2017年11月23日
偏差値身分制、学歴身分制、、、学校は誰も幸せにしないシステムをつくりあげた
元東大教授の上野千鶴子氏が、東大の学生たちを通して学校化社会について語っている。
2013年、4年前の記事。
今や学歴信仰は企業サイドでは崩壊しつつあるが、家庭、特に母親においては根深いものがありそう。
偏差値評価といい、これまで作りあげてきた学校システムは罪深い。
■東大生、この空洞のエリートたち
私は勤務先である東大の学生にこう言います。
「やればできる、と思えている君たちのその能力は、君たちが自分で獲得したものではない。それはまわりが君たちに与えてくれた環境のおかげだ。やらせてくれ、できれば褒めてくれ、伸ばしてくれるという環境があってはじめて、やればできる、と思えてきたんだ」と。
三流、四流校の若者は「どうせ」「しょせん」の負け犬意識の持ち主です。
親からも教師からも「どうせおまえなんか」と小さいときから言われ続け、自分でもそう思い込んでいる。
18年かけて、自発性の芽という芽を摘まれ、叩き潰されてきたのです。
東大生はおそろしく素直です。
「東大生って偏差値高いだけのふつうの子や」というのが私のいつわらざる印象です。
どのレポートも、私が授業で言ったことの要約でした。新しいことも、オリジナルなところも、どこにもない。
東大生は権威主義を深く内面化した人たちだということが言えます。
権威主義とは、自分より強そうに思えるものには闘いを挑まないということです。
権威に従順な人が東大生だし、権威に従順だったから東大にもきたわけです。
もちろん、四流校の子どもたちが権威主義に毒されていないと理想化する気はありません。権威にもいろいろあります。
マスコミも権威ですから、電波媒体にはものすごくさらされています。
世の中というのは様々な権威のあいだにランクをつける。
電波媒体の権威より活字媒体の権威の方が上だということを、活字媒体の権威が、何の権利があってか、主張するわけです。
■権威主義をなまじ内面化してしまうと、どうなるか?
同輩集団の前でへたなことを言って恥をかいてはいけないというプレッシャーに支配される。優劣をつけられる、評価づけられることを恐れる雰囲気が重く立ちこめている。おたがいがおたがいを値踏みしあう関係で、失敗することを恐れ、学生どうしのサポーティブな雰囲気がありません。これでは伸びるわけがありません。
東大はたしかに人材を輩出していますが、それは教師がいいわけでもカリキュラムがいいわけでもない。学生の母集団のなかには多少いい素材もまじっていたからです。
■近代の制度としての学校
近代の学校は、国家が整えたひとつの制度です。学校に通うことが義務とされ、国定の教科書を使い、おなじようなセッティングで授業がおこなわれる。そして、そこを通過することで人間がある規格にはめられ標準化される
ーーーそれを「国民化」といいます。
同じような装置として軍隊とともに、従順な身体をつくる装置だということができます。全員が前を向いて一人の人の話をみじろぎもせず聞く身体を小学校1年生から叩き込み、日常ではありえない身体へ馴致し、集団の中のひとつの単位へと標準化してゆく。学歴が人間のラベルになり、身分制秩序にかわる選別原理になった。
競争に参加するかしないかという選択肢など成り立たなくなって、みんな一斉に横並びの競争にはいっていきました。同時に、競争でがんばれば上まで行けるという幻想を、みんなが持たされるようになります。
■敗者に現実をどう納得させるか
自由・平等の民主主義の社会とは、じつはまったく平等な社会というわけではありません。人間の社会は実際にはそれぞれ異なる処遇と異なる権力を付与された人々から成り立っています。だから人はみな平等のタテマエにもかかわらず、他人が自分よりも優位な立場にあるということ、支配的な立場にあるということを、下位にいる人間にみずから合意してもらわなければなりません。みずから合意すれば、服従させるコストが安くてすみます。合意がなければ、脅し・暴力・締め付け…と、高いコストを支払わなければなりません。これは学校の教師がいつもやっていることです。校則などを「みんなでいっしょに決めたのだから守ろうね」と言いますが、そのじつ教師が勝手に作った規則へ生徒の服従を調達するやり口です。
競争に勝った方に問題はないのか。そんなことは決してありません。この競争では勝てたけれども、つぎの競争で勝ちつづけることができる保証はない。「勝者の不安」です。勝者であり続けることの恐ろしいプレッシャーと不安がのしかかってきます。両方共にきわめて強いストレス負荷をかけるシステムなのです。
■学校的価値におおわれた社会
学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。だから学校はつまらないところです。いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値1本で評価することを学習するのが学校なのですから。その学校的価値が社会にも浸透していった。これを「学校化社会」といいます(もともとはイヴァン・イリイチの言葉、最近は別な文脈で流通)。結果、偏差値身分制とでもいうものが出現してきています。
■偏差値を自己評価にする若者たち
偏差値の低い子たちは二言目には「どうせオレらは」「しょせん私は」と言うのです。生まれたときから「どうせ」「しょせん」と言う赤ん坊はいません。「どうせ」と「しょせん」は、どこかで学習した結果です。大人に言われ続け、自己評価にかえる。序列意識を叩き込まれ、自分の相対的な劣位が自分の自己評価にとって代わっています。逆に東大生は偏差値が高いだけの普通の子です。生活経験は少ないし、幼児的だし、突飛なところもエキセントリックなところもユニークなところもオリジナルなところもなんにもない、普通の子。その普通の子が「へえ、すごい、偏差値そんなに高いんだ」などと言われて自分を特別な人間と勘違いしているだけです。これも他者の価値判断を取り込んでいるだけです。
■学校化世代が親となり子育てへ
こうした偏差値一元主義の学校的価値のなかで育った子どもたちが、親となっています。子どもを評価するものは偏差値しかありません。
できの悪い子どもは、「こんな子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛し方をする。
自分と違うことを言う大人が子どもの周りに居てやったほうがいいとは、大人は思わなくなってきている。今流行の学校と家庭と地域の「連携」などということも、私にはそのように映ります。
学校的価値の一元化の元での優勝劣敗主義が、勝者の不安、敗者の不満というストレスをどちらにも生むのだとしたら、このシステムのなかでは誰もハッピーにはなっていません。学校化社会とは、誰も幸せにしないシステムだということになります。
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>偏差値身分制、学歴身分制、、、学校は誰も幸せにしないシステムをつくりあげた
昔の封建社会と似たようなものですね。今度は、偏差値・学歴を使って序列を定める方法を編み出したのですね。
>元東大教授の上野千鶴子氏が、東大の学生たちを通して学校化社会について語っている。
>2013年、4年前の記事。>今や学歴信仰は企業サイドでは崩壊しつつあるが、家庭、特に母親においては根深いものがありそう。>偏差値評価といい、これまで作りあげてきた学校システムは罪深い。
歴史は繰り返すのでしょう。
‘上とみるか、下とみるか’ の序列判断は、日本語を使う我々日本人の価値基準ですからね。言語は、考えるための手段です。日本人家庭においても序列信仰は根深いものになりますね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。世俗の上下判断を心得ていないと、日常の日本語会話にも差し支えます。ですから、日本人の上下判断へのかかわりは、強迫観念の程度にまで高まっています。戦前のことですが、天皇陛下の前で生徒は直立不動でした。序列一点張りの生活ですね。
上下判断を求めてやまない日本人が、偏差値評価・学校システムを自分たちの家庭の中に取り入れることにしたのですね。
>■東大生、この空洞のエリートたち
>私は勤務先である東大の学生にこう言います。>「やればできる、と思えている君たちのその能力は、君たちが自分で獲得したものではない。それはまわりが君たちに与えてくれた環境のおかげだ。やらせてくれ、できれば褒めてくれ、伸ばしてくれるという環境があってはじめて、やればできる、と思えてきたんだ」と。
無哲学・能天気の学生たちには、世俗の上下判断以外に価値ある内容が見当たらないのでしょうね。
>三流、四流校の若者は「どうせ」「しょせん」の負け犬意識の持ち主です。>親からも教師からも「どうせおまえなんか」と小さいときから言われ続け、自分でもそう思い込んでいる。>18年かけて、自発性の芽という芽を摘まれ、叩き潰されてきたのです。
上下判断は、負け犬にも大きな強迫観念となって作用しますね。序列制度は昔から、日本人を幸福にしないシステムですからね。仕方がないシステムです。
>東大生はおそろしく素直です。>「東大生って偏差値高いだけのふつうの子や」というのが私のいつわらざる印象です。>どのレポートも、私が授業で言ったことの要約でした。新しいことも、オリジナルなところも、どこにもない。
そうでしょうね。暗記ものの勉強ではオリジナリティはありませんね。
>東大生は権威主義を深く内面化した人たちだということが言えます。>権威主義とは、自分より強そうに思えるものには闘いを挑まないということです。
そうですね。自己の序列の否定につながることは、序列人間である自分を否定することになりますからね。これでは、今までの努力が台無しになってしまいます。
>権威に従順な人が東大生だし、権威に従順だったから東大にもきたわけです。
権威主義とは、ものの上下に何はともあれ価値を認める主張ですね。
>もちろん、四流校の子どもたちが権威主義に毒されていないと理想化する気はありません。
そうですね。日本語を話せば、一流も四流もない。全ての日本人は、階称から逃れられませんからね。序列思考の虜になります。
>権威にもいろいろあります。>マスコミも権威ですから、電波媒体にはものすごくさらされています。
無哲学・能天気の民には、権威が何よりも頼みになります。ですから、洗脳教育を受けやすいことになります。
>世の中というのは様々な権威のあいだにランクをつける。
階称がある以上、あらゆるものに対して品定めが必要ですね。ランク付けが無ければ、権威が見えてこない。
>電波媒体の権威より活字媒体の権威の方が上だということを、活字媒体の権威が、何の権利があってか、主張するわけです。
何が何でも上と見られたい。これは、向上心の表れですね。小さな体に大きな望み。日本人の励みの原動力となっていますね。
>■権威主義をなまじ内面化してしまうと、どうなるか?
>同輩集団の前でへたなことを言って恥をかいてはいけないというプレッシャーに支配される。
見栄と外聞ですね。
>優劣をつけられる、評価づけられることを恐れる雰囲気が重く立ちこめている。
緊張しますね。
>おたがいがおたがいを値踏みしあう関係で、失敗することを恐れ、学生どうしのサポーティブな雰囲気がありません。
お互いに序列の定まらない人たちは、よそよそしいですね。その逆も又、真ですね。
>これでは伸びるわけがありません。
そうですね。
>東大はたしかに人材を輩出していますが、それは教師がいいわけでもカリキュラムがいいわけでもない。
教官は、教え方を知らないかもしれませんね。
>学生の母集団のなかには多少いい素材もまじっていたからです。
そうですね。
>■近代の制度としての学校
>近代の学校は、国家が整えたひとつの制度です。
そうですね。
>学校に通うことが義務とされ、国定の教科書を使い、おなじようなセッティングで授業がおこなわれる。>そして、そこを通過することで人間がある規格にはめられ標準化される ーーーそれを「国民化」といいます。
皇民化教育も、同じ手順で行われていましたね。
>同じような装置として軍隊とともに、従順な身体をつくる装置だということができます。
規格製品を作る装置のようなものですね。
>全員が前を向いて一人の人の話をみじろぎもせず聞く身体を小学校1年生から叩き込み、日常ではありえない身体へ馴致し、集団の中のひとつの単位へと標準化してゆく。
日本人の心は、戦前と変わりませんね。
>学歴が人間のラベルになり、身分制秩序にかわる選別原理になった。
没個性の品質管理ですね。
>競争に参加するかしないかという選択肢など成り立たなくなって、みんな一斉に横並びの競争にはいっていきました。
没個性の競争ですね。過酷な競争にならざるを得ませんね。
>同時に、競争でがんばれば上まで行けるという幻想を、みんなが持たされるようになります。
ノラクロ (野良犬のクロ) の励みですね。
>■敗者に現実をどう納得させるか
>自由・平等の民主主義の社会とは、じつはまったく平等な社会というわけではありません。>人間の社会は実際にはそれぞれ異なる処遇と異なる権力を付与された人々から成り立っています。>だから人はみな平等のタテマエにもかかわらず、他人が自分よりも優位な立場にあるということ、支配的な立場にあるということを、下位にいる人間にみずから合意してもらわなければなりません。
そうですね。
>みずから合意すれば、服従させるコストが安くてすみます。
民主政権の様なものですね。
>合意がなければ、脅し・暴力・締め付け…と、高いコストを支払わなければなりません。
独裁政権の様なものですね。
>これは学校の教師がいつもやっていることです。
>校則などを「みんなでいっしょに決めたのだから守ろうね」と言いますが、そのじつ教師が勝手に作った規則へ生徒の服従を調達するやり口です。
校則など、誰かが作らなくてはなりませんね。
>競争に勝った方に問題はないのか。>そんなことは決してありません。>この競争では勝てたけれども、つぎの競争で勝ちつづけることができる保証はない。>「勝者の不安」です。>勝者であり続けることの恐ろしいプレッシャーと不安がのしかかってきます。
休場の多い横綱の心境の様なものかな。
>両方共にきわめて強いストレス負荷をかけるシステムなのです。
強弱のシステムは、ストレスのかかるシステムですね。
>■学校的価値におおわれた社会
>学校的価値とは、明日のために今日のがまんをするという「未来志向」と「ガンバリズム」、そして「偏差値一元主義」です。
>だから学校はつまらないところです。
同感です。現在をも楽しみましょう。
>いまを楽しむのではなく、つねに現在を未来のための手段とし、すべてを偏差値1本で評価することを学習するのが学校なのですから。
没個性の価値であることに戸惑いは無いのですね。個人主義の理解は難しいですね。
>その学校的価値が社会にも浸透していった。
もともとあった序列社会の身分の価値が、学校の価値に置き換えられたのですね。
>これを「学校化社会」といいます(もともとはイヴァン・イリイチの言葉、最近は別な文脈で流通)。>結果、偏差値身分制とでもいうものが出現してきています。
家柄による身分制度が説得力を持たなくなりましたからね。
>■偏差値を自己評価にする若者たち
>偏差値の低い子たちは二言目には「どうせオレらは」「しょせん私は」と言うのです。
偏差値は人間の価値の全てですね。個性に対する評価は出てきませんね。
>生まれたときから「どうせ」「しょせん」と言う赤ん坊はいません。>「どうせ」と「しょせん」は、どこかで学習した結果です。>大人に言われ続け、自己評価にかえる。
洗脳による効果ですね。
>序列意識を叩き込まれ、自分の相対的な劣位が自分の自己評価にとって代わっています。
為政者は、’下におれ、下におれ’ と昔から掛け声をかけていましたからね。上下の判断で、すべてを決着させようという習慣でね。
>逆に東大生は偏差値が高いだけの普通の子です。>生活経験は少ないし、幼児的だし、突飛なところもエキセントリックなところもユニークなところもオリジナルなところもなんにもない、普通の子。>その普通の子が「へえ、すごい、偏差値そんなに高いんだ」などと言われて自分を特別な人間と勘違いしているだけです。>これも他者の価値判断を取り込んでいるだけです。
他者に迎合しているだけのことですね。それが自己利益にもなるし。
>■学校化世代が親となり子育てへ
>こうした偏差値一元主義の学校的価値のなかで育った子どもたちが、親となっています。>子どもを評価するものは偏差値しかありません。
個性を認めない子供の評価ですね。日本人の悲しみは、没個性の悲しみですね。顔のない人間でしょうね。
>できの悪い子どもは、「こんな子は私の子どもじゃない」という条件付きの愛し方をする。>自分と違うことを言う大人が子どもの周りに居てやったほうがいいとは、大人は思わなくなってきている。
ご唱和の世界への郷愁でしょうね。一億一心の再来でしょうか。
>今流行の学校と家庭と地域の「連携」などということも、私にはそのように映ります。>学校的価値の一元化の元での優勝劣敗主義が、勝者の不安、敗者の不満というストレスをどちらにも生むのだとしたら、このシステムのなかでは誰もハッピーにはなっていません。
そうですね。日本人を幸福にしないシステムですね。
>学校化社会とは、誰も幸せにしないシステムだということになります。
折角の学校化を生かすことのできないメンタリティが日本人の脳裏に存在しますね。学校を個性の伸ばせる所にしたいですね。
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