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再読 日本婚姻史・・・縄文時代の婚姻様式:集団密度との関係について

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■はじめに
 皆さんこんにちは 😀 。婚姻史再読シリーズ、3回目の記事です。 今回は、前々回(再読 日本婚姻史 縄文時代 集団の有りようの検討と婚姻様式 [1])の記事に続けて、「縄文時代の婚姻様式」について書こうと思います。今から約1万年前の縄文時代、日本に住んでいた人は、どうやって子孫を残してきたのでしょうか?


■縄文時代は、お隣さんに会えたのか?=族外婚は可能だったのか?
 まず、単純な疑問です。前々回の記事 [1]で、

密度の低い集落では、族外婚はほぼ不可能で殆ど全員が族内婚=血縁集団となります。密度が高い地域でも近隣集団との交叉総遇婚で、やはり結果として氏族血縁が殆どではなかろうかと思います。

という推察をしましたが、果たしてどうだったのか?そのヒントが↓↓↓これ↓↓↓
[2]
 小さくて申し訳ありません。関東地方にある縄文前期の貝塚を地図上にプロットしたデータです。赤い丸ポチが貝塚。
 これを見ると、沿岸地域に集まるかたちで、かなりの数の集落が存在していたようです。お隣さんも近くにいます。この画像の引用もと [3]には

縄文人の主な食糧資源が堅果類と魚介類であったことを考えれば、この地域に人が集まるのは当然の結果であり、魚介類が豊富に利用できたからこそ、これだけの人口密度を保つことが出来た。

とされています。なるほど。今よりずいぶん内陸まで海が入り込んでいたこともあって、狭い地域に多くの集落がある。すなわち、人口密度が高いということでしょう。
 
 関東地方の人口密度は、縄文早期から後期まで一貫して全国で最も高かったと言われています。そうであるなら、関東地方に限っては「お隣さんが遠すぎて会えない」という状態はなかった。したがって、族外婚も可能であったと推察します。
 
 一方、別の地域ではどうか?そのヒントが↓↓↓これ↓↓↓
[4]
 引用元は、前々回の記事 [1]です。半径20km圏内の遺跡の数ごとに分類して、色分けをしたもの。見ると、前述のように、関東地方だけ色が青で、最も遺跡数が多くなっています。
 
 他方、全国に目を向けると、半径20kmの圏内に遺跡が3~13という地域がほとんどということがわかります。なかでも、四国地方が最も少なく、おおよそ集落が孤立していると見えます。中国地方も四国と似たようなもので、かなり疎らに黄色いプロットが点在しています。
 
 このような地域は「お隣さんが遠すぎて会えない」という状態が現実にあったと思います。自集団だけが取り残されている状態ですから、族外婚はほとんど不可能ということになります。
 
 
■族内婚と族外婚の様式
 ここまで見てきたように、縄文時代は、ある程度 集落が密集している地域もしくは時代においては、族外婚が可能集落の密度が著しく低い地域もしくは時代においては、それが不可能で、必然的に族内婚が主流になると推察できます。その際にどのような婚姻様式になるかというヒントが以下です。

『実現論(採取時代の婚姻様式)』 [5]
 東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。
 なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく

1)族内婚
 ここでいう族内婚とは「男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範」です。すなわち、兄妹総偶婚。人口密度が低い地域もしくは時代に主流となる様式ですから、必然的に血縁関係が濃い集団になります。
 つい最近、ロシアで発見されたネアンデルタール人の骨を分析したところ「両親はかなりの近親者だった」という記事 [6]がありました。ネアンデルタール人の事例がそのまま縄文人に当てはまるとは言い切れませんが、北方に居たネアンデルタール人の人口密度は極端に少なかったはずです。そのような場合は、物理的に近親婚にしかならないという傍証といえるでしょう。
2)族外婚
 ここでいう族外婚とは「部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚」です。具体的には「クナド婚」とも言われるもので、以下のように言われています。

 日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられます。
 日本は特殊で、実母子間の禁婚のみが顕著で、父系(父・娘)や兄妹の禁婚は元来なかったとされています。交叉婚は厳密には兄妹婚のタブー(勿論父・娘もタブー)をもって成立しますが(世界史的にはそう)、日本は複数群のヒロバでの共婚ですから、兄妹婚黙認の交叉婚と考えているわけです。それまでの氏族内兄妹婚からすると、他氏族と交わるわけですから一見兄妹婚タブーと映りますが、厳密に貫徹するためには、兄妹同士が当たる可能性のある共婚にはならないのでは、というのが根拠です。他氏族との交わりが優先されたのは確かでしょうが、何ともルーズな婚姻制だと思います。
『日本婚姻史1~その4:日本の交叉婚の特殊性』 [7]より

 
 
■兄妹総偶婚 ⇒ 交叉総偶婚
 ここまでをまとめると、縄文時代の婚姻様式は、おおよそ以下のようになります。
  ・集落の密度が低い地域もしくは時代:族内婚兄妹総偶婚
  ・集落の密度が高い地域もしくは時代:族外婚交叉総偶婚
 前々回の記事 [1]によると、縄文時代は、早期から中期にかけて平均気温の上昇と共に人口が増加していき、最大になります。この過程で、兄妹総偶婚 ⇒ 交叉総偶婚の変化が生まれたと考えられます。
 また、地域によって事情は違って、集落の密度が一貫して高かった関東地方では、縄文前期あたりから既に族外婚=交叉総偶婚があったかもしれません。逆に、一貫して集落の密度が低かった中国・四国地方では、族内婚=兄妹総偶婚が長らく続いていたと推察します。
 
 
■縄文時代の集落規模
 最後に、縄文時代の集落規模について、このブログではあまり言われていないことを言って終わりにします。それは「ダンバー数」です。

 ダンバー博士は、世界各地の約20の狩猟採集民を調べ、その平均的な集団サイズをつきとめたそうです。集団サイズといっても、何を条件にするかで数は違ってきます。たとえば、普段一緒に移動して、狩りをしたり、寝泊りしたりする集団となると30~50人が平均だそうです。(文章は、こちら [8]から引用させていただきました)

 ダンバー数は、しばしばビジネス業界で取り上げられるもので、「一人の人間が認識可能な人数は150人くらいだ」という説です。ここではそのことは置いておいて、人類学者の先生がフィールドワークをして突き止めた「集団のサイズ」という事実を引用しました。
 
 結果、ダンバー先生は「狩猟採集民の集団サイズは30人~50人が平均だった」と仰っています。
 地域によって生産力(狩猟採集生産によって養える人数)が異なるのは当然ですが、それでもなお世界各地でこのように言えるのならば、30人~50人という数字は、人類に特有の普遍性をもっていると思えてきます。そして、人類が、本能的には縄文時代と大きく変わっていないことを鑑みると、時代が変わっても、集団のサイズは大きくは変わらないだろうと思うわけです。
 
 前々回の記事 [1]で、学者先生がいう集団規模「20人~30人」は大雑把だ、と言いましたが、ダンバー先生の説と比較しても大きくは外れていない(少な目に見積もられている)と思います。
 縄文時代の人口は、時代により、地域により、様々であったと思われますから、ハッキリとは言い切れませんが、「概ね20人~50人」と幅を持たせて考えてはどうかと思います。

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