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日本人の起源を探る 1 ~シベリアからの狩猟部族(替え刃式砕石細石器)

「日本人の起源」と言うテーマは当ブログでも3年前、色々な角度からのアプローチを試み【「日本人の起源」解明 これまでの成果と残課題 [1]】と言う投稿に纏まっていますし、これに追加してブログ“縄文と古代文明を探求しよう”では『日本人の起源 13-1 ~日本人の起源データベース1~ [2]』にまとめられています。こちらの方もご覧下さい。
今回のシリーズは近年の考古学研究や遺伝人類学、形態人類学研究の成果を加え、改めて「日本人の起源」と言うテーマをるいネット(リンク)から引用し、11回にわたって紹介します。予定としては以下のようになります。
・シベリアからの狩猟部族(替え刃式細石器)の渡来 [3]   
2万年前に南からも移住していた [3]            
スンダランド海洋航海民の誕生 [3]             
縄文時代以前から複数のルートで移住してきた? [3]     
遺伝子学から見た人類拡散の多様性~崎谷氏の著書より [3]  
日本列島ではなぜ多様な人種が存続したのか [3]       
モンゴロイドの歴史⑥ 日本人は、どこから来たのか? [3]  
日本語の起源研究の状況 [3]                
南方か北方かを言葉からみる [3]              
日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか? [3]  
日本語の起源:「文法は北方由来、語彙は南方由来」の謎 [3]  
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          画像は「日本人の源流を探して [6]」より
第一回目の今回は縄文人の祖先、旧石器人の話です。
日本列島において石器等で確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼります。定住跡が殆ど無く、狩猟生産の時代です。
  
以前は縄文人の祖先をシベリヤのブリヤート族だと考えるのが一般的でした。
それはNHKの「日本人遙かなる旅」でも紹介されています。
るいネットでも「シベリアからの狩猟部族(替え刃式細石器)の渡来 [7]
で以下のように紹介されています。

NHKの『日本人はるかな旅』を見ました。以下のようなプロットでした。
 縄文人の遺骨から抽出したDNAを分析し,現生人類のそれと照合するとシベリヤのブリヤート族が同じDNA(南方系の例外がある・・これは続編のネタ振りだろう)を持つ事が分かる。考古学的な調査により,シベリヤの地に,人類が展開した時期そこは,(現代よりは)温暖な草原で,人類はマンモスを狩って生きていた。また,魚油を貯蔵する器として土器を使用していた。という事が分かっている。(他に替え刃式細石器など使用)
 
( 以下省略 )

日本人はるかな旅 [8]」は2001年の放送で、今でもインターネットで概要を見ることが出来ます。
私も見ましたが、かなりの説得力があったと記憶しています。
しかし今回、改めて調べてみるとTVで言っているほど単純ではない事がわかりました。
縄文人の祖先は誰なのか、
石器時代の人骨が見つかっているのは本土では 浜北人(静岡県浜松市)と港川人(沖縄県)に限られています。
  
約1万3000年前に始まった縄文時代の縄文人は、旧石器時代後期~末期に国内に住んでいた人たちの子孫、と言う説もある。浜北人や港川人は、縄文人の子孫なのだろうか?
  
浜北人発掘から40年経っても解決されない謎がある。上層人の骨の形状が縄文人と似ているのに対し、下層人の脛骨だけが違っている。縄文人の頸骨は、左右に押しつぶされたように前後に長い、平たい形をしているが、下層人にはそうした特徴がないのだ。
  
沖縄ではほぼ完全な全身骨格が発見されている「下層の港川人」も大腿骨や頸骨の形状が縄文人とは異なる上、鎖骨や橈骨(前腕の骨の一つ)などが縄文人にあり得ないほど短い。
一方より上位の地層で骨盤など体の骨片9店が見つかった「上部湊川人」は、縄文人の骨と酷似しているという。
  
松浦教授らは、同時に出土した木炭片の年代などから港川人を約1万8000~7000年前、上部港川人はやや新しい時期と推測してきた。ところが、骨の相対年代を測るフッ素年代判定法などで詳しい鑑定を進めたところ、港川人の内「四号女性」が従来の推測より新しく、上部港川人と年代が重なる可能性が高いことが分かった。松浦教授は「骨の特徴の異なる人々がある時期に同時に存在していたことを示唆する。上部港川人は下部港川人の子孫ではなく、外から沖縄にやってきた可能性がある」と話す。
  
浜北人がいた本土でも同じ状況を想定すれば((上層人のいた)約1万4000年前には外来の人々が元からいた旧石器人に取って代わり、縄文文化の担い手になった)と言う大胆な仮説も成り立つ。現状では旧石器時代の人骨がわずかしかないため、この仮説の検証は今後の研究を待たなければならない。
 
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ナイフ形石器  矢出川技法による細石核矢出型  湧別技法による細石核白滝型  
  
人骨では以上であるがこの時代、石器はある程度残っている。
約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり列島全域で広く使用されたが約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まりました。(先に紹介した『日本人はるかな旅』でもシベリヤからの替え刃式細石器の文化の流入が根拠の一つとなっている。)しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消して行ったのです。
 
しかし、この細石器も詳しく見れば、二つの技法がある。
北海道から東北、日本海地方で多く発掘されている「湧別技法」と中部地方~九州で多く発掘される「矢出川技法」である。

  湧別技法:木の葉型の細石核を縦割りし、細長い石の端から細石刀を
        連続して剥離する技法で、同じ形の細石刀を次々に生産できる。
  矢出川技法:円錐形か角柱形のサイコロ状の石核から小振りな細石刀を
        取り出す。

 
浜北人が住んでいた可能性もある静岡県の磐田台地でも矢出川技法の細石刀が出土。
中国の山東半島で同様の細石核が出土しており「黄河流域から九州へ流入した」とする説もある。
 
ここで注目に値するのは青森県でも矢出川技法の細石核が見つかり、湧別技法の石核と混在している所です。これは、最初に矢出川技法による円錐形・角柱形細石核の文化が九州から関東・中部まで普及し、部分的には東北まで広まり、ナイフ形石器に取って代わった。その後、北海道から湧別技法の集団が南下し、東北の先住民を吸収、融和していった、とも考えられる。
  
旧石器時代末期に起った細石刀文化の流入。静岡の北浜人や沖縄の港川人も
約1万4000年前までに、縄文人に似た骨格の人たちに変った。関連性は照明されていないが、同じ時期シベリアや中国から人が入り込み縄文人の祖先となった可能性が高い。
この辺りは今回のシリーズで今後追究していきたい。
 
 

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