 

◆江戸時代の伝統的教師像
・幕府や多くの藩は、武士階級の子弟を対象に、主として中国の古典(儒教)を教育するための専門的な教育機関(昌平坂学問所、藩校)を設立していた。漢学、国学、そして幕末期には蘭学や洋学を教える民間のアカデミー(私塾)が各地に数を増やしていた。
・私塾は、身分・階級を問わずすべての者に対して開かれ、有名塾は全国から門人を集めた。また庶民に読み書きと実用的な生活技能を教える教育機関(寺子屋)が都市部だけでなく農村部においてもかなり広く普及を見せていた。
・藩校では武士階層の学者が教師をつとめた。
・民間の私塾や寺子屋では、武士(中・下層、浪人)、僧侶、神官、医師、学識ある富農などが教育にあたった。
・寺子屋、特に江戸や大阪のような都市部の寺子屋では、平民師匠の比率も高く、また女師匠もめずらしいものではなかった。

私塾や寺子屋は、民衆の間から生活の必要に応じて自然発生したもので、公的に設置され民衆に押しつけられた機関ではない。強いられた機関でないから、人格実力に根ざす威信をもたない個人が師匠たることは、あり得なかった。お師匠さんは、神官僧侶医師庄屋など尊敬される職業を本務としたから、師匠職を必ずしも金銭的報酬の尺度で考えなかった。彼らは多く土着の人であった。土地の人たちとの関係は、打算的でなく、義理人情的であり、一次集団的親密さをもっていた」

教員は、かつては「師匠」と呼ばれていたようだ。
 共同体規範がしっかり機能していた地域集団において、師匠と呼ばれる存在だけが人に教えることが出来たのだろう。
「聖職」と言われていた原点がここにあるのかと思ったが、なんだか違うような気がしてきた。

 

◆近代学校の下での教職の出現
明治維新の後、近代国家の建設をめざして国の主導による公教育として学校教育が開始される。
すなわち、国家的要請によって学校の在り方が決定され、その基準から教員としての必要な資質も決定された。
近代学校の教師は、寺子屋師匠のように誰でもが自由に開業できるものではなくなった。
その名称も、師匠から教員へと転換されることとなった。
「教職は標準化され、近代化されたが、反面、画一化され統制化されなければならなかった」

近代学校での教員には、国が掲げる文明開化や殖産興業の目標にそって、国の定める(欧米流の近代的)教育課程を教えるという「公務」を担うことが期待される。ちなみに、1873 年以来第二次世界大戦後の教育改革にいたるまるで、小学校の正規の教員の職名には「訓導」「准訓導」という名称が用いられた。

 

◆教員養成の開始
学制発布に先立ち、1872年、政府は、米国から教員養成の専門家(マリオン・スコット)を招聘して、東京師範学校を設立する。スコットは、すべての設備や教材を米国から輸入し、米国の公立学校で活用されている教授法(一斉教授法)を生徒たちに教え込んだ。さらに、師範学校は、教科書の翻訳、新しい教育課程の編成、教員や児童向けのハンドブックの作成などを行い日本の初等教育に大きな影響をおよぼす。

1870年代末までには、各県に少なくとも1~2校の県立師範学校が設立されていた。
師範学校での教員養成がはじまったが、その卒業生は限られており、実際には、寺子屋の師匠がそのまま教員に横すべりしたり、明治維新で職を失った士族、読み書き能力のある神官、僧侶などが教員となった。
新しい公立学校の教員は、近代国家建設のため国民を啓蒙する担い手となることを期待されたが、新しい教育課程や教科は、寺子屋で教えられていたものとは大きく異なっていた。西欧流の学校教育の理解、近代的な教授法の修得ということでは、初期の学校教員の実態はいまだに貧弱なものがあった。

 

◆森文相の教員養成論
1885 年、内閣制度が 導入され、伊藤博文が初代首相に任命される。
伊藤により米国、英国などで外交官を 経験していた開明主義者の官僚、森有礼が 初代文部大臣に任命される。
西欧化による国民の啓蒙を続行しつつ、天皇を中心とした日本人としての国民意識形成と倫理的行動原理を育成強化するというという重要な 課題と、明治初期から目前の必要をみたすために応急的、試行錯誤的に進められてきた教育事業を整理して、一貫した教育体系を作り上げる課題が森有礼に課せられた。
この森文相によって、1886年に「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が公布され、この後の日本教育発展の基盤となる教育制度の基本的骨格が形成されることになる。

森文相は、国民教育における初等学校教員の重要性を認識しており、師範学校の役割を重視した。
森の制定した師範学校令において注目されることは、法令の条文でわざわざ、未来の教員に「順良」「信愛」「威重」という三つの気質ないしは徳性を植えつけることをめざすと書き込んでいることである。
師範学校の生徒が身につけるべき理想的な資質は、「順良、信愛、威重」すなわち、上長の命令に従属すること、同僚に愛情あふれた信頼を寄せること、児童の行動や態度を重々しく威厳をもって統制するということにされたのである。

未来の教員に徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入することを目指す。
生徒は、兵式体操で身体を訓練し、また全員が寄宿舎生活をして帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されることになる。

かくして明治に整備された法制度により、絶対的正なる存在としての教員がつくりあげられることとなった。
この絶対的正なる存在として位置づけるべく、「聖職」なる言葉を当てはめたのではなかろうか。
すなわち、国家主義を植えつける重要な役割=染脳者として、抗うことのできない絶対者をつくり、染脳教育を推し進めるために

 

◆教授法・教授理論の探究
1887年ドイツ人ハウスクネヒトによって紹介されたヘルバルトの教授理論をベースにした「五段階教授法」(予備、提示、比較、総括、応用の五段階)が開発され、明治30年代以降、わが国の公教育の教授法の定型をつくっていった。五段階教授法は、できる限り短期間に、多くの知識や技能を児童に教え込むための効率的な教授法を模索していた教員たちに受け入れられていった。

いわゆる「詰め込み教育」は明治時代に西洋からの輸入によって開発されていた。

参考:(リンク

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