DNAでたどる日本人の成り立ち1 [1]で紹介しました、縄文文化の中心的な担い手であるD2系統は、現在日本にしか残っていませんが、当時は朝鮮半島にも存在していた(もともとは朝鮮半島を経て日本列島に渡ってきた)ことを、両者で共通する漁撈文化を通して見たいと思います。朝鮮半島の系統は【図解】 [2]を参照。崎谷満著『DNAでたどる日本人10万年の旅』より。
気候変動と大型哺乳動物の絶滅という危機から縄文時代が開かれた
共通する漁撈文化を見る前に、それまでの栄養源の弱体化という危機が、縄文時代を開いた経緯を見ておきます。
後期更新世の後半、もっとも寒冷化が進んだ約2万年前を境に次第に温暖化が進み、約1万年前の完新世になると現在に近い温暖な気候へと移っていった。それとともに多くの大型哺乳動物の生存に適していたマンモス・ステップ(以前の記事シベリアのマンモス・ステップ [3]、シベリアの究極の狩猟具・細石刃 [4]を参照)が次第に縮小してきたため、動物相の貧弱化弱体化を招いてしまった。大型哺乳動物の絶滅の原因として、温暖化による環境変化と、ヒトの乱獲があげられるが、両者が重なった結果と考えられる。この大型哺乳動物の絶滅は、それを栄養源の中心としていた旧石器時代人にとって大きな危機をもたらした。
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by岡
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そこでヒトの生存のための新たな栄養源確保が課題となり、新たな生活様式(新石器時代=縄文時代)へ移行していった。それが、狩猟中心の移動型生活から、多様な栄養源確保様式の組合させによる定住生活への変化であった。植物質栄養源の採集の比率の増加、漁撈による動物質栄養源の確保、補助的ながら雑穀農耕による植物栄養源の生産である。
なおシベリアの狩猟民は、得られた獲物の肉を生で食べるのが通例で、これは熱を通すことで分解されるビタミンなどの栄養素を植物ではなく生肉(あるいは生の内臓、血液)から得るという伝統的な知恵である。しかし、大型哺乳動物が絶滅した新石器時代では、ヒトは複数の栄養源確保の方法を組み合わせることによって、不足する栄養源を補う必要があったのであろう。多くの新技術が新石器時代に急遽出現してきた背景にはこのような理由があったのかもしれない。土器の制作、漁撈技術の発達、植物質食糧の積極的確保(農耕)の開始などが、新石器時代の始まりを特徴づける。
縄文時代における漁撈
旧石器時代にも河川漁撈は補助的ながら行われていたようだが、新石器時代(縄文時代)になって本格的に漁撈の技術が普及してきた。漁撈による魚類や貝類の獲得が次第に比重を高め、漁撈具の発達や貝塚の増加は新石器時代の特徴となる。
南朝鮮西九州型漁撈文化(D2系統の縄文人)
朝鮮半島における新石器時代(櫛目文土器時代)前期、日本列島における新石器時代(縄文早期末)、ほぼ紀元前5000年世紀に、朝鮮半島南部(現在の慶尚南道で古代の弁韓、伽耶)および西北九州(対馬、壱岐、長崎から博多にかけての西九州)に共通する漁撈文化。
統合式釣針(釣針の針と軸を別々に作りつなぎ合わせたもの)が特徴的であるが、組合銛、固定銛、離頭銛、逆T字形釣針など多彩な刺突具が用いられた。

この時期の南朝鮮には丸底櫛目文土器が、九州では丸底曾畑式土器が見られ、両者の文化的交流を示している。また石器の素材となる黒曜石も西九州の伊万里の腰岳産のものが朝鮮南部でもみられるので両者の結びつきの強さを物語っている。
この南朝鮮西九州型漁撈文化を担ったのは、縄文文化の中心的担い手であったD2系統ヒト集団であった可能性が非常に高い。
(二つの図は「日本人の源流を探して [6]」よりお借りしました。)

なおD2系統以外に、C3系統、C1系統ヒト集団も漁撈文化を担っている。
北太平洋型漁撈文化(C3系統)…ロシア沿海州から朝鮮半島東北部にかけての漁撈文化で、怪獣や大型魚類などを獲っていた。この極東起源の北方系漁撈文化は、新石器時代の前期から中期にかけて北海道から本州東北の三陸海岸まで広がっていた。
貝文文化(C1系統)…新石器時代草創期から早期にかけて南九州へ貝文文化持ち込んだヒト集団も漁撈文化を担った。