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2015年09月03日

赤松啓介の民俗学

赤松啓介(1909~2000)は一言で言うと反権力の人である。大阪中央郵便局に勤めていたころに大阪の被差別部落に興味をもち、大阪市の実態調査を行ううちに共産党や水平社の運動にのめり込んで特高警察に逮捕される。その後、地元の兵庫県に戻り喜田貞吉に師事して本格的に考古学や民俗学の調査研究を開始する。その民俗学の研究も“人民戦線運動”と銘打った反権力運動の一環だった。

その反権力指向から、当時民俗学のメインストリームだった柳田國男を痛烈に批判し、対抗意識を燃やしていた。

柳田のいう「常民」は、彼の政治的な意識を前提として創出されたファンタジーであり、それが「国民」という神話を創りあげることに対して徹底的に批判を加える。その対抗意識から柳田民俗学が取り上げなかった差別、性風俗、ヤクザ、天皇といったタブーを中心に研究を進めていった。

無題
【赤松啓介氏】

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日々の活動から民俗学の研究まで、おしなべて反権力に貫かれていた人物だったらしい。そんな赤松がライフワークとしたムラの性風俗の調査・研究の成果として「夜這い」がある。播磨(兵庫県)を中心に村々を回って、結婚儀礼の話を端緒にして夜這いや性風俗全般の話を聞き取り調査する。時に自身も村の女性たちと関係を持つなど経験も交え、1930~40年代の地域村落のおおらかな性について資料を採取した。

赤松の調査で描かれるムラは、性が高度にシステム化された世界であった。子供たちはまず「子供組」に入り、十三歳になると男は「若衆組」、女は「娘仲間」に入る。それぞれ性教育が施されたのち、夜這いの対象として実際に性交に及ぶ。特に祭りの日と夜這いはセットであった。夜這いが繰り返されるうちに、縁組をどうするかそれぞれの家で検討されたり家同士で協議されたりして、組み合わせが決まっていく。

ただし若年で子守や丁稚奉公、女工として働きに出されることもあり、女の子であれば場合によってはその働き先から女郎として売られることなどもあった。また、障害者に対する性教育の過程で妊娠出産となった場合、その子供はムラの子として見なされない場合が多く、長じてムラを立ち退いたり、都市へ出たものや乞食をして他国を回ったりと悲惨な例が多かったという。

このような「夜這い」の起源は、戦国時代にムラが戦闘に巻き込まれるなどして男女のバランスが崩れたことで普及したのではないかという説を赤松は唱えている。享保期以降、夜這いの禁止がたびたび出されるようになっていたという史実もあり、少なくとも江戸時代には全国で普及していた。

【参考】Kousyoublog

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