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原始時代の社会期待(13)~まとめ

全12回にわたって、これからの共同体の時代の核となるであろう「本源期待」とは何か?
を明らかにするために、原始時代の人々の期待→意識の変遷を追及してきました。
今回は、いよいよ<まとめ>となります。
それでは、まず、今までの追及成果をダイジェスト版でお送りしたいと思います。
【原始時代の社会期待シリーズ】
(1)~共認社会の生存圧力と同類圧力 [1]
人類の、本能⇒共認⇒観念機能の全ては、秩序化⇒安定⇒統合というベクトルに貫かれています。
極限時代を生きた彼らにとっては、生存と安定が、最先端の期待であっただろうことは容易に想定できます。その期待を受けて、人々は、徹底的に同類闘争を回避(彼らにとって、同類闘争の顕在化は、集団の崩壊と滅亡を意味します)してきた。
(2)~原始時代の社会意識 [2]
想像を絶する自然外圧に対応するために、人類が収束したのが精霊信仰であり、このことを「期待」という概念で捉え返すと「生存期待」というものになるだろう。生存期待をかけて自然と対話し、精霊信仰に収束した。これが原始人類の最先端の姿である。
(3)~縄文時代の精霊信仰 [3]
具体的な神とは、自然そのものに宿る神であり「持ち運びができるものではなかった」。また、様々な自然物に囲まれている縄文人にとっては、具体的な自然物一つ一つに宿っている神が無数に存在することになる。「無数に存在する」「極度に具体的な」「移動しない自然神」への信仰が、縄文人の信仰形態であり、日本人の信仰の原点でもあるのだ。
(4)~縄文時代の精霊信仰と狩猟採取生産 [4]
「万物の背後に精霊を見る」という境地は、決して期待一辺倒ではなく、むしろ徹頭徹尾『応合存在』という地平を切り拓いたと見る方が正しいと思います。この『応合意識』の方が母体になったから、その後人類は、自然界のあらゆるものを道具や材料として役立て、全方位的に科学技術を発展させてきたのであり、もし『期待意識』が出発点なら、自分の期待に応えてくれやすい領域に偏った進化を遂げてきたのでないかと想像されます。
(5)~採取時代の適応原理 [5]
採取時代の適応原理は共生適応と捉えることができます。
自然界で一般的にも見られるこの“棲み分け”という共生適応は、人類にとって自然な選択でだったのではないでしょうか。いわば自然の摂理に即した適応なのだと思います。採取部族の段階では、お互い闘争は回避し友好関係を維持しましょうとの共認関係が、各集団間で形成されていた状況だったと思われます。
(6)~縄文時代に広域に広がった黒曜石や翡翠は何を意味するのか? [6]
日常的に他集団との緊張関係が続き、集団内の統合も成員充足も脅かされる状況になれば、これを回避しそれらを取り戻すことが本源集団にとっての第一価値であるのは当然である。他部族との友好が最大の課題であり、価値であったから、最高の価値があると認めるものを贈与していたと考えられます。
(7)~海洋民族の闘争回避【クラ儀礼】 [7]
①外圧▼による集団の共認統合をどうするか?
②集団間の同類闘争をどう止揚するか?
この難課題を解決するために、彼らが着目したのが、「全ての共認は、評価共認に収束し統合される」という人類集団の集団原理だったのではないでしょうか。集団内・集団間を「評価共認」で統合するという形態が【クラ儀礼】だったのかもしれません。
(8)~アメリカ北西太平洋岸インディアンの闘争回避【ポトラッチ】 [8]
数千年前、他集団と初めて出遭い、高まった集団間の同類圧力をどのように止揚し統合するのか、というまったく新しい課題に対して、人類は、自然と同化するために使ってきた観念(精霊信仰)を他集団に対しても応用したのです。お互いに注視して相手の欠乏を読み取った結果が「贈り物」であり、贈り物をすることによって縄張り闘争圧力を回避することが、当時の集団間の中心的な共通課題であり、みんな期待だったのです。
(9)~人類はなぜ大地を耕しはじめたか? [9]
温暖期に人口を増加させた狩猟採取経済が、突然の環境悪化で重大な危機に直面したと想像できる。寒冷化による資源の減少が、人々に農業を強いたのである。ヤンガードリアス期という急激な寒冷化(危機)に直面したことが農耕(栽培)の始まりだといえます。従って、農耕開始を社会期待という位相で捉えた場合は、やはり生存期待ということになるのでしょうか!
(10)~共認圧力=活力が農耕への転換を促した [10]
農耕を開始する段階では、すでに潜在的な同類闘争圧力が働いていました。この点が、それまでの寒冷期とは大きく異なる点です。同類圧力=共認圧力が人類の主活力源です。この潜在的な同類闘争圧力=活力源が観念機能の発達を促し、それまで数百万年にわたり自然を観察・注視し続ける中で蓄積した、自然現象・植物・動物の習性等の知識を屈指することで、洞窟から出てわずかの期間に農耕を可能にしたのではないでしょうか。
だから、農耕が始まった時期は、洞窟を出て地上に進出後(→潜在的な同類闘争圧力)の寒冷期=ヤンガードリアス期だったのではないでしょうか。
(11)~縄文人は、何故農耕をはじめなかったのか? [11]
多くの労力がいる「農耕」をしなくても生存できた訳で、それ故にまだ精霊信仰を根底にして、自然の循環・再生に身を委ねた事は充分に想像できます。縄文人は、自然との調和に期待しみんなと共に協調して生存してきたのです。縄文人は、農耕生産により本源的共同体社会が破壊されていく危惧を感じ取っていたのです。
(12)~同類圧力の上昇が生産様式の転換をもたらした~ [12]
縄文時代から弥生時代にかけて、同類闘争(集団間の闘争)の圧力が上昇していたことは明らかです。その圧力に対抗するために集団の強大化が必要となります。増加した成員を統合するためには統合層が必要となり、統合のための活動が増大していきます。
また実際に戦闘行為が開始されれば、防衛のために人員を割く事や、環濠等の防衛のための土木作業、あるいは武器や兵具などの作成など直接の生産労働以外の活動が急速に増大していく事でしょう。そして衝突の際はそれに動員される兵士が増加します。ここに至っては生産性の加速度的上昇や、長期に渡る貯蔵保管の必要性は一層高まります。
つまり生産力の上昇あるいは採取生産から栽培(農業生産)に生産様式の転換を促した主要な要因は同類圧力であるといえるのではないでしょうか?

人類の500万年に及ぶ極限時代のみんな期待は、本源的な共同体を母体とした生存期待でした。その後弓矢の発明などで、自然圧力が弱まり、同類圧力が高まっても、贈与のネットワークや自然との共存を第一とする精霊信仰などで、武力闘争の勃発を回避してきました。特に縄文人は、稲作を拒否してまで、共同体社会を守ってきたのですが、大陸からの略奪闘争の敗者が流入してくることにより、とうとう略奪闘争に巻き込まれ、稲作を取り入れ、蓄財を始めることになっていったのです。そして、現在まで3000年に渡り私権闘争の社会が続くことになったのです。


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以上みてきたように、原始時代においては、一貫して生存圧力が加わっており、不全感が生起し続けていました。人々は、その不全感を解消すべく、解脱・親和共認へと強く収束し、その収束力により、同類闘争を回避してきました。
同時に、常につきまとう意識された不全感を突破すべく、精霊へと観念収束することにより、ようやく意識の統合が実現されていたのだと思います。

しかし、そのような深い安心感を与えてくれる「精霊信仰」も、私権闘争の幕が切って落とされるやいなや「守護神信仰」へと変質し、やがては「自己=自我」を正当化する私権観念に、頭の中は覆いつくされてしまいました。
自我・私権に執着する人々からなる近代社会は「豊かさ期待」という一つの社会意志によって突き動かされることになります。そして、’70年、一億総中流といわれるように「豊かさ」は実現されることになります。
しかし、これは、全く新しい問題をひきおこすことになります。
’70年、豊かさの実現によって私権意識が衰弱し始め、
’90年、バブル崩壊によって豊かさ期待がほぼ消滅し、
’08年、世界バブル崩壊によって私権観念が死滅。
私権観念に収束することで、意識を統合し、私権活力を持続してきた人々は、意識の収束先を失う事態に陥ってしまったのです。意識の収束不全・統合不全が引き起こす、いいようのない(得体のしれない)不全感。これは、原始人たちも経験したことのない、極めて深刻な不全状態ではないでしょうか?
サル・人類は、何であれ不全に直面したとき、まずは、解脱・親和共認へと収束することにより、不全感を和らげてきました。しかし、私権観念は徹底的に「自分」を中心におく観念であり、「自分発」がほとんど習性化しています。その本質は、相手はすべて警戒対象(=敵)であり、そこに囚われる限り、解脱・親和で充足を得ることさえ困難な課題となります。
しかし、恐れることはありません。
私権観念が効力を失うにつれ、意識の深いところで生起し続けている《充足期待》が、警戒心の鎧を脱ぎ捨てて顕在化し始めているのです。
自我・私権に執着することによって、同化能力が衰弱してしまった人類。その能力を取り戻すべく、サル・人類の初期段階から、進化過程をたどりなおしているのが、現在の私たちの姿ではないでしょうか?
【実現論 第一部:前史 ニ.サル時代の同類闘争と共認機能】より

不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質β-エンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。

相手に同化し、充足を得る。その充足が、活力を産み、不全状況を突破していく。
このように、人類にとって当たり前だった姿を取り戻したいという欠乏
が、このシリーズで追求してきた「本源期待」の正体ではないでしょうか?
以上で、今回のシリーズを終えたいと思います。
応援、ありがとうございました。

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