みなさん、こんにちは。今日は「原始時代の社会期待(5)~採取時代の適応原理」をお送りします。
前回・前々回は、原始時代の精霊信仰を取り上げました。
今回は、その精霊信仰=観念機能を獲得した人類が直面することになった新たな外圧とその時の社会期待について考えてみたいと思います。
このように、次第に同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始めると、採集部族や狩猟部族は、互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避しました。
では、なぜ闘争に向かわず「友好関係の構築」に務めたのでしょうか?また、「友好関係の構築」とはどのようなものだったのでしょうか? その時の人々の意識はどのようなものだったでしょうか?
るいネット『採取時代の適応原理』 [7]を参考にして考えてみます。
この時代になって始めて人類は、洞窟など外敵の脅威の無い限られたニッチに小集団で隠れ住む事を止め、地上に進出しました。
弓矢の発明普及には地球規模の気候変動が大きく関わっていたようです。
現在発掘されている石器の中で、6万年前には弓矢の前駆形態と想われる鏃が発見されています。恐らくこれは投槍器の段階ですが、寒冷適応した大型で動きの比較的遅い哺乳類(マンモスやカモシカなど)の狩猟が行われていたと思われています。
しかし1.5~1.6万年前 急激な温暖化により大型哺乳類は北上又は減少に向い、変わって繁殖し始めた温暖型・森林適応の小型哺乳類は投槍で狩るには困難となります。この頃、俊敏な動物の動きを観察する中で、弓矢や吹矢等の飛び道具が開発されたのだと考えられています。

<空から見た三内丸山遺跡>(写真はコチラ [8]から)
初めて出会う同類他部族の集団や人口増加のために一定の地域に拡散した部族間には、人類が始めて経験する同類緊張圧力が生じたはずです。
縄文時代、青森県の三内丸山遺跡では、100人から500人と推定される大集落が1000年以上営まれました。またその周辺には、同時代の多数の集落遺跡群が見られます。通常の単位集団の限界を超えると思われる定住人口や周辺の集落群からこれは、同類緊張圧力に対応するための多段階編成集落でなかったかと採取時代板では考えられています。。
人類誕生以来、共認機能を唯一の武器として(期待・応望の同類圧力を唯一の圧力源=活力源として)、精霊信仰という観念機能を獲得したことでかろうじて生き延びてきた人類にとって、初めて遭遇する同類圧力はどうすればいいか分からない未明課題でした。自我や私権闘争を本源集団内に封鎖してきた彼らは、闘争関係を顕在化することなく、共認原理を集団外にも延長することで闘争を回避しました。それが贈物etc.を通じた友好関係の構築です。
このシリーズの第2回 [9]で取上げたように「想像を絶する自然外圧に対応するために、人類が収束したのが精霊信仰であり、このことを「期待」という概念で捉え返すと「生存期待」というものになるだろう。生存期待をかけて自然と対話し、精霊信仰に収束した。これが原始人類の最先端の姿である。」とすれば、採取時代の共生適応においても、人々が収束したのは精霊信仰であり、人々の期待としても「生存期待」だったのは変わらず、その対象が「自然外圧」から「自然外圧+同類圧力」へと拡大した時代だったと言えるかもしれません。


<黒曜石の原石と矢じり>(写真はコチラ [10]とコチラ [11]から)


<翡翠の原石と勾玉>(写真はコチラ [12]とコチラ [13]から)
これらの交流は、贈与であったのか交易(交換)であったのかは、決め手がありませんがクラのような「ある時間的間隔をおいてお返しのくる贈物」かもしれません。
採取時代や各地の先住民の中に残っていた、贈与の風習は、もちろん他集団との関係において成り立つもので、かつ贈与には、確実な相手があります。
(贈与と交換(取引)との間には、微妙な隔たりがあるようにも思われます。)
いずれにしろ、弓矢の発明に代表される”闘争(能力)適応”や多段階編成集団などの ”集団(統合)適応”を前提として、外圧が低下した環境下で、集団を維持し、集団間を統合するために贈与や交叉総偶婚といった”共生(取引)適応”原理が発動するのでしょう。
■採取部族の適応原理=「共生適応」
詳しい検証は次回にまわしますが、黒曜石や翡翠の広範囲な交流は、交換(取引)ではなく、他部族への贈り物=贈与だと考えるほうが論理整合します。したがって、採取時代の適応原理は共生適応と捉えることができます。
この共生適応とは、友好関係維持による一種の棲み分けのようなものであり、生態学者の今西錦司の提唱する「棲み分け論」で説明される状況だったと思われます。この「棲み分け論」では、生物は同種個体によって組織された一つの種社会を作っており、同様に、近縁種間には同じ様な社会関係があると考えます。互いに共通の資源を求めるものは、近縁なものであるので、それらは同位社会を構成し、競争が避けられるならばすみ分けが成立する、というものです。
自然界で一般的にも見られるこの“棲み分け”という共生適応は、人類にとって自然な選択でだったのではないでしょうか。いわば自然の摂理に即した適応なのだと思います。ただし、採取部族の段階での各集団は、「共生適応で(または共生という概念で)社会として統合されていた」のではなく、お互い闘争は回避し友好関係を維持しましょうとの共認関係が、各集団間で形成されていた状況だったと思われます。
■贈与の本質は「応合意識」
それでも同類圧力が最先端の課題であり、共認原理で結ばれている以上、相当のエネルギーが費やされたでしょうし、それなりの評価共認圧力が各集団間で働いていたと考えられます。だからこそ、生活必需品ではなく希少価値の高い物(道具の材料となる黒曜石や、装飾品の材料となるヒスイやコハクなど)が贈物として選ばれ、膨大なエネルギーを費やしてまでも遥か遠方まで贈物が運ばれたのでしょう。
集団間の「評価」といっても、決して集団間の競争的な意識ではなかった思います。事実、贈物に対して決して見返りを求めることはなかったようです。あくまでも相手の期待に応えるという「応合意識」が根幹にあったのだと思います。これは、(前回 [5]、精霊信仰で扱ったように)超越存在たる自然に対する「応合意識」を基盤とし、自然に対する時と同様に、初めて遭遇する他集団に対しても「応合意識」で応えたということなのではないでしょうか。
今回は、採取時代の適応原理、それに基づく他集団との友好関係の構築=贈与について俯瞰しました。次回から3回にわたり、贈り物=贈与とはどのようなどのようなものだったのか、具体的な事例を見ていきます。
◆縄文人の黒曜石・翡翠
◆トロブリアント諸島のクラ
◆アメリカネイティブのポトラッチ
この3つの事例を取り上げる予定です。乞うご期待ください!
<参考記事>
『500万年間の気候変動』 [14]
『縄文社会は“統合”されていない』 [15]
『縄文土器が複雑化していったのは、なぜか?』 [16]