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2016年10月27日

近代の学校教育制度の本質は強制教育、子どもに選択権は無い

リンク:強制的な勉強は、本来の思考を封鎖する
>赤ん坊は、言葉の欠乏の塊で、貪欲に言葉を吸収してゆくが、その原動力となっているのは、本能と共認機能が生み出す生存欠乏・力の欠乏と充足欠乏・繋がり欠乏である。このように100%内発的な潜在思念だけが、「どうする?」という工夫思考⇒同化思考の回路を駆動させる。
従って、上から与えられた強制的な勉強課題に対しては、工夫思考⇒同化思考の回路が全く作動しない。
勉強脳とは、本来の思考を封鎖する封鎖脳であり、15才頃(高校に入る頃)には、すっかり頭が錆びついて、本来の工夫思考⇒同化思考が殆どできない封鎖脳が形成されて終う。

今回は、学校教育の強制性について
リンクより記事を紹介する。

・外部にある社会性(規範意識・慣習・常識・礼儀)』を強制的に内面化させなければならないとする理念。
・したがって、『内部にある可能性(適性・知性・能力・知的好奇心)』を引き出す『教育』の場ではない。
・義務教育では『教育を受けない自由』は容認されない。
・生徒本人が好むと好まざるとに関わらず、『学校環境への適応』を社会的自立の前段階において強制される。
・教師が“上位者”で生徒が“下位者”という厳然たる上下関係の階層秩序が設定されている。
・生徒は基本的に『教育訓練される対象』であり、学校教育における善悪の普遍的基準に疑義を差し挟むことはできない
・義務教育は大人が子どもに学校教育・集団訓練を受けさせるもの。
・したがって、子どもが自発的に学校で学び先生に指導されることを選択(希望)するわけではない。
・『幼児的な全能感・自我意識の肥大』を集団活動や競争環境の中で去勢するイニシエーション(通過儀礼)としての役割。
・本能的欲求に従う自然人としての子どもを『規範・訓練・去勢』によって社会化・文明化していくのが従来の近代教育制度の骨子。

こうして書き出してみると、なんとまあ国家にとって都合のいい人間をつくり出す洗脳機関そのものではないか。
強制的に「常識・基準」などを植え込みながら、一方で個性が大事、考える力が大事と詭弁をふるう。
そして、試験、偏差値、受験システムで万全の体制を敷き、逃れられない環境を作り出している。
なんだか強制収容所を思い浮かべてしまった。
今すぐに求められるのは「教育」からの解放~思考の解放。
そのためにも、親(特に母親)、教師が気付き、変わらねば子どもたちの未来はない。

近代の学校教育制度の本質・役割とは何か?1:ハードな教育理念とソフトな教育理念の比較
『教育(education)』の英単語には『内部にある可能性』を引き出すという原義があるが、近代国家が備える教育制度(義務教育)がその原義に沿ったものかと問われると恐らくそうではないだろう。現在では『生涯学習の概念』が提唱されていることもあり、教育する対象や教育サービスのニーズは『学齢段階の子ども(小中高の学生)』に限らず、学習意欲のある大人も教育の対象に含まれる。

教育には『内部にある可能性(適性・知性・能力・知的好奇心)』を引き出して開発すれば良いとするソフトな教育理念と、『外部にある社会性(規範意識・慣習・常識・礼儀)』を強制的に内面化させなければならないとするハードな教育理念の二つがあるように思う。

ソフトな教育理念に基づく有料の教育サービスには、『教育を受けない自由・知育以外の生活指導に従わない自由』も含まれることがあるが、学校教育特に義務教育段階の学校教育では『義務教育を受けない自由』というのは通常容認されることがない。

ハードな教育理念とは、生徒本人が好むと好まざるとに関わらず、特段の健康上の事由がない限りは、『学校環境への適応』を社会的自立の前段階において強制しなければならないという考え方である。ハードな教育理念では『知育(知識教育)』以上に『徳育(道徳教育)』を重視して、生徒の生活態度や価値判断、規範意識、立ち居振る舞いを権威主義的に変革しようとする。

ハードな教育理念に基づく教育活動では『何が正しくて何が間違っているのか』についての普遍的とされる基準があり、教師が“上位者”で生徒が“下位者”という厳然たる上下関係の階層秩序が設定されている。

生徒は基本的に『教育訓練される対象』であり、『教育者(教師)と対等な主体』ではないので、学校教育における善悪の普遍的基準や教師‐生徒の上下関係に疑義を差し挟むことはできないというのが、ハードな教育理念の特徴となっている。保守的な人が好む『秩序ある学校教育の範型』でもあり、生徒を規律訓練して既存社会・産業経済の枠組みに適合させる『近代教育制度の原型』とも言える。

近代の学校教育制度の本質・役割とは何か?2:教育の強制性・義務性とサービス業化の問題
義務教育というのは言うまでもなく、大人が子どもに学校教育・集団訓練を受けさせるものであって、子どもが自発的に学校で学び先生に指導されることを選択(希望)するわけではないので、原理的に『強制性・作為性』をそこから完全排除することはできない。

サービス業としての教育産業と義務的な学校教育との違いは、生徒自身(教わる者自身)が学校に通うことを希望して選択しているのか否かにあるし、教育を受ける対価として適正な市場価格を支払っているのか否かということでもある。

ソフトな教育理念は、生徒の自主性や主体性、選択可能性を重視して『生徒の内面にある素質・適性』を発達させようとする。だが、ソフトな教育理念では『教師‐生徒間の対等な関係性』が前提とされるので、成人ではなくても一定以上の判断能力や集団適性のある相手(生徒)でなければ、ソフトな教育理念のみに依拠して教育目標を達成することは難しい。

近代の学校教育制度の本質・役割とは何か?3:子どもの社会化と能力向上の個性教育のバランス
近代教育制度は原理的に、既存の産業経済や社会活動に適応可能な『近代的個人(理性・規範・倫理観を内面化した個人)』を育成するための制度であり、精神分析的に言えば『幼児的な全能感・自我意識の肥大』を集団活動や競争環境の中で去勢するイニシエーション(通過儀礼)としての役割も担っている。

本能的欲求に従う自然人としての子どもを、『規範・訓練・去勢』によって社会化・文明化していくというのが従来の近代教育制度の骨子であるが、このハードな教育理念の中で現代においても有効性が高いと思われるのが『社会的な規範・常識・作法の共通基盤』を作り上げるということだろう。

ハードな教育理念は『画一的・従属的・規格適合的な個人』を形成しようとする極であり、ソフトな教育理念は『個性的・自発的・クリエイティブな個人』を形成しようとする極であるが、初等教育から高等教育に進むにつれてソフトな教育理念を応用した個人の能力・適性を伸張させる教育制度設計が強く要請されることになる。

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