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日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ2‐⑥~渡来人も魅かれた縄文の共認風土~

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画像はこちら [1]からお借りしました。
前々回 [2]前回 [3]と縄文時代の男女そして集団の関係性を見てきました。
その特徴をまとめると、
①自然に恵まれた日本では、極限時代に形成された肯定視をそのままに、共認充足が関係性の基盤に。
②その共認充足を基盤に、他集団とも充足を与え合う関係へと発展。
③集団間も、集団内と同じく皆との共認充足を最大期待として統合。
④その統合の場=集団と集団を繋ぐ場がクナドであり、原初のマツリ場。
というものでした。
今回の記事では、他集団とも肯定性、充足性を発展させてきた縄文人たちの場に、略奪闘争に敗れた大陸からの渡来人がやってくる縄文後期~弥生時代を扱います。気温の低下により、生存圧力も高くなっていく状況の中で、縄文人たちは渡来人をどのように受け入れ、どのような関係を築いていったのか追求していきます。
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縄文後期から弥生にかけて、大陸から渡来人が日本に漂着しました。その渡来人は大きく3波にわたってやってきています。このことは、「日本人の起源」 [4]や、「縄文と古代文明を探求しよう」 [5]に詳しいです。
◆縄文社会に変化を及ぼしたのは第2波の渡来人
3,000年前に渡来した第1派の渡来人は、縄文人にほぼ完全に融合していったと思われます。この時代を見る遺跡として菜畑遺跡があります。遺跡から伺えるこの段階での変化は、水田稲作の開始が挙げられますが、出土した遺物からは、土器の様式は未だ縄文のままで、渡来人によって持ち込まれた稲作も、縄文以来の畑作の延長で取り入れられた小規模のもので大規模水田はまだ見られません。
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菜畑遺跡の写真は、こちら [6]からお借りしました。
縄文社会に変化を及ぼした渡来人は、恐らく2,800年前頃に渡来した第2波だと思われます。この時代を見る遺跡として板付ムラの遺跡があります。遺跡から伺えるこの段階での変化は、稲作水田が大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会です。
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板付遺跡の写真はこちら [7]からお借りしました。

板付ムラの水田は、低い平地に大きな河川から幅2m、深さ1m、長さ1キロ以上に及ぶ大水路を築いて引水し、堰を設けて引水しそれを再び大水路に回水するという極めて高度な灌漑技術を駆使した“乾田”であった。乾田とは、水を注いだ時は水田であり、水を抜いたときは田圃になるという現代と全く同じ高度な水田技術である。
~中略~
考古学の寺沢薫は、環濠の目的を防御機能におくのではなく、ムラの団結力の維持・強化にあったのではないかとしている。すなわち、外濠は居住区域と水田区域を分けるという意味だけでなく、“身内2を認識し「うち」と「そと」の世界を明確にしようという意図があったという。
また内濠は首長などの特定の人々と一般のヒト、あるいは聖なるものと俗なるものを分ける境界の意味があったのではないかと寺沢はいう。すなわち階層差が発生し始めたのである。
~中略~
板付遺跡のような環濠集落が水田農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されるに至っている。すなわち、水田稲作技術だけでなく、人を支配するという思想や統治能力を持った集団の渡来が考えられるのである。「日本人の起源」 [4]より

上記のように、第2波の渡来人は縄文社会に始めて階層化社会を集団で持ち込んだと思われます。契機になったのは中国大陸での略奪闘争でしょう。板付ムラの遺跡が現れる頃の中国大陸は、略奪闘争が本格化していく春秋時代です。大陸での略奪闘争の負け組みが玉突き的に追いやられ、その一部が日本に漂着し、階層社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだと考えられます。その一方で、縄文人と争った形跡が見られないことからも、大陸のような略奪闘争は日本では起こらず、平和裏に共存していったと思われます。

◆縄文の族外群婚と、渡来人の対偶婚
前回の記事(リンク)でも紹介したとおり、縄文前期までは単一集団内での族内婚のみでしたが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていきました。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであります。
このような縄文の婚姻様式が、第2波の渡来人によってどのように変化していったか。
「日本婚姻史」著者:高群逸枝には以下のように書かれています。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。
~中略~
しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。
~中略~
クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

上記の高群逸枝の縄文弥生にかけての婚姻史観を少し整理すると、
① 縄文社会は族外群婚=クナド婚であった
② 水田農耕の普及に従って、縄文以来の族外群婚を発達させる一方で、対偶婚という新たな婚姻形態が登場
③ その後、対偶婚⇒個別婚が表向きの婚姻制度となるが、実態は群婚原理となっている。

と整理できます。
まず、ここでいう対偶婚とは渡来人によってもたらされた婚姻様式だと考えられます。
前述したように、この時代既に中国大陸では略奪闘争が起こっています。私権意識をはらんだ渡来人にとって、物財は私有対象であり、財や権限の出所、相続を明らかにしていく必要があり、それを制度化したのが対偶婚です。その対偶婚を初めて日本に持ち込んだのが、第2波の渡来人だったといえます。
しかし、この対偶婚。土地も財も性も皆のものという縄文のクナド婚とは根底的に違っており、その意味で【クナド婚は共認充足を第一義とした婚姻制度】【対偶婚は私有権を前提とした婚姻制度】という決定的なパラダイムの違いがあります。上記②から伺えるのは、『縄文人はこの時代も変わらずクナド婚』、その一方で『渡来人は対偶婚』という二つのパラダイムが同じ日本の中で平和裏に共存していたことです。
そして上記③からは、対偶婚を持ち込んだ渡来人が縄文の群婚原理に魅かれて、実態は群婚化していった様子が伺えます。水田稲作により渡来人の人口が拡大するに従って、表向きの婚姻制度は個別婚化していきますが、実態は縄文からの群婚原理が生き続け、私権意識をもった渡来人ですら縄文の共認風土(充足)に魅かれて縄文化していったのだと思われます。

◆まとめ
今回、縄文から弥生を調べていく中で一番の気付きだったこと。
それは、極限時代から培ってきた共認充足を育む縄文風土は、私権意識をもった渡来人ですら包摂するような引力と制覇力を持っているということ。だからいつの時代も表向きの制度はどうであれ、実態の関係世界はいつもこの縄文風土がベースにあるのだと思います。このことは、これからの日本を考えていく上でも、重要な実現基盤になってくると思われます。
さて次回は、大化の改新により大衆側にも戸籍や租税等の新たな制度が導入されていく時代を見ていきます。縄文からつづく大衆の群婚原理はどのように変化していったのか。お楽しみに。

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