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2016年10月13日

学校教育が思考停止を作りだし、思考停止が社会を滅亡へと追いやる

強制的な勉強は、本来の思考を封鎖する

>勉強脳とは、本来の思考を封鎖する封鎖脳であり、15才頃(高校に入る頃)には、すっかり頭が錆びついて、本来の工夫思考⇒同化思考が殆どできない封鎖脳が形成されて終う。
直接の原因は学校制度・受験制度(教える教育)であるが、その母胎となっていたのは、私権圧力と市場拡大と近代観念である。現在は、封鎖脳を生み出した私権も市場も近代観念も終っているのに、形骸化した学校制度・試験制度だけが残存している状況にある。<
形骸化した学校制度のおかげで、勉強脳に犯され、思考停止した子ども達が大量生産される。
現在の社会は、政治不信、マスコミ不信、医療不信、原発不信、官僚不信、、、様々な不信感のうえになんとか生きながらえているに過ぎない状態であるが、最も危険なのはこのような状態にあるにもかかわらず、何の打開策も新しい思想も価値も創造できないことにある。
つまり、思考停止が社会を滅亡させるということ。
そして、その思考停止を作り出している張本人が学校教育にあるということ。
私達はこのことを今、しっかりと認識する必要がある。

勉強脳とはどういうことか、学校教育の問題とは何か、、

 

現代教育の問題点
現代教育の過ちの最たるものは、必要も、欲求もないものを教えつづけているということだ。
つまりは、食べたくない時に、食べたくない物を食べさせていると言うことと同じである。
そうなったら、食事は苦痛であり、拷問に近くなる。
まともな人間には、耐えられない。しかし、その耐えられないことを、何年間も子供達に強要しているのだ。
必要性から生じたものではないから、必要性を考えない。
そのために、かえって教わらない方が、いいという結果になる。

 

教科書
学校においては、教科書は絶対である。
学校では、教科書に書かれていることには、何の矛盾もなく、間違いもないと信じ込ませる。
それを実行しているのが、学校の先生である。
なぜならば、試験制度下においては、試験の原典である教科書は、絶対でなければ都合が悪いからである。
こうなると、目的より、手段の方が重要になる。
かくして、教科書は、宗教の聖典以上に、絶対なものとなる。
宗教の聖典に書かれていることは、迷信でも、教科書に書かれていることは、真理である。
白いものでも、教科書に黒と書かれれば、黒になるのである。
教科書に書かれた英語が、言葉として使い物にならなくても、試験に出る以上、マスターしなければならないのである。

学校においては、教科書に書かれていることが、真実であり、真理である。
そこには、現実も事実も入り込むことはできない。
なぜなら、教科書こそ学校や教師の権威の源泉であり、試験制度の土台だからである。
そして、試験制度によってしか、今の教育制度は維持できないからである。
教科書の絶対性が失われたら、試験制度は土台から崩壊し、学校は、生徒を管理する術を失い、教師に対する生徒の信頼は失われる。故に、学校では、教科書に疑問を呈することは、タブーなのである。

受験や偏差値社会では、与えられた問題を解くだけ。
必然的に与えられた問題しか解くことができない人間を大量に生み出すことになる。
しかし、現実には、与えられた問題などほとんどない。問題は、自分で見いだすか、作り出すものである。

子供達は、教科書の中だけの狭い世界によって歪んだ世界観を植え付けられ、役に立たない知識や技術を与えられ、何の価値観も持たないまま、現実の世界に放り出されることになる。
子供達が無軌道になるのは、当たり前なのである。若者が、無軌道な生き方をする原因を、学校が、作っているのである。

元々、学問とは、理論の複合体、集合体である。全ての理論を網羅するか、一つの理論を突き詰めるかしないと、学問の本質は失われてしまう。その意味で、個々の理論を要約して寄せ集めた教科書は、学問の本質を最初から喪失している。

 

学校という世界
このような教育を受けた者は、あらかじめ用意された答え、指示されたことしか答えられない。
しかし、現実の世界に用意された答えはない。条件や環境が変われば、答えは毎日のように変わる。
変化する環境や状況に即応し、適切な判断を下せる力をつけさせることが、本当の教育の目的である。
人生の悩みや大切な価値観は、教えられない。人生の岐路に立ち、苦しんでいる生徒達に対し、教師は無力である。

学校では、何もかもが、決められている。
しかし、現実の世界では、そのようなことは希有な事である。
決められたことだけが正しくて、それ以外のことは、間違いになる。
用意された答えの中から正解を選ばなければならない。そこには、創造性はかけらもない。

こんな環境に長くおかれれば、決められたこと以外できなくなるのが、当然の帰結である。
そして、決められた答えがないと不安になる。
逆に、どんな困難なことにぶつかっても、その事実を認識できず。誰かが、正解を出す事を期待するか。
どこかに決まった答えがあると、現実を常になめてかかるようになる。
予期せぬ答えは、許されない。

しかし、現実の世界は予期せぬ出来事ばかりである。だから、学校は、現実の適合できない人間を多く生み出すのである。ただ、それが大きな問題にならないのは、まだ、戦後の教育を受けた者が、決定を下さなければならない立場に立っていないからである。しかし、兆候は、すでにある。

試験に受かること以外、目的が、ない世界。学校とは、そういう世界である。
生きていくために必要な知識や技術は、何も学校では教えない。なぜならば、学校生活には、それらの知識や技術は、不必要だし、かえって弊害になると思われているからである。

無目的で、無原則で、無計画な世界、それが、学校という世界である。

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