2010年11月13日
シリーズ『共同体社会と本源の心』① ~新たな期待=本源期待とは何か?~
みなさん、こんにちは。
今日から、新しいシリーズ『共同体社会と本源の心』をはじめます。
見渡せば、外交不安や経済不安・・・なかなか良いニュースがありません。しかし、多くの人々の意識は、そのような不安感に苛まれることなく、新しい可能性を探索しているようにも感じられます。中でも目につくのは、就農希望者の増加や、無駄遣いの抑制、ブランドの衰退などです。大量生産・大量消費を善しとせず、見栄を張らず、経済効率(≒お金儲け)を第一としない意識が、確かに顕在化しています。これは、私たちが人類本来の姿を求めていることを意味するのかもしれません。
本シリーズは、様々な地域の共同体社会における人々の意識を扱うことで、人類本来の意識構造=本源の心とは何か?をあきらかにしようとするものです。日ごろ感じるモヤモヤ感に対して、なにか可能性が見えてくるかもしれません。これから週一回のペースで本ブログに記事をアップしていきますので、ご一読頂ければ幸いです。
で、今日は、その導入として「新たな期待=本源期待とは何か?」を扱います。
高度経済成長期以降の私たちの意識は、どのように変化し、何を求めているのか。その構造を明らかにしたいと思います。では、本文へどうぞ。
じゃぁ、本文に入る前にいつものやつを。
■~新たな期待=本源期待とは何か?~
るいネットの投稿「9/23なんでや劇場 (4)~新たな期待=本源期待とは何か?」を、いくつかに分けて引用します。
この「私権意識の衰弱構造」図解をよく見れば、’70年豊かさの実現の段階で、現代の構造の原型は揃っていることがわかる。
’70年~は私権収束力<共認収束力
そこから40年近く経った’08年~は私権収束力<本源収束力
よく似た構造が現れているが、共認収束力と本源収束力はどこが違うのか?
まず、’70年~の私権収束力<共認収束力とはどういうことか?
それまで私権収束力が強力な時代は、指揮系統=上からの命令は絶対であった。ところが、共認収束力の時代に代わると、上からの命令では人は動かなくなり、それよりも「みんな、どうする?」とみんなの共認を羅針盤にするようになってきた。
問題はみんな共認の中身で、それはマスコミによって支配されている。マスコミの垂れ流す旧観念(近代思想)や私権観念によって中身は染上げられままであった。つまり、羅針盤が上からの命令からみんな共認に代わったものの、その中身は旧態依然なままだったのである。
ここまでは、’70~’08年の「私権収束力<共認収束力」がポイントとして語られています。
’70年以前、大衆意識の力関係は、大観すると、自らの利益や権利を第一としようとする力(=私権収束力)が大きな勢いをもっていました。たとえば、自らの利益や出世のためなら、理不尽な上長の命令であっても逆らわずに従う。そのように判断するもしくは判断させる力が強かったということです。
しかし、豊かさを実現して以降は、皆と意識や情報を共有しようとする力(=共認収束力)が上回って、高まってきました。それが「私権収束力<共認収束力」です。
ところが、そのような状況にあっても、皆が共に認める観念は、豊かさを実現する(‘70年)以前の旧い観念だったのです。心(=共認)では「皆と一緒」を求めているのに、頭(=観念)では「人それぞれ」とか「個人が第一」などと考えている状況。マスコミによって日々旧い観念が大量に流されるため、知らず知らずのうちにそれが身についてしまう。結果として、頭と心が一つに統合されずに分離している状況でした。
(つづき)
中身が新しい本源共認に転換するのに40年かかったということだが、その結節点を成したのは、’08年私権観念の消滅である。現在は、古い観念は消滅したが、それに代わる新しい観念が与えられていないので、潜在思念(本能・共認機能)でもって新しい可能性を探索している段階である。
このように新たな可能性⇒期待が芽生えつつあるが、それは未だ朧げである。それを図解では「本源期待」と仮表現しているが、その中身は一体何なのか?(これは、豊かさ期待に代わる新しい期待の中身は何か? 次の社会の意志は何か?つまり、社会はどこに向かおうとしているのか?という問題と同義である)
例えば、’99年頃の癒しブームは本源期待の先駆けであろうし、’09年~の節約志向も本源期待の一部であろう。また、農業・介護・企業の共同体化はその明らかな実現現象の一つであろう。人と人との繋がり欠乏や、あるいは小沢一郎の「共生」というスローガンも包摂されるかもしれない。
また、学生の大多数は特権階級を目指しているわけではない。「良い仕事」=社会の役に立つ仕事をしたいと思っている。ところが、その思いと現在の社会評価とはズレがあり、その中で学生は葛藤し混迷している。そこで、社会期待に応えられる、それを実現する場をどうやって作るかが課題となる。
‘08年、リーマンショックで現在の経済システムに大きな欠陥があることが明らかになりました。これに対して、国家レベルではG20などを開催して火消しに躍起です。しかし、大衆意識の深層は「そんな小手先の対策ではダメだ」と誤魔化しを見抜きます。そして、いよいよ自らの私権獲得を第一とする観念に限界(あるいは空虚感)を感じ、転換していくことになります。
とはいえ、いきなり新しい可能性に向かおうとしても目標がハッキリしない。なんとなく「人間らしい」ものを求め、そのような方向へ向かいます。これが「本源期待」と言われる部分です。
(つづき)
その土台となるのが、与えられた場を充足する場にしたいという思いであり、それが活力の源泉となる。
その次に来るのが、勝てる場にしたい⇒勝てる方針を発信することである。
ここまでは、与えられた場の中でも可能だが、その延長線上に、従来の事業を超えて、新事業をつくるor新しく起業するということも考えられる。
このような充足期待を原点にした「集団をどうする?」「社会をどうする?」から生まれる場づくり期待が、豊かさ期待に変わる新たな社会期待になるのではないだろうか。
本ブログの多くの記事で述べられていますが、私たち日本人は、世界的に見て本源性=人間らしさが色濃く残存する民族です。他者といがみ合うより、相手との和を重んずる。これは、本源性のあらわれと捉えられますが、もっと簡単に実感ベースで捉えると、その方が「充足」するので自然とそうなる、というところでしょう。
今や相手を差し置いて「個人が大切だ」と考えても充足しないのです。「皆と充足するにはどうする?」と考えることの方が心にフィットする。これが実感ベースで捉えた「充足期待」と思います。
これからの会社、これからの学校、これからの社会・・・色々な集団や場のことを考えるとき、この充足期待を基点に考えていくことがポイントであると思います。今まで背負ってきた様々なしがらみや価値観念をいったん棚上げにして「皆が喜ぶにはどうする?」と考えてみることが大切なのだと思います。
- posted by hayabusa at : 2010年11月13日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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