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2019年2月28日

2019年02月28日

ツンケンした吉原の超美人より、岡場所の素直な女が人気だった?

超美人もいいけど、素直で心遣いのできる女性のほうが男性は充たされるものなのかもしれませんね☆彡

リンク より

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江戸の街でもっとも有名で重要な色街といえば、当初、それは吉原以外にはありえませんでした。
吉原は全国に3つしかない幕府公認の遊郭でしたからね。しかし、伝統を重んじる京都や大坂のお客が保守的だったのに比べ、江戸のお客はたいそう移り気でした。
吉原の人気は18世紀も末になれば、下降してしまいます。

まず、遊女と一晩遊ぶための揚げ代が高額(庶民男性の一年分の食費)だったこと、現在の浅草あたりにあった吉原は、江戸時代では辺鄙な場所にあたり、行きにくかったこと、そして遊女たちがツンケンしていたことなどが上げられるでしょうか。全国3箇所の3大遊郭のうちでも大阪・京都では、「このツンケンした感じこそがイイんだ、一流の証だ」などとされたのですが、「江戸っ子は短気」ですからねぇ。

吉原以外の、つまり幕府非公認……いや、半公認の色街がたくさんありました。これらを「岡場所」と江戸では呼びました。岡場所にも吉原のイミテーションのような遊女屋があり、そこで囲われている遊女たちが客を取っていたのです。

18世紀末にあたる宝暦年間から天明年間にかけて、この岡場所の人気は頂点に達し、江戸市中だけで約70箇所ほども存在するようになったといわれます。

ちなみに岡場所の遊女たちの揚げ代は、吉原の遊女にくらべてかなりリーズナブルでした。
たとえば、岡場所で最高のランクの遊女と、吉原の中の下くらいの遊女は、ほぼ同額だったのです。当時の吉原の中の下は……というと、やっと個室で接客してもらえるというレベルのことです。それでも揚げ代は現在でいうと数万円~という感じでしょうか。
そのランクの遊女を吉原では「部屋持ち」といい、この「部屋持ち」以下のランクの遊女は、八畳ほどの部屋で2~3組の男女が衝立や屏風を挟んで、行為中ですら雑魚寝状態だったわけです。

一方、同じ額を払うといっても、岡場所では最高の客として扱ってもらえるわけですよ。吉原ほどの豪華さはなく、個室といっても粗末なわけですが、岡場所のほうがマシかなぁというのが人情というもの。

岡場所の遊女たちは、吉原のように「歌扇」とか「揚巻」といった手合いの源氏名ではなく、「おせん」「おはな」といったように「お」の付く名前(通称・おの字名)で呼ばれるのが普通でした。これは親しみやすくするための作戦です。

彼女たちは、吉原の高級遊女にくらべ、江戸時代の岡場所の遊女たちの面白いエピソード的なものははほぼありません。あまりに身近すぎて、悪い言葉でいえば「使い捨て」だったのかなぁ……とも。吉原の遊女は、建前だけでも芸能人あつかいです。ところが、岡場所の遊女になるということは、奴隷になるのにも等しいんですね。

岡場所の遊女たちの憂鬱をヨソに、お客は喜んで通ってきました。
超美人が多いかもしれないけれど、遊女がツンケンしている印象の強い吉原にくらべて、親しみのある接客を岡場所では受けられたわけですから。

お金がない=庶民という発想をわれわれは持ちがちです。しかし、浅草、本所、深川といった江戸庶民が暮らす下町だけでなく、三田、麻布、市ヶ谷、本郷といった、現代日本でも王道の山の手エリアとされる地域にすら岡場所は存在していました。

つまり、男性の身分やステイタスの上下に関係なく、庶民的で素直なキャラの女性はモテる……ということかもしれませんが、その気もちを裏返せば、自分の好きに扱いやすい女だから、ということなんでしょう。

「つらか事いっぱいあった。
姉遊女(先輩)の妬み・爪くり(つねったり、意地悪される)
遣り手(マネージャー)の悪意地、あてがい甚助(イヤな客)
お下まつり(生理期間)の客どり
妹の婚礼の借金」

という、昭和時代の半ばまでを東北の岡場所に相当する遊郭で生きた遊女の言葉には、地域や時代を超えた、廓づとめの悲哀が集約されているように思えます(『鬼灯火の実は赤いよ』)。

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