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2015年11月19日

2015年11月19日

「家」の確立過程=嫁入婚への移行

婿入婚から嫁入婚への移行について、「家制度」の確立過程と併せ見ていく。

◆「家」の確立
中世は「家」の確立した時期である。
「家」とは、家督を相続した家父長を中心とした婚姻によって成り立った血縁家族のことである。

この「家」の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、
貴族層・武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、
そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、
さらに庶民層においては、南北朝時代から室町時代であった。

それぞれの画期の前の時代においては夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、女性が親から財産を相続するのは当たり前であった。
そしてそれぞれの画期の後の時代になると、夫婦は共に家の名としての姓を名乗るようになっていることから、それぞれの時代に「家」が成立したことが分かるのである。
この意味で、全ての社会階層において「家」が成立するのは、南北朝時代以後ということであり、「家」が全社会的に確立されたのは、戦国時代であった。中世の最末期である戦国時代は、今日まで続く日本社会の基層である「家」の確立した時期なのであった。

◆婚姻関係と財産権
中世における人間関係は、一夫一妻と夫婦の同居を原則とする父系制家族集団を最も重視し、(一族、一門、一統などと称した)ついで主従関係とする観念が強かった。そのため多くの武家は一族・一家を全うし、子孫の繁栄をはかることこそが究極のねらいであった。

鎌倉時代は一夫一妻をたてまえとしたが、これは徹底しなかったらしく、庶民は別として公家、武士ともに権門富豪の殆どは一夫多妻で、そのうえ式目では妻の貞操を強要している。
その原因の一つとしては、鎌倉初期の女性の貞操問題は寛大で男女間の節制の弛緩が伺われる。
そこで式目二十四条では「妻は夫の死後も、夫に対して貞操を守ることを原則」とした。

鎌倉初期の「男女を問わず諸子分割相続」の制度も中世中期(室町時代)には嫡男長子の単独相続が多く見られ、中世後期には遂に家長制、惣領制による単独相続がもっぱらとなって、女子の財産相続権は消滅し、婿取婚から嫁入婚への婚姻形態の推移とともに、古代以来の「家は女のもの」とする意識は変化し、この点で女性の立場は低下したといえる。

平安時代、貴族がすべて優美性を尚び、生活の遊戯化、形式化から工夫した婿取婚の儀式は誠に複雑で、拙速を喜び巧遅を嫌った武家社会では儀式の面倒さに耐えかねた。その上、父権制の確立などの要因により、公家社会でも平安末期から次第に変化しつつあった婿取婚は、鎌倉時代に入り武家では年とともにその数を減じ、嫁入婚が中心となった。一夫多妻の中では通婚もなお行なわれ、これをよしとしているといえるが、嫁入婚形態への移行は、中世中期以降女子の財産権が次第に喪失したことと相まって、武家社会は男性に依存してのみ生きることが可能となった。

参考:「女子教育に関する一つの考察」(第五編)

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