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ロシアの未来と国民性2

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前回「ロシアの未来と国民性 [2]」でロシア人の不思議な国民性(日本人から見ると?)の話を書きましたが、他のサイト(ロシア人の起源 [3])にも

ロシア人の特徴を一言で説明することは難しい。体格がよく、耐久力に富む。スポーツ、学問、芸術に優れた能力を発揮するが、不器用、無骨な面もある。時に粗暴、時に深い情愛を見る。性格は一般に開放的で人懐っこい。愛国心が強いが自分の弱点を笑い飛ばす余裕も見せる。現実的だが、迷信深い一面もある。よく熊に例えられるが、優れた航海者の伝統もある。今回はそのルーツに迫りたいと思います。

とあり、複雑な国民性であり、なかなかとらえどころがない。
彼らは、どのような価値観をもっているのか、まずは、過去に遡って彼らを取り巻いている外圧状況から調べみたいと思います。
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この記事の画像はすべて「English Russia [5]」さんからお借りしました。
(バイカル湖周辺の景色です)


厳しい自然環境で様々な神を見出す
ロシアにおける熊と人との関わりについて [6]」より

[7] 9世紀、キエフ(現ウクライナ共和国)を首都として、ルーシという国が建国された。この「ルーシ」は「ロシア」の語源で、これがロシアの国としての始まりだった。最初はかなり南方に位置する国だった。降水量は少ないが、肥沃な黒土地帯に位置しており、ロシア人は農耕民族としての道を歩み始めた。しかし、13世紀、モンゴル系遊牧民族によって、ルーシは彼らの支配下に置かれることとなった。(これは一般に「タタールのくびき」と呼ばれる異民族支配で、その後240年続いた。)ルーシを支配していたのは、直接的には南のキプチャク・ハーン国、そして間接的には東のモンゴル大帝国だった。これらの国々の存在が、ロシア人の南と東への進出を阻んでいた。また、西方への進出は、14世紀以来、当時の強国であったポーランドによって遮られていた。よって、ロシア人には北へ向かうしか道がなかった。
 黒土地帯の北にあったのは森林地帯だった。そこには厳しい自然が待ち受けていたが、遊牧民族の襲撃から守ってくれる天然の要塞でもあった。こうしてロシア人は森で生活を営む「森の民」となっていった。森と共存し始めた彼らは、森から多くの恵みを得るようになった。家の建材としての木材、照明となるたいまつ、紙や衣料品の材料となる樹皮、きのこ、木の実、そして肉と暖かい毛皮をもたらす多くの動物などである。そして、とりわけ大きな恵みは蜂蜜だった。蜜酒や蜂蜜は、彼らにとって最高のごちそうになった。しかし森には、この蜂蜜をめぐる強力なライバルが存在した。それが森の主人たる熊だった。人々はこの熊に対して畏怖と親近感を抱いており、異教信仰としての熊崇拝も存在したという。
~中略~
(2)異教時代における熊崇信
 異教時代(十世紀まで)のロシアの宗教は、祖先崇拝と多神教的な自然信仰が中心だった。最初の神々は農耕と深く結びつき、偶像崇拝の傾向が顕著だった。主な異教神は、光と日の源の太陽神スヴァロク、富と幸福の神ダージホク、雨を降らす雷神ペルーン、家畜神ヴォロス、豊穣神ヤリーロ、牧羊と豊穣の女神モコシなどであった。

 
強豪部族に追いやられて、北へ北へ進んだロシア人達は、厳しい自然の中で農耕を始める。その厳しい外圧の中、自然を対象化し様々な神(精霊信仰⇒多神教)を見出して、貧困の中凌いでいったのが、彼らの出発点である。 
 
外圧→大家族による農耕→共同体
ロシア古代中世史 [8]」より

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<自然環境と農業>
ロシア世界と西ヨーロッパ世界の夏の気温はほぼ同様である。ところが、ロシア世界の冬の気温は、大西洋のメキシコ湾暖流、暖かい地中海の恩恵を被った西ヨーロッパ世界と比較するとかなり低い(1月の平均気温は、マドリード:4度、ロンドン:3度、パリ:2度、ベルリン:-1度に対し、モスクワやペテルブールクなどのロシア中央、北部:-8--12度、キーエフやロストーフ・ナ・ドヌーなどロシア南部:-2--8度)。西ヨーロッパ世界では、春と秋は暖かく、期間も長い。一方、ロシア世界では冬の到来が早く、春の到来が遅いために、残雪期間が長い(西ヨーロッパでは一部の地域を除いて残雪期間がないのに対し、ロシア南部では3-4ヶ月、ロシア北部では6-7ヶ月の残雪期間がある)。また、ロシア世界では、土壌の豊かな南部では降水量が少なく、地味の乏しい北部で多く、その上、例えばモスクワ地方では、夏の終わりから秋口にかけて、すなわち収穫期に集中的に雨が降る。
こうした自然条件は、ロシア世界の農耕条件を不利なものにした。まず、ロシア世界の農業では、1年のうちで農耕可能な期間が西ヨーロッパの農業と比べるとかなり短くならざるをえなかった(モスクワ地方では4-9月末までの5ヶ月間、ペテルブールク地方では5月中旬-9月中旬までの4ヶ月間が農耕可能な期間であるのに対し、西ヨーロッパでは7-9ヶ月、ほぼロシア世界の2倍の農耕可能期間がある)。つまり、西ヨーロッパの農民はロシア農民の2倍の時間を農耕に割くことができたのであり、逆に、ロシアの農民は、短期間に集中的に労働力を農耕に投下しなくてはならなかった。この結果、西ヨーロッパ世界では個人あるいは小家族にもとづく農業経営が順調に発展していったのに対し、ロシア世界では、労働力を集中的に投下する必要から、大家族あるいは農村共同体にもとづく農業経営が、近代にいたるまで中心的な役割を果たし続けた。独立自営農民の成立・発展が近代市民社会の成立の前提であるとすれば、ロシア世界には、この前提が欠けていたことになる。

厳しい自然の中で生きていくために、大家族=共同体を作って農業を長い間続けてきたロシア。 
彼らが、「キリギリス」のように生きる事を選択する一方、「人なつっこい」「世話付き」「一旦心を許すと付き合いが長い」(「ロシア人の起源 [3]」参照)といった特徴を示すのは、長年にわたって共同体の中で生きて来た事が大きく影響しているのだと思います。
一方、生活・生産様式や集団性に大きく影響を及ぼす婚姻制は、11世紀頃大きな転換をしています。
 
キリスト教布教→婚姻制、大らかな男女関係の破壊
Yahoo!百科事典 女性史(じょせいし)ロシア・ソ連より [10]

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ロシア建国以後
ロシア最初の統一国家キエフ・ロシアのオリガ公妃やノブゴロドの女性市長官マルファのように亡夫にかわって権力の座についた女性もいたが、9世紀の建国当初よりロシア社会は男性優位の社会であった。ギリシア正教の受容によって、民衆の間にあったかなり自由な男女間の風習もしだいに排され、女は不浄なものだという女性観が浸透した。しかしその聖母信仰のため母親への尊敬は深く、未亡人の地位は社会的にも認められていた。13世紀なかばからのモンゴル支配によって確立された専制と家父長制は女性たちの生活を閉鎖的なものとした。

このシリーズでも何回も登場したキリスト教による一対婚の強制、共同体弱体→個人主義(ex.「フランスのカップル社会とは?⇒キリスト教による奴隷の婚姻制=一対婚 [12]」「北欧(スウェーデン)の婚姻制度と可能性~その歴史的背景~ [13]」)のパターンです。
ロシアにギリシャ正教(後にロシア正教)が浸透するのは、かなり時間がかかったみたいですが、この時点で大らかな男女関係(「ロシアの春の神ヤリーロ [14]」参照)がかなり禁止されていったようです。
そして、一旦は外敵を逃れて北に逃げてきたロシアはキリスト教の布教とともに、 再び戦いの歴史が始まります。
300年にわたるモンゴル・タタル支配からの解放のための戦いに始まり、東欧から進出した十字軍との戦い、ポーランドとの民族戦争、ナポレオンの侵攻、ドイツとの祖国防衛戦争と戦いの連続となります。
これが、ロシア人の愛国心を生み出し、強いリーダー(現在は人気の高いプーチン)を求める大きな要因です。
ロシア人が、時折見せる粗暴さや強引さはこの辺から来ているのでしょう。
ロシア人が見せる多面性は、長い間共同体の中で暮らしながらも、中世~近代から、諸外国から侵略圧力を受けてきた歴史の中で生まれています。
ロシアが現在抱えている問題は、かなり多く深刻ですが、現在まで受けてきた外圧(自然外圧+同類圧力(戦争))はかなり高く、忍耐力(打たれ強い)もかなり高いと想像できます。
ロシアの未来は、急激には明るくならないと思いますが、国民の80~90%が所有している『家庭菜園付き別荘「ダーチャ」 [15]』の存在等含めても、今回の経済破局も必ず乗り越える強さを持っていると思います。
長くなりましたが、2回続いたロシア編も今回で終了です。
次回は、趣向を少し変えていきますので楽しみしていて下さい。ありがとうございました。

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