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シリーズ『共同体社会と本源の心』⑩ まとめ

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みなさん、こんにちは。
『共同体社会と本源の心』と題してご紹介してきたシリーズは、今日で最終回です。これまで・・・
シリーズ『共同体社会と本源の心』① ~新たな期待=本源期待とは何か?~ [1]
シリーズ『共同体社会と本源の心』② ~「自分らしさ」を理解できない人々 [2]
シリーズ『共同体社会と本源の心』③~生命の本質への感謝 [3]
シリーズ『共同体社会と本源の心』④ ~インディアン部族とは何か [4]
シリーズ『共同体社会と本源の心』⑤ ~「オヤとコ(柳田民俗学から)」 [5]
シリーズ『共同体社会と本源の心』⑥ ~村落共同体の規範について~ [6]
シリーズ『共同体社会と本源の心』⑦~等分配ルールと平等観念の違い [7]
シリーズ『共同体社会と本源の心』⑧~共時一体感覚にささえられる文字による共認 [8]
シリーズ『共同体社会と本源の心』⑨~ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」 [9]
と、9回にわたって本テーマに繋がる記事をお届けしてきました。地域としては日本とネイティブアメリカについてのものになりますね。
シリーズを振り返って感じるのは、現代に生きる私たちに「当たり前」であることが、人間本来のあり様として本当に当たり前なのだろうか?という疑問です。ご紹介してきた多くは過去の事例になりますが、その当時としては当たり前であった考え方や規範です。そこに時間的な隔たりだけでない、何か別の隔たりを感じるのは私だけではないでしょう。
今現在の生活様式を捨てて、いきなり過去の生活様式に戻ることはできません。しかし、過去の事例の中に、物的な豊かさ以上の豊かさを感じ、人間本来のあり様=本源 を見ることが出来るならば、それを現在的に翻訳して適用していくことはできるはずです。
今現在 高まりつつある本源期待とは、現実の期待です。過去と現在の隔たりを埋めて、現実の本源期待に応えていくためにはどうすればよいのか?そんな視点でシリーズを振り返ってみます。
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■「自分=現実」⇔「自分らしさ」
(『「自分らしさ」を理解できない人々』 [11])(『共存の困難さ』 [12])
ネイティブアメリカ(インディアン)は「大地に立つものは全て同じ」と考えているといいます。一方で、私たちは「自分」と獣や鳥、花や木々が同一であるなんて考えもしません。というか、おそらく理解できない。ネイティブアメリカの人たちがもっているのは、私たちとは全く違う考え方。大きな隔たりです。
現代に生きる私たちは「人間とそれ以外」「生命と非生命」といった区別は絶対的であるという前提に立って思考しています。そしてそれを健全なことだと思っている。結果として自他を区別するための「自分らしさ」が必要になって、それを追い求め、そのたびに周りとの距離が開いていく。果たしてこれが健全な思考の結果なのでしょうか。
「不全を生み出しているのは、自分が勝手につくり出している無用な隔たり」。ネイティブアメリカの事例は、そんなことを教えてくれます。
このことに対して、共通性をもつ るいネットの投稿のリンクをはっておきます。おそらく「大地に立つものは全て同じ」と考えるネイティブアメリカは同じ認識をもっているのだと思います。
「日本人の思考~自然との同一視について その1」 [13]
「日本人の思考~自然との同一視について その2」 [14]
■「自然に感謝」⇔「自我」
(『生命の本質への感謝』 [15])
「我思う、故に我あり」としたデカルト。彼のこの“発明”は、近代個人主義思想の原点になっているといいます。しかし、それをどこまで信じられますか?
例えば、大自然の中に身をおいたとき「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」と、どこまで思えるでしょうか。というか、大自然相手にこのように考えて何か意味があるでしょうか(それで生き残れるか?)。圧倒的な自然圧力を前にしたならば、むしろ「自分は生かされている」→「有難い」と感じるのが普通の感覚でしょう。
「自我」の隔たりをなくすキーワードは「感謝」。そんなことを教えてくれる事例でした。
■「共同体:労働・役割・充足」⇔ 「家庭」
(『オヤとコ(柳田民俗学から)』 [16])
過去、日本の村落共同体には、現在の「親と子」とは別の「オヤとコ」があったといいます。そこでは「オヤコやイトコのコは家の子のコである。家の子は労働単位であり、これを指揮するのがオヤであった」。 すなわち、親類関係でも労働を基点にした「頭と弟子」のような関係があり、それを「オヤとコ」と呼んでいたというのです。「現在のように家族の父母に限ってオヤと呼ぶことは、かなり新しい現象である」。これは、私たちにとって大きな隔たりに思えます。
しかし、この事例が教えてくれるのは、労働から完全に切り離された現在の「親と子」の関係とは一体何なんだ? ということではないでしょうか。子は親が働いている姿を知らない。親も子供がどうしているか知らない。このような親子関係が本来的な姿であるとは思えなくなってきます。
労働が苦役である時代は昔のことになりつつあります。私たちに生起した本源期待は、労働の中で役割を担って、応えて、充足を得ることへと向いています。そのとき、共に役割を担う仲間に自分たちの子供が含まれているのは、とても喜ばしいことなのではないでしょうか。
■規範:「束縛」⇔「充足」
(『村落共同体の規範について』 [17])
集団としてある以上、何かの決まりごとは必要です。しかし、その捉え方に隔たりがあります。現在の私たちの多くは規範と聞けば「誰か知らない人がつくった要らないもの」と捉えがち。しかし、本来的な規範とは「自分たちがつくった必要なもの」であるはず。では、そもそも、規範の必要性とはどこにあるのか?
そのキーワードは「充足」です。
集団の充足を考えて「そのためにはどうする?」と主体的に生み出していくのが集団規範のあり様です。これは同時に「自分中心」から「みんな中心」へと考え方を転換することも意味するはず。そうすれば「皆の充足のために規範を守る」という主体性も芽生えていくのではないでしょうか。
■「不可能視」⇔「可能性発」
(『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」』 [12])
事例のインディアンには「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉が存在しないといいます。「周りが出来ることは自分にも出来る」と思っているので、主体的に真似(同化)し吸収するそうです。「出来ないことは教えてもらう」のを当たり前だと思っている私たちからすれば、大きな隔たりを感じます。
でも、考えてみれば、その隔たりとは後天的に生じたもののように思います。
子供は意味がわからなくても真似をして、色々なことをどんどん吸収していきます。「教えなければできるようにならない」と考えているのは大人だけであって、子供はそんなふうに思っていない。むしろ、大人が変に口出しすることで、真似をしようとする子供の主体性を奪っているのではないでしょうか。結果として「自分には出来ない」という不可能視が植えつけられ「ならば、教えてもらうのが当然」となる。これはで主体性も可能性発の視点も芽生えません。
本来的な教育に対して、隔たりをつくっているのは私たちの思い込み。そんなことを教えてくれる事例でした。
■まとめ
以上、ざーっとシリーズ記事のポイントを押さえて見返してきたわけですが、過去の事例と現在との隔たりは、実は、そんなに大きくないと思えてきませんか?
現在の意識潮流は、私たちの本来の姿=本源を求める流れになっています。そのなかにあっては「感謝」「充足」「自分発からみんな発へ」「可能性発」などのキーワードもすんなり入ってくるものですよね。そうであるなら、隔たりを感じている意識とは、単なる思い込みである可能性が高いわけです。
本源期待に応えていく過程とは、このような既成観念(思い込み)の一つ一つに気付いて、取り払っていくこと。そのために期待を掛け合い、応えあっていくことが必要だと思います。シリーズ記事の事例は、理想や憧憬ではなく、現実とつながっている実現可能な「答え」なのだと思えます。
みなさん、いかがでしょうか。

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