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日本婚姻史1~その7:大和時代以降の婚姻制度【嫁取婚(父系制私有婚)の登場】

みなさん、こんにちは。シリーズ「日本婚姻史1」その7をお届けします。
前回の「弥生時代後期の婚姻制度【支配層で萌芽した私婚制】」 [1]では、弥生初期に江南からの渡来人が持ち込んだ「私権意識と私権制度」、その基盤である「妻問婚」という対遇婚が、次第に拡大していく様子を見ました。
その過程は、被征服者の共同体は破壊せずに存続したまま自己の祭祀圏にくみいれたり、妻問婚を通じて相手の一族を擬制同族化し同盟氏族にするというものでした。
このように、原始から続く母系共同体が継続したことは非常に重要なポイントです。西洋での皆殺しの略奪闘争・原始共同体の徹底的な破壊とは、大きく異なります。このことが日本人の縄文体質の継承に大きく寄与たといえるのではないでしょうか。
 さて、今回は、まず前回のおさらいも兼ねて「妻問婚」について整理して、部族連合の時代を経て本格的な序列統合社会=私権統合社会へと移行していく奈良時代以降の婚姻制度を見ていきます。
 
 Ⅰ.妻問婚   :大和~奈良(710年~)頃まで
 Ⅱ.婿取婚   :平安(794年~)から鎌倉頃まで
 Ⅲ.嫁取式婚姻 :室町(1390年~)頃

の3段階の婚姻制度について、高群逸枝著『日本婚姻史』の抜粋から紹介します。
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Ⅰ.妻問婚

 大和~奈良(710年~)頃までの支配的婚姻。夫婦別居の建前で夫が妻のもとに通う。その背後にヤカラと称する族的共同体が想定される。
 族長層は、各妻方に生まれた子を中心にその一族を擬制同族化、同盟氏族化、部民化する政策が取られ、夫の手で妻方の屋敷に妻屋が建てられ、そこに妻と子を独占する形が発生した。妻方部落で生まれ育った子の中から、父たる大氏の族長が、自分の相続者を指定するようになり、族長層には早くから父系観念が生まれることになる。
『大和時代以降の婚姻制』 [3]
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(写真はコチラ [4]から)

2400年前頃より妻問婚の江南人が弥生時代を形成し、その上に2000年前頃より朝鮮半島からの渡来人が重なり、ついに1700年前朝鮮半島からの最後の渡来人が大和政権を確立します。その後も朝鮮半島からは多数の帰化人が渡来し、最新の技術や中国の思想を持ち込みます。
彼らは西域のモンゴル遊牧民や漢民族の私有婚の影響を強く受けていることは確かなのですが、郡婚原理の総遇婚から対遇婚へと転換し、父系観念が芽生え始めていたとはいえ、日本で支配階級となっても江南人由来の妻問婚(母系氏族を生活拠点とする母系制的対偶婚)を継承した点は注目に値します。
Ⅱ.婿取婚

平安(794年~)から鎌倉頃までの支配的婚姻で。狭義の婿取婚。妻方同居の建前。その背後には両親世帯が成立する。詳細には次のように4分類できます。
1)前婿取:大化の改新(645年)後平安初までの、通いから住みへの過渡的段階。
 大化の改新によって、土地が共有から保用、私用に移り、さらに氏族経済を支えていた部民制が廃止され、生れ落ちた子は父の氏姓につくことになり、氏族は崩壊過程に入る。但し、政治革命的で社会革命でなかったためか、共同体は半崩れとなったので、母系制原理の妻屋小家族が生活単位となった。
 奈良時代に発生した荘園制社会では、生産力の増大とともに男の労働力が必要となり、婿の労働力(武力を含む)に目をつけることになる。特に農村の長者層は、労働力確保のために、各戸の小世帯を崩壊させて自家の下人化したり、妻問婚を利用して、自家の娘や下人の娘の下に通ってくる婿を住みつかせて、通いから同居への転換を促し、婿取婚を発生させる。
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(写真はコチラ [5]から)
2)純婿取:摂関政治の盛行時代で婿取儀式が中央でも地方でも見られる段階。
妻方の父が求婚し、婚姻後は妻方の両親世帯と同居。
3)経営所婿取:院政期。自家以外のところに経営所と称する婚礼場所を設けて妻方の手で婿取婚を行い、その後夫婦は新居に移る。
4)擬制婿取:鎌倉(1192年~)から南北朝頃まで。夫方の親が別宅へ避居した後を妻方の家として擬制して婿取をする形態。
『大和時代以降の婚姻制』 [3]
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(写真はコチラ [6]から)

飛鳥時代→奈良時代→平安時代は、日本が律令制体制を基盤とした中央集権国家を確立していった時代。つまり、日本が序列統合社会=私権統合社会へと移行したということですね。
その過程で、藤原氏に代表される貴族の力が強くなり、いわゆる「摂関政治」の時代に入っていきます。当時の権力の基盤だったのが“土地”でした。財力・権力を持って名実ともに権力の座につくためには、個人が広大な土地を所有支配することが必要でした。そこで公地公民を建前にしつつ、一方で三世一身法や墾田永年私財法などの法令を施行し私有地(荘園)を拡大し権力を手中にしていきます。
律令では中国にならって全ての官位は男に与えられるので、家を代表する男の権限が高くなり、収入も家の社会的地位も男が独占していくことになります。その私有財産・身分を子孫に受け継ぐために父系相続の萌芽が表面化してきます。
しかし、弱体化したとはいえ集団の母系的な性格は根強く残っていたので、婚姻様式については、(表面的で形式的だが)母系制的婚姻制度が残り続けていたようです。
Ⅲ.嫁取式婚姻

 室町(1390年~)頃に表面化した妻が夫方の家父長の族中に同居する形態。婚姻は夫方の家父長の手によって行われ、夫方が貰い手。妻が呉れ手という取引観念に基づく。この段階で古代から家父長婚を持続させてきたアジア・アラブ諸国に対して遅れて合致することになる。
『大和時代以降の婚姻制』 [3]
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(写真はコチラ [7]から)

ついに、日本の支配階級において嫁取婚(父系制私有婚)が成立します。嫁取婚の本質を一語で言えば「家父長婚」、その家父長婚の目的は、「家」として象徴化されている私有財産の純父系的相続です。(この「家」を象徴とする私権意識のもと、女は「呉れ手(くれて)」と「貰い手」によって取引される商品として位置づけられることになったのです)
この主役が、中央で貴族が大きな権力を手中にしている一方で、地方で力を拡大した武士階級です。武士階級は平安時代後期に当時の皇族貴族らを護衛する階級として登場しますが、時代を経るにつれ、公権力の担い手としてその権力を拡大していきます。そして、その武士が貴族から土地を奪い、その奪った土地を力づくで確保し権力を手中に収めていく過程が鎌倉以後、中世の歴史だったのです。
武士階級は所属していた村落共同体から抜け出して貴族に仕え、統合階級へと成り上がっていったその過程の中で、土地への執着を強める一方、集団を統合するために自集団第一の価値観に転換し、絆を強固に保つための手段として私有婚規範へと転換した、のではないでしょうか。
(この構造は、以前扱った「遊牧部族の父系制社会から私有婚誕生までの歴史構造」 [8]と同じか?)



 日本では、少なくとも平安時代までは私権統合国家の支配階級も、妻問婚~婿取婚という対遇婚に移行しながら、母系氏族を生活拠点とする母系制的婚姻制が継続され、私有婚へと移行することはなかった。この点は、略奪闘争により母系氏族=本源集団をことごとく解体しつくした西洋と大きく異なる、日本の特徴といえそうです。
そして、嫁取婚(父系制私有婚)への転換後も、その後長らく、嫁取婚は武士階級だけにとどまり、各時代に上下層の区別なく流通した代表的婚姻語の「妻問婚」「婿取婚」は幕末まで各地に残り、農村部では集団婚の流れを汲む夜這婚が昭和初期まで残っていたことも日本の婚姻史の見逃せないポイントですね。
嫁取婚(父系制私有婚)に移行したといっても、変わらず残り続けたこともありました。それは婚姻が集団課題であったことです。実は、婚姻が集団課題→個人課題へと転換するのは、国家間(同類)圧力の上昇⇒国家統合強化が至上命題となる明治(100年前)に入ってからなのです。
次回は、一気に現代に近づきこの明治時代の個人課題としての婚姻への転換にせまります。婚姻を集団課題→個人課題へと転換した外圧状況、原因に迫る予定です。こうご期待!!
◆今回の参考資料
『日本的政治システム1 「天皇制」は、どのようなシステムに支えられてきたのか?』 [9]
『中央集権から封建体制へ その必然構造』 [10]
『武士の起源は東国の部族か?』 [11]
『武士が日本オリジナルの一対婚を発明した?』 [12]
『大和朝廷以降も妻問婚』 [13]
『なぜ武士階級はそれまでと異なる婚姻規範を確立させたのか?』 [14]
『うめぼし博士の 逆・日本史/3〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代 』 [15]樋口清之著
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