こんにちは。突然ですが皆さんは“中国の古い歴史”と言われて何を思い浮かべますか?中国3000年の歴史?はたまたキングダム?では、日本における新石器時代(縄文時代)は中国では何年前なのでしょうか?
…実は今より8000年以上も前になります!今回はそんな8000年以上前の中国・小河西文化~趙宝溝文化における集団形態について追求していきます!!
査海遺跡三期集落 画像はこちらからお借りしました。
中国の新石器時代における集団形態について、今回は小河西文化・興隆窪文化・趙宝溝文化にそれぞれついて<集団形態><居住単位><墓葬><社会形態>の4つの軸からまとめていきます。
時代区分
<集団形態>
リンクによると小河西文化における集落には中型・小型・最小型の3種類が見られ、それぞれの中に居住区・祭祀区・埋葬区・生産区といった用途に応じた空間があり、居住・貯蔵・埋葬の跡が見られることから、これらの集落は血縁関係者により構成される社会集団であることが推察されている。
また、興隆窪文化においては集落を環濠・非環濠、中心・非中心の4つに分け2つの社会集団が食物生産について相互補完し合っていた部族社会であったと推察されています。また別の意見では集落を住居址(あと)・住居組・集落の3つに分け、住居址の中の列状住居址は大型・中型・小型の3つがあり、大型は老人と子供の居住や集落における会議場所があり、中型には祭祀・居住空間が、小型には居住・生産空間が存在している。
また、趙宝溝文化においては興隆窪からさらに分化し、住居址・住居組・住居群・住居列に分かれ分類としては見ているが、集落面積から規模差があることが分かっている。また、この頃になると遺跡分布も増え類似した土器が各遺跡から出現するため社会集団間の関係がより緊密になっていることが窺える。また、生産能力(農耕・狩猟)は向上させながら居住単位は小型化する傾向がみられてくる。
<居住単位>
岡村・大貫(1995・1998)によれば居住空間は性別分業により空間区分をすることができ、男と女がそれぞれ『聖』と『俗』に対応しているとしている。
<墓葬>
大南溝墓地(小河沿文化)は婚姻関係で結ばれた2つの集団の墓地であり、男女間分業・男性優位であった社会背景が副葬品の組み合わせと埋葬方法から分かっている。
<社会形態>
社会形態においては小河西文化では小家族・拡大家族・氏族に分類され、それぞれ趙宝溝文化における住居・住居列・居住群(区)の分類と合致する。
興隆窪(等質社会)に分散的であったのが農耕の発展と協調的な変化によって趙宝溝(氏族社会)で集中化、集落間に規模差が見られ紅山(階層社会)でさらに集中化・独立化が顕著になっていった。
また、祭祀遺構として挙げられる龍形石堆は集落の集会所に血縁紐帯としての共同祖先を埋葬し血縁関係による社会集団を組織⇒社会全体に認められた祭祀用具や習俗が形成されていった。
以上より、生産力の高まりに従って基本的な生産単位が小型化し集中したが、集団を率いていく(集中させる)ために共同祖先祀ったことで血縁関係による集落規模差が生まれていったということがわかってきました。
次回以降は王朝成立以前(紅山・仰韶)についても触れていきたいと思います!
参考URL
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1931670/lit0222.pdf
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4945&item_no=1&page_id=13&block_id=161