中学生になって初めて英語を習ったとき、なんで名詞の名詞の前に冠詞(the,a,an)が付くのか? なんで三単現にSを付けるのか? そもそもなんで三人称とか、単数・複数を区別する必要があるのか?? 日本人なら誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
るいネットの記事から、言語の進化過程を探っていきます。(リンク)(リンク)
◆更に詳しく伝える必要から文言が長く複雑になり、各語の関係を示す関係詞が生み出された
より詳しく、あるいはより正確に伝える必要から、文言が長く複雑になると、語順だけでは意味が伝わり難くなる。実際、4語以上の文言になると、語順規則だけでは、文言を構成できなくなる。そこで文言の中の動容詞に対する各品詞の関係(役割or位相)を明示するために生み出されたのが、各品詞の後ろor前につけられる関係詞である。
/関詞(助詞) て、に、を、は、が、の アルタイ語
関係詞-冠関詞(冠詞) eim、eines、einem、einen セム語、独語
le、la、les (the) 仏語(英語)
\前関詞(前置詞)
アイヌ語がそうであるように、1万年前頃に、ようやくS・O・Vの語順規則が出来たとすれば(しかも、アイヌ語は「て・に・を・は」無しで長大な伝承物語を伝えている点から考えても)、関詞(て・に・を・は)が出来たのは、同類闘争の緊張圧力が上昇して以降、おそらく6000年前頃だと考えられる。
アルタイ語(日本語も)では、わずか数個の関詞が全ゆる品詞の後ろについてその品詞の役割を明示できるので、論理性の高い表現から情感性の高い表現まで多彩な表現が可能である。
しかし、セム語や印欧語のように、人称や単数・複数による語尾変化を重視する言語では、品詞の後ろにつく関詞は居場所を失い、代わって各語の前に冠関詞や前関詞を置くようになる。しかし、冠関詞や前関詞は、言葉の数が限られているので、これらの言語は多様なor微妙な表現には適していない言語だとも言える。
セム語や印欧語が登場するのは、もっと後(侵略戦争以降)であるが、日本人がそれらの言語を習得する上で心得ておくべきは、冠関詞(冠詞)も前関詞(前置詞)も基本的には関係詞であり、日本語における関詞(て、に、を、は)の代用物であるという点である。
◆同類闘争以降、人称代名詞が分化した
「みんな」という人称代名詞は、洞窟時代からあったが、そこでは相手も自分も区別なく全て「みんな」という言葉が使われていた。(関西では、今でも相手のことを「我(われ)」とか「自分」と云う。)
その後、自分たち以外の他者が現れ、同類闘争の緊張圧力が高まると、自他を区別する必要が高まる。その結果、それまではあまり使われず、使われても相手(「皆」「お前」)>第三者(「彼」)>自分という使用頻度であった人称代名詞が明確に分化されてゆく。
中でも、守護神信仰等に見られる自己正当化(自部族の正当化)の必要が強かったセム族や印欧語族では、自分を指す一人称が発音し易い言葉に作り変えられて第一義的な重要性を与えられることになった。
また、侵略戦争以降はとりわけ外交(友好)が重要になり、相手に対する配慮が大切になる。そこで、名前の前に冠関詞が付け加えられると共に、相手(二人称)に対する動詞も語尾変化させ、それに伴って第三者の動詞も語尾変化させた。そして、いったん冠関詞ができると、男女や身分に応じて冠関詞が多用されるようになっていく。(侵略語において冠関詞が多用されるようになったのは、殺伐とした侵略語に、ある種の潤いを与えるためだったのかも知れない。)
他方、侵略を知らない日本では、中国由来の「御前」「貴方」「君」等の尊称が使われたが、庶民間では尊意よりも親和の意の方が強く、「おまえ」「あんた」「くん」等、およそ尊称とは感じられないような親和語に変化していった。また「我々」や「私」という1人称は省略され、使われないことが多い。
現代の言語学は、侵略戦争たけなわの4000年前~3000年前に出来たセム語やハム語や印欧語を中心にしてそれらを構造化したものであるが、それ以降、それらの言語の構造は変化していないので、現代の言語学には歴史=進化史が欠如している。従って、言語を分類し構造化するその基準は、進化史的な根拠を持たない恣意的な基準でしかない。
例えば、本来の人称代名詞の必要度は、みんな・彼ら・我々であるが、侵略以降の言語のみを分析して、順位をI・you・heに入れ替え、1人称・2人称・3人称と名付けたのは、言語学者の犯した大きな誤りであろう。とりわけ、日本の言語学者がそれをそのまま鵜呑みにして使ってきたことが、日本の言語教育に大きな混乱を生み出すことになった。「1人称」と呼ぶと、あたかも1人称の文型こそが始原であり基本であるかのような錯覚を生む。現に教科書は「I am a boy」から始まっており、それが英語を訳の分からない物にしている元凶だと言っても過言ではない