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原始時代の社会期待(11)~縄文人は、何故農耕をはじめなかったのか?

Posted By matu On 2011年2月4日 @ 8:49 PM In B 人類500万年に亙る共同体社会 | 4 Comments

前々回 [1]及び前回 [2]は、初期人類が農耕を始めた西アジア地域を中心に、そこでの社会期待を追求しました。
今回は、日本に焦点を当てて考えます。
縄文人は、狩猟採取生産を主要な生産手段としていました。しかし、既に縄文時代の中期から後期に掛けて、採取生産から得た能力で初歩的な栽培技術を持ち合わせていたと考えられますが、「農耕」を主要な生産手段とはしませんでした。彼らは、何故「農耕」を始めなかったのか?そこに有る社会期待とはどういうものなのか?を考えてみたいと思います。
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【縄文人は、何故農耕を始めなかったのか?】
縄文時代前期(ヤンガー・ドリアス期=11000年前)

>一万五〇〇〇~一万三〇〇〇年前頃の西アジアの植生の分布と最初の農耕革命を行ったとみなされる前期ナトォーフ文化の分布を重ね合わせると、定住革命と農耕革命を行った前期ナトォーフ文化の分布は、最初に森が拡大した地域とぴったりと重なる。さらに初期農耕遺跡の分布と植生分布とを重ねてみると、初期農耕遺跡の多くは、森の分布域かその周辺に点在することがわかる。イネ科の草本を栽培するのが農耕であるから、当然その技術革新は、広大な大草原の真っ只中で引き起こされたと考えがちであるが、必ずしもそうではない。むしろ、森と草原のはざまで農耕という技術革新は誕生したようである。(「文明の環境史観」安田喜憲氏)
安田氏は、一万五〇〇〇年前以降の気候の温暖・湿潤化による森の拡大期に、人類は大型哺乳動物の激減した草原を捨てて森の中に退避し、森の植物資源(ピスタチア、オリーブ、ハマナツメ、モモ類など)利用の採集生産に移行した、という。そして、そこで培った植物利用の技術が、一万二八〇〇年前頃のヤンガー・ドリアスの気候悪化による食料危機を契機に、農耕を誕生させる技術革新をもたらしたことを示唆した。
水月湖の花粉ダイヤグラムによると、日本のヤンガー・ドリアスの寒冷期は一万二三〇〇~一万一二〇〇年前と大きくズレており、かつ、穏やかであったために、むしろ温帯の落葉広葉樹の拡大をもたらし森の食料資源が豊富にあったので、あえて農耕を開始する必要がなかった。引用元:リンク [4]

縄文時代中期(ヒプシ・サーマル期=6000~5000年前)

ヒプシ・サーマル期の温暖期が終わり、ユーラシア大陸全体が冷涼化に向かう時代であった。気候悪化により海面は低下(=海岸線は後退)し、沿岸地帯の生活条件の悪化を回避するように、一万2000年前ごろから住んでいた居住地を放棄(福井県の鳥浜遺跡)して内陸部に集中するようになる。
(本文略)
気候変動により自然外圧が高まるにつれ、ひたすら自然と同化し、共認回路を全開にして豊かな潜在思念を土器のデザインに表出させたのが火焔土器であり土偶であったのではないかと思う。縄文時代に稲作が広まらなかったのも、自然の循環・再生に身をゆだねることに重きを置いた故ではなかろうか?引用元:リンク [4]

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縄文時代の前期は、平均気温が-7度と大きな寒冷期(ヤンガー・ドリアス期)があったものの、中期以降は-2度~+2度の平均気温変動で概ね穏やかな気候で有った事がわかっています。その影響で、落葉広葉樹の森が拡大して森の食料資源は豊富にあり、又その様な環境で人口増加の現象も生じたにも関わらず、食料不足におちいる様な事態には成らなかったのです。従って、多くの労力がいる「農耕」をしなくても生存できた訳で、それ故にまだ精霊信仰を根底にして、自然の循環・再生に身を委ねた事は充分に想像できます。縄文人は、自然との調和に期待しみんなと共に協調して生存してきたのです。
【縄文人は、農耕生産よる集団構造の変質を恐れた。】
縄文時代後期(3500~800年前頃)

”後期、畑稲作が始まった後も平行して網羅的食料体系は残っており、稲作が始まった後、他文明で見られる、階層社会の成立や戦争の開始といった社会のシステムや枠組みを大幅に変換させるような形跡は見られなかった。
それは、畑稲作は既存の共同体組織で充分に対応できたと思われるし、余剰を生み出さないイデオロギーが残存し、自然を大きく破壊しない、サイクルを変動させないタブーが存在したとさえ想定できる。
後期に登場した呪術の技術はそれ(自然との関係の破壊)を戒めるために使われたとも考えられ、そのことにより、縄文時代の農耕は伝統的な獲得経済の一部を構成したにとどまり、けっして支配的な食料獲得様式にはならなかった。”
稲作を拒否したのではなく、社会の変質を拒否したのである。
引用元:リンク [6]

IMG_22741%5B1%5D.jpg [7] 461441942a407af3f6dfe06cde8159d9%5B1%5D.jpg [8]
縄文時代の後期の最後頃(2800年前)に、再び寒冷期が訪れ食料不足が発生し食糧危機に直面しました。それでも縄文人は、直ちに「農耕生産」に向かわずに、精霊の応合期待と共同体組織のみんな期待の中で、自然との共存の術と知恵で難局を突破したのです。これが、縄文時代の社会期待と考えられます。
一方で縄文人は、農耕生産により本源的共同体社会が破壊されていく危惧を感じ取っていたのです。

次回は、縄文時代から弥生時代に移行する中で、農耕(稲作)が主流の生産に成っていったのか?追求していきます。
ご期待下さい。


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