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日本婚姻史2~その1:夜這い婚とは?

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当ブログでは、「日本婚姻史1」として、縄文時代~大和時代の婚姻制度:総遇婚~交叉総遇婚~妻問婚~婿取婚~嫁取婚の変遷とその背景を見てきました。
  
  
日本婚姻史1~その1:縄文の婚姻性の根底部にあるもの~期待応合 [1]
日本婚姻史1~その2:日本人の原型を形作った縄文人を取り巻く環境 [2]
日本婚姻史1~その3:縄文時代の婚姻制を探る [3]
日本婚姻史1~その4:日本の交叉婚の特殊性 [4]
日本婚姻史1~その5:弥生時代前期の婚姻制度【持ち込まれた私婚制】 [5]
日本婚姻史1~その6:弥生時代後期の婚姻制度【支配層内で萌芽した私婚制】 [6]
日本婚姻史1~その7:大和時代以降の婚姻制度【嫁取婚(父系制私有婚)の登場】 [7]
日本婚姻史1~その8:日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?~明治編 [8]
  
  
弥生時代に持ち込まれた妻問婚を下敷きにして、嫁取婚という私婚制度が日本に定着していきますが、それは武士階級だけのことであり、農村部では集団婚である「夜這い婚」が残り続け、何と昭和初期まで残り続けていました。
   
  
今日からスタートする「日本婚姻史2」では、9回に渡りこの「夜這い」について追求していきたいと思います。
男女関係が個人の好き嫌いに委ねられ、婚姻は個人的なものとなっている現在の視点からすると、「夜這い」は非常に奇妙な風習のように見えますが、私婚制度が法的に整備された後も長く残り続けていった「夜這い」には、男女関係、集団統合の重要なポイントがあるように思います。
   
   
1回目の今日は、まず「夜這い」とはどのようなものだったのかをお届けしたいと思います。
夜這いと聞くと、男が勝手に女の元に忍び込んでいくようなイメージがありますが、実態はどのようなものだったのでしょうか。
   
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るいネット「夜這い婚」 [10]より
「夜這い」の起源、あるいは全国でここまで広く行われていた理由については、諸説があります。
ひとつは、集団婚、妻問婚の名残とみる説です。
集団婚という婚姻形態は、ひとことで言えば複数の男と女がグループで婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取時代から歴史的に長く行われていたかたちです。
また、妻問婚とは、男が女性のもとへ通う婚姻形を指しています。
この場合、語源についても「夜這い」→ヨバフ、ヨブ(男を「呼ぶ」)と解されているようです。
高群逸枝などが、こちらの説に依っています。
もうひとつは、近世郷村の農村社会に固有の様式、とみる立場です。赤松啓介はどちらかというとこっちに近い。つまり夜這いは、ムラの置かれた現実の状況(特に経済状況)に対して、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする見方です。
ちなみに赤松は、「夜這い」を二つの類型に分類しています。
「総当り型」
若者に加え、既婚者も夜這いの参加を認める型(後家や女中、子守ももちろん含む)。20~30戸の小字が多い。
この型のなかでも、女房持ちは他人の女房を、若衆は娘をというように分化しているムラと、特に区別をしない文字通りの総当りであったムラとがあるようです。ただしさすがに、他人の女房に夜這いするのは、主人が留守のときに限られるそうです。
「若衆型」
若衆仲間にのみ夜這いの権限が公認され、対象は同世代の娘仲間(+後家)に限られる型。ムラの戸数は相対的に多く、若衆と娘の員数が均衡していることが多い。
この型のなかでも、基本的に全ての若衆と寝るやりかたと、ある程度の選別ができるムラとがあったようです。また1年ごとにくじ引きで相手を決める方式を採用する例もあります。
総当り型に比べ様式化されたかたちと言えると思います。
この場合、嫁をもらうと基本的には、夜這いは卒業ということになります。
「総当り型」となるか「若衆型」となるかは、ムラの規模にもよりますが、そのムラの置かれた現実の経済状況による面が大きいようです。
いずれにしても表向きは(一応)一夫一婦制ですが、実態的にはその制度は解体され、代わりに皆が性的満足を得られるシステムで補完されていた、と見ることができるのではないかと思います。そしてそのようなシステム=「夜這い」は村落共同体を維持するために必要不可欠であったがために、全国で普遍的に行われるようになったのだろうと思います。

  
  
村によって、夜這いの習慣は様々だったようです。それらの類型を見てみましょう。
  

るいネット「夜這い婚の類型」  [11]より
☆「総当り型」⇒性的年齢に達した者なら、男女ともに自由に交渉してもよいとするもの。
●「全解放型」・・・娘・後家をはじめとして、いつでも、誰のところに行ってもよい。
●「不在解放型」・・・配偶者が留守のときに限る。
●「嬶解放型」・・・嬶の場合に限る。
※嬶というのは、主人の女房。後家というのは、主人に死別した嬶。
自分(主人)が不在の場合に、妻などに対する夜這い阻止しようとする「防衛型」もある。
●「禁止型」・・・妻の兄弟とか、親類の信用できる男に警備を頼む。
●「交替型」・・・気心の分かった男に警備を頼むかわりに、その男が留守のときは自分が警備にいく。
●「交換型」・・・「交替型」を頼む関係の夫婦間などで、お互いに女房を解放し合う。
☆「若衆型」⇒娘、後家、下女など、つまり嫁と嬶、婆を除くすべての女を、若衆が管理するというもの。
「割替式」(最も厳しい類例)
●「定制型」・・・正月の初会合にくじ引きその他の方法で、若衆と娘との組合せを決め、決まると一年間は変改しない。
●「変替型」・・・基本は「定制型」だが、少しは事情によって変改を認める。男女双方の希望で、組合せを交替するとか、一定の期間を経て組替えるなどの方法。だいたい無償だが、酒一本、二本というような有償の場合もある。
「自由式」(最も普通な類例)
●「随意型」・・・完全解放の早いもの勝ち。喧嘩が起こることもあった。
●「予約型」・・・男女双方が唄合戦をして勝敗をつけたり、合意の上で約束したりする。そのかわりに失意の者も出て、若衆組や娘仲間の幹部たちが苦労することになった。
●「巡訪式」・・・「割替式」と「自由式」の中間様式。若衆が順次に定められた娘の家を廻る。娘から見ると、訪れてくる相手によって楽しい夜もあれば、苦しみの夜もあることになるが、これは意外に分布の広い様式。公平という考慮が喜ばれたのかもしれない。
●「見習型」・・・若衆の先輩のお供をして草履を持ったりする「見習い」を二年ぐらいしているうちに、その先輩や娘たちが相談して適当に手引きしてくれる。親が若衆頭に頼んで手引きしてもらう例もある。
●「独立型」・・・見習修行中に、先輩の話をよく聞いておいて、単独で好いた女の家へ忍び込む。ほんとうの「夜這い」といえるのかしれない。主として「自由式」の村で行われた。「割替式」「巡訪式」の村では、だいたい若衆入りすると自動的に相手を決められたり、順番が廻ってくると女の家に行けばいいので、忍び込みの苦労はしなくてよかった。

  
  
いずれにしても、性は個人の課題ではなく集団全体のためのものであり、夜這いは集団ごとに完全にルール化され、集団内の収束力を維持し助け合いを促進するものだったようです。
続いて明治初期の夜這いの様子を見てみます。当時の様子を具体的に描写した記事がありましたので引用させていただきます。
  

「YOBAI」 [12] からの引用です。
(中略)
若者宿
 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。
 共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。
 若者宿の楽しみの一つに、夜這いがある。話を、夜這い だけに限ろう。夜這いは、確かに娯楽の少ない農村にあって、若者の憂さ晴らしの面もあったことは否定しないが、それは、どちらかというと、特殊な事例であった。実際には、きちんとした掟もあり、掟破りには、時には村に住めなくなるほどの仕置きもあり、掟破りはほとんど無かったといってよい。また、結婚相手を見定めるための真面目な面もあったのである。若い男が、他人の家に忍び込んで、強姦するという類の話では、けっしてなかった。
 掟があるといったが、夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。
 また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。
 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。
 娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。
当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。
(中略 以上引用終わり)

  
  
夜這いは男が性欠乏を満たすためのものなどではなく、男女ともに充足するためのものであり、その主導権は女が持っていたと言えそうです。
夜這いとは、男女関係を個人課題ではなく集団課題とし、集団全体の活力源として集団の収束力も高める、集団統合の要の規範であったようです。

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