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2022年12月29日

縄文時代 約14,000年間の概観~縄文草創期から早期まで

画像はこちらからお借りしました

【縄文人の特性】縄文中期に見る縄文人の著しい観念進化とその背景②

では、縄文時代の人口動態の変化、その背後にある外圧・環境の変化を考察しました。

 

縄文時代の区分は諸説ありますが、始期は概ね約BC15,000年から、終期は概ね約BC1,000年で、約14,000年もの長い時代を形成しています。この長い時代のなかで、気候変動や大陸からの人種の到来、日本列島内の人の移動や変動があり、一口に縄文といっても年代ごとに、その特質は豊かな変化を生んでいます。

とりわけ縄文中期は人口が増大し集落を形成し、火炎土器のような生命力あふれる土器の登場、黒曜石の広域化など、非常に活発で特徴的な時期です。前の記事で述べたクナドの登場もその一つです。集団と集団が接するにつれて、自然が相手だけでなく同類からの期待や緊張圧力が加わったことが、縄文中期の大きな特徴をもたらせた要因にあるように思われます。

 

縄文時代の変容を具体的にイメージするためにも、約14,000年続いた縄文時代の気候変化、人口動態、生活様式、特徴等を概観しておきます。

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2022年12月27日

高群逸枝の日本婚姻史5~原始時代の族外婚=クナド婚のはじまり

女夫(めおと)遺跡 松江市 画像はこちらからお借りしました。

高群逸枝の日本婚姻史4~原始時代の族制は、性別と年齢階級が基本

に続きます。

 

クナドという古語を御存じでしょうか。

『允恭紀(いんぎょうき)』にマクナギ、『日本霊異記』に婚合をクナガヒ、『今昔物語集』にクナグ、『続古事談』に「妻をば人にクナガレて」等とあり、クナドは性交を意味します。(クナギドコロは婚所の意。)

 

クナドの神というものは、複数の村の共有広場や、交通の要路に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、もう一面が性の神とされています。これが意味するのは、他群と交通し、結び付く”かなめ”にはクナド=性交があり、原始時代では性交が同族化であり、和平の道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあったということ。

 

通説では、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神とされますが、それはもう少し時代が進み、争いや支配が顕在化して以降に置き換わったと思われます。原初は、排除や防御ではなく、一体化や和平が本質だったでしょう。

 

これが意味することは、単一集団=村が独立していた時代から、複数の村が集合し結び付く=云わば原初の社会が登場する時代に、社会を形作る紐帯にあったのはクナグ=性交であるということ。現代社会を考えるうえでも非常に重要な意味をもっていると考えます。

以下、高群逸枝の日本婚姻史より要約します。

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2022年12月23日

【原始日本の共同体性6】なぜ族内婚から族外婚へ移行したのか。集団間を統合するための婚姻?②

長野県与助尾根遺跡18832.pdf (chino.lg.jp)からお借りしました

 

 

共同体社会と人類婚姻史 (jinruisi.net)の続き

しかし、自部族の男女で結びつきたいという心理も強くあるだろうが、そのままにすると、相手部族の男女と結びつきが弱くなりかねず、遠心力になりかねないから、基本、相手部族としかだめということになっているのではないか。

族外婚とは集団間の同類圧力が次第に高まってくる時代に必要とされた、婚姻の在り方なのではないかと思われます。

■ただし、最初に書いたようにこれは中国やオーストラリアで見られた族外婚の例。日本の族外婚については以下の記述が続いている。日本の族外婚は中国などの例とはかなり様相が違う。

>族外婚の典型としては、近い頃までオーストラリアに見られたという俗があり、それによると、A群の全男子はB群の全女子と夫婦、B群の全男子はA群の全女子と夫婦という形態のものらしい。これを多く の学者たちは、婚姻階級制とも云っているようで、二群からなるもの、または有名なカミラロイのように四群からなるもの、八群のものなど色々あるが、基本的には、やはり特定の一群の全男子は、他の特定の 一群の全女子としか通婚してはならないという原則、つまり二群式の原則に貫かれているという。後に見る中国の族外婚方式も同類である。<

ところが日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のある ヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相集まって共婚行事を持つことに よって、族外婚段階を経過したと考えられる( 『日本歴史』一(昭和三七年)坪井清足「縄文文化論」に よると、長野県与助尾根遺跡は東西二群に分かれた興味深い集落構成のようである) 。 <

日本では、族外婚段階でも、全男女があいまって共婚行事をもったようだとのこと。これは、日本では古くからの婚姻様式を残してきた、より本源的なそれを残してきたと言える。同類圧力が次第に高まる時代であっても族内・族外全員での一体化充足を守ってきたと言えるかもしれない。

 

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2022年12月23日

【原始日本の共同体性5】なぜ族内婚から族外婚へ移行したのか。集団間を統合するための婚姻?①

 中国少数民族

【写真特集】少数民族の伝統衣装、日々の暮らしとともに からお借りしました。

 

縄文中後期になると、それまで婚姻は族内、集団の中で行われていたが、族外との婚姻に移行していったと思われます。なぜ族内婚から族外婚へ移行したのか。それが今回のテーマです。

族外婚についての記述を「日本婚姻史(高群逸枝)」より引用します。(中国やオーストラリアアボジリニでみられる族外婚の例)

>二制婚姻クラスというのは、次掲の両図に示されてあるように、AB二族の男女は自族内の男女と は婚姻せず、自族外の男女と集団的に婚姻する。つまり具体的に云うと、A族の全兄弟はB族の全姉妹と、 B族の全兄弟はA族の全姉妹と婚姻し、生まれた子は母方の族に所属するという母系制族外婚である。<

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2022年12月18日

【縄文人の特性】縄文中期に見る縄文人の著しい観念進化とその背景②

前回の記事は、縄文中期に発展した事実事象から、縄文人の凄まじい観念進化に着目しました。
今回は、縄文中期における観念進化の背景に迫るため、当時の外圧状況を追求していきます。

 

①温暖化による人口の増加

事実としては、縄文中期の5,500年前頃から急激に人口が増加したことが判明しました。

この当時の気温は、現在よりも平均気温が2~3度高かったとされており、温暖化が人口増に至った最も大きな要因と考えられます。

人口は、縄文前期終盤からの約1,000年で約2.5倍(26万/11万)も増加した事になります。

この事実から、集団(集落)が増えた事は容易に想像できます。ただし、集団規模の大型化は、人口増だけでは説明できない課題として残ります。

画像は、コチラからお借りしました。

 

②人口分布と人口密度から想定される縄文中期の集団規模

次に、人口分布に着目すると、縄文前期から中期にかけて東日本に集中して人口が増えていることが分かります。縄文中期の遺跡の出土が東北地方に多い事と繋がってきますね。

人口密度は、一番密集した地域(3~4人/㎢)で北海道の南富良野町や陸別町と同規模にあり、現在の小さな町に匹敵する集団規模が形成されていたといえます。ゆえに、近距離で複数の集団(集落)が形成され、集団(集落)間での交流が頻繁に行える状況だったと仮定できそうです。

画像は、コチラからお借りしました。

 

③火山立地から想定される東日本への人口集中

先程の人口分布から、西日本では、縄文後期まで人口増加していないことも着目したい点です。

そもそも、温暖化により人口が増加しているのであれば、西日本の方が暖かく暮らしやすいのでは?と疑問が残るためです。東日本への人口集中は、温暖化以外の別要因があるはずです。

そこで、日本特有の外圧(環境)=火山大国であることから、火山の立地に着目しました。

すると、人口同様、火山の分布も東日本と九州に集中し、西日本には火山が無い事が分かりました。

縄文人は、自然災害としての火山の側面だけでなく、周囲が豊かな土壌と豊富な水が多い事を理解し、火山周辺を定住拠点としたと仮説が立てられ、結果的に東日本に集中したと考えられます。

画像は、コチラからお借りしました。

 

今回は、主に縄文中期の日本の外圧状況を整理しました。

縄文中期は、温暖化による人口増加と、火山周辺を定住拠点としたことで東日本に人口が集中し、各集団(集落)が近接する事で集団規模や集団間の関係性も大きく発展した時代ではないかと考えられます。

次回は、縄文中期の集団関係がどのように発展したか、縄文人の特性に迫りながら、追求していきます!

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2022年12月17日

【縄文人の特性】縄文中期に見る縄文人の著しい観念進化とその背景①


前回の記事
に引き続き、「縄文土器」からも縄文人の特性を検証すべく、様々な土器を調べました。
年代ごとに整理すると、文様が豊かで実用性よりも装飾性に特化した火焔式土器は、縄文中期(5500年~4500年前頃)に顕著だと判明しました。

縄文土器のデザインの移り変わり

画像は、コチラからお借りしました。

そこで、「縄文中期に何が?」と、他の事象も調べたところ、様々な観念進化が縄文中期から急激に発展したことが見えてきました!
縄文中期に発展したた代表的な事実事象として、以下の①~④を取り上げます。

 

①集落と建物の大型化

青森県の山内丸山遺跡(5,900~4,200年前)を代表例に、縄文中期は数多くの集落が形成され、集落も建物も大型化していきました。集落は、長さ32m、幅10mに及ぶ大型竪穴住居を始め、多くの住居群が形成される等、当時の建築技術力の高さにも驚かされます。

画像は、JOMON ARCHIVES(コチラ)を加工して作成しました。

 

②翡翠(ヒスイ)文化の登場(約5,000年前)

縄文中期に形成された集落の多くでは、翡翠を加工して作られた装飾品が数多く出土されました。
翡翠が産出されない集落からも出土されたことから、集落(集団)間交流が活発に行われていたと考えられます。

画像は、JOMON ARCHIVES(コチラ)を加工して作成しました。

 

③環状列石の登場(約5,000年前)

集落と同様、環状列石も数多く発見(北海道と東日本に顕著)されています。一説には、暦を正確に把握し、クリやクルミの収穫期、タラやサケの豊漁期の精度を高めるためとされています。一方で、装飾品類(土器等)が環状列石の周囲で出土したことから、祭事の場との説もあります。

画像 は、JOMON ARCHIVES(コチラ)を加工して作成しました。

 

④数字の認識(約5,000年前)

縄文中期移行の竪穴住居では、柱の間隔が35㎝で割切れる箇所が多く見受けられました。当時の建築技術力の高さは、35㎝を基準(通称:縄文尺)とした数字(比)の概念が誕生したからではと考えられます。同様に、土偶の文様からも自然数列(1~12)を認識できます。

画像は、コチラからお借りしました。

 

いかがでしょう?今回は、主に縄文中期に発展した事実事象を整理しました。

1万年以上続いた縄文時代の内、なぜ縄文中期に発展=観念進化が著しかったのか?

縄文中期は、単に集団規模が大きくなったのではなく、土器や翡翠から装飾品が豊かになり、集団間交流が活発化する事で、集団関係の在り方も大きく変化した時代ではないか?と考えられます。

次回は、縄文中期に日本がどのような外圧状況にあったかに照準をあて、観念進化の背景と当時の縄文人の特性に迫っていきます!

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2022年12月09日

一夫一婦婚って本当?(2)~環状集落に見る「輪」に込められた想い~

画像はコチラからお借りしました。

縄文時代の婚姻様式はどのようなものであったか?前回は、一夫一婦派に対して反論を挙げました。

一夫一婦婚って本当?縄文時代の婚姻様式に迫る

今回は「竪穴式住居とその集落」から縄文人の世界観にまで迫って、本当に一夫一婦婚だったのかを検証したいと思います。

そもそも家屋で5~6人の単位だったのか?なぜ5~6戸で1つの集落となっているのか、といったあたりです。

縄文時代の集落と言えば、環状集落です。

>日本列島の縄文時代早期(1万1500年前 – 7000年前)末から前期(7000年前 – 5500年前)初頭に成立し、中期(5500年前 – 4400年前)・後期(4400年前 – 3200年前)にかけて、主に東日本を中心に発達した集落(ムラ)形態の一つ。広場を中心に墓域(土壙墓群)と居住域(竪穴建物群や掘立柱建物群)が同心円状=環状に展開する構造を特徴とする。また秋田県の大湯環状列石(国の特別史跡・世界遺産)などのいわゆる環状列石(ストーンサークル)も、これを起源に成立した。(Wikipediaより引用)

ここで少し気になるのが、「輪」を成していることです。

中心に墓、ヒロバを持つ環状集落も輪になっていますし、竪穴式住居もみなで囲炉裏を囲います。他にも、盆踊りやキャンプファイヤー、円陣なども輪になっていますよね。

画像はコチラからお借りしました。

この「輪になる」に縄文人のこだわりを強く感じます。

なぜ輪を作るのか。輪に込められた想いとは何か、を追求します。

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2022年12月09日

一夫一婦婚って本当?(1)~縄文時代の婚姻様式に迫る~

画像はコチラからお借りしました。

縄文時代の婚姻様式がどのようなものであったかは、諸説あります。

一夫一婦婚もしくは一夫多妻婚という説、またはサル時代からの乱婚や、それを踏襲した群婚だったという説。

・乱婚…行き当たりばったりに他の個体と繁殖を行い、特定の雄と雌といった性関係が無い婚姻形態のこと。

・群婚…複数の男子が複数の女子と婚姻する集団婚のこと。

ただ縄文時代となると記録がほとんどなく、遺跡などを頼りに推測するしかありません。婚姻様式なんてもってのほかです。ちなみに人類の前のサル社会は多様な婚姻様式をとっているため、初期人類においても多様な発想で考えられます。(オランウータンは単独。シロテナガザルは一夫一婦。ゴリラは一夫多妻。チンパンジーは多夫多妻など)

画像はコチラからお借りしました。

 

世間的に根強いのは、一夫一婦婚ではありますが、実際のところはどうなのでしょうか。

そもそも、このような追求に至るのは、現代の日本人の根本的な特性がこの時代に作られているからです。実際に、日本史を約1万年と見れば、8500年ほどは縄文・弥生で占められており、とりわけ、あらゆる集団(現代でも家族、学校、企業、市場など)の存在を規定しているのは婚姻様式であり、男女の性関係にあるからです。

 「歴史家のみた日本文化」(著:家永三郎/昭和36年)でも次のように述べられています。

>「歴史が人間の歴史であるかぎり、そして人間が常に男と女と大体半数ずつから成り立ち、その男女の結びつきの上にのみ人類社会の継続が依存しているものである以上、結婚や性がどんなに重要なものであるかは、ことごとく説明するまでもない所である」

それでは、縄文時代の婚姻様式とはどんなものであったのか?を追求していきます。

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2022年12月02日

高群逸枝の日本婚姻史4~原始時代の族制は、性別と年齢階級が基本

画像はこちらからお借りしました。イモセ(桜)です。

高群逸枝の日本婚姻史3~原始時代の群婚期

につづきます。

縄文時代の婚姻関係がどうであったか。その一つの出がかりはコトバです。

例えば、一夫多妻婚だとしたら、リーダー的存在を示すコトバがあり、一夫一婦婚であれば、その一夫一婦を表すコトバがあるはずです。

高群逸枝によると、原初は性別を表すイモ(女)/セ(男)があり、兄弟姉妹の意味もあり夫婦の意味もあると述べている。つまり、兄弟姉妹も夫婦も同じイモセであり、それ以上の区別が無かったことを示している。

また、ハ(女)/チ(男)は、コ(幼小)からみた年配者を表すコトバがあることから、年齢の区別はあったようだ。恐らく生殖可能年齢期で区別していたと推察するが、しかし年配者のなかからさらにリーダーを示すようなコトバは無かったようだ。

これだけで断定はできないが、一夫一婦や一夫多妻を示すようなコトバが見つからない事や、兄弟姉妹も夫婦も全てイモセとしていたことは、群婚を想起させる一因になっている。

以下、高群逸枝の日本婚姻史を要約する。

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2022年12月02日

高群逸枝の日本婚姻史3~原始時代の群婚期

画像はこちらからお借りしました

高群逸枝の日本婚姻史2~婚姻の概観。日本婚姻史の3つの転換点

に続き、原始時代の婚姻様式である群婚期を見ていきます。

縄文時代の婚姻がどうであったかは、諸説あります。現代と同じ一夫一婦婚ではないか、未開部族にも見られる一夫多妻婚ではないか。よく聞かれるのは一夫一婦婚ですが、この説には多々矛盾があり今後記事にしていきたいと思います

では高群逸枝の日本婚姻史ではどうか。高群は群婚としています。群婚とはどのようなものか、というのも一つ追求すべきポイントですが、大雑把にいえば、特定の夫婦関係がなく全員が性を共にする様式です。

他の動物には見られない特長の一つとして、食を共有する、食を分け合うというのがあります。人類の直接的祖先である類人猿ですら食は取り合いです。また食だけでなく、子育てを共にするというのも人類固有の現象です。そして性も同じく共有していたのではないかというのが共食共婚の考えです。この共食共婚は、例えば村祭りや夜這い文化など昭和初期までその遺習を留めており、日本の歴史の根底に流れ続けてきたと思われます。

高群逸枝の日本婚姻史~原始時代を要約します。

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