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2018年04月05日

学校教育・教授法の始まりは、いかに短時間に多くの知識を詰め込むか

明治初期の公教育の歴史を見ると、
明治以来の「手習い」に代わり、アメリカ由来の「直観教授」→「開発教授」→ドイツ由来の「段階教授法」へと移行していることが分かる。

段階教授法を基礎に、日本の公教育の教授法の定型がつくられている。
できる限り短期間に、多くの知識や技能を児童に教え込むための効率的な教授法を模索していた教員たちに受け入れられていった。
同じ教科を、同学年に、一律一斉に、教授するという、効率を重視した教育法である。

いずれも日本独自に生み出したものではない。
しかし、アメリカ・ペスタロッチが提唱した直観教授~開発教授は、
子どもの「天性」を活発なものであるとみなし、自然の順序で「心力」を開発する、としたものであった。
彼は、貧しい農民の子供たちを相手に労働と教育とを一体とする活動(貧民学校)を営んでいた。

一方、その後に主流となり現在の教育法の基盤となったドイツ・ヘルバルトの段階教授法は、
「教授のない教育などというものの存在を認めないし、また逆に、教育しないいかなる教授も認めない」と説き、
・教授:子どもに興味・関心を持たせるよう知識を伝達し、習得させる機能
・訓練:陶冶しようとする意図をもって、青少年の心情に直接に働きかける機能
・管理:子どもの欲望を統制したり、教室内に秩序を実現したりする機能
という三つの概念を提唱している。管理教育の始まりである。

 

以下、「明治二〇年代高等師範学校附属小学校におげる直観教授実践の歴史的展開」より要約。

◆直観教授
明治五年の「学制」公布以来、日本では近代学校の組織・教育内容にふさわしい教育方法が模索された。それは、近世以来の「手習い」に代わる、学級制に対応した一斉教授の方法であった。新しい教授法を実践し、その全国への普及に中心的な役割を担ったのが、明治五年に設立された師範学校(後、東京師範学校、高等師範学校を経て、明治三五年に東京高等師範学校となる)であった。そこでは、アメリカ・ペスタロッチ主義の直観教授が実践され、はじめ「問答」科が設定され(明治六年)、ついでそれが「実物」科へと改変されていく(明治二二年)。

明治一〇年前後の「間答」、「実物」の両科は、アメリカ。ペスタロッチ主義の直観教授を日本の実状に合わせて翻案した「庶物指教」に代表される直観教授の試みであった。しかし、政府の教育内容統制に対応する形で、この試みは変更を迫られ、直観教授に対応する内容を「教科」として独立させていた時期は短かった。

◆開発教授
そして、独立の「教科」領域での直観教授にかわって、全教科にわたる教授法の原則として、「開発教授」が採用されるようになる。これは、先の「問答」科が暗記主義に陥った弊害への批判意識も持ち合わせていたものであり、暗記ではなく子どもの知識・認識を間答によって「開発」しようという意図を持っていた。

「開発教授」の実践の中心地もまた、東京師範学校であった。明治一〇年代に相次いで校長を務めた伊沢修二と高峰秀夫は、ともにアメリカヘの留学を経験しており、そこで「開発教授」を生み出す直観教授の原理を学んでいた。これが、日本で、東京師範学校における試行をふまえて、同校および附属小学校の教員である若林虎三郎と自井毅によって『改正教授術』としてまとめられた(明治ニハ年)。
その教授の主義は、子どもの「天性」を活発なものであるとみなし、自然の順序で「心力」を開発する、としたものであった。

明治一〇年代に一世を風靡した「開発教授」が、次のような特徴を持っていたことが確認されている。
①ある事物を示しながらそれについての問答を繰り返していくことによって、子どもの知識・認識の「開発」をはかろうとしていたこと。
②間答という方式の内包する形式性やそれを実行する教員の未熟さもあって、「開発教授」は形骸化していったこと。
③こうした形骸化の根底には、ペスタロッチがもっていた直観原理の思想性への理解が欠如していたこと。
さらに、教育内容の統制が、直観原理の理念の把握を必要としない「教授法」の普及を助長した。

◆段階教授法
そして、こうした特徴を持った「開発教授」に代わって、明治二〇年代後半以降には、ヘルバルト派の理論が主流を占めるようになっていくとされている。この過程は、稲垣によって「公教育教授定型」として示されている。

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