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2015年10月22日

2015年10月22日

日本における婚姻習俗

前回記事においては 武家社会によって初めて嫁取り婚が登場し、その他は母系の婚姻形態であったとして日本の婚姻制の移り変わりについて考察。不明な点は嫁取り婚の起源が武家による略奪であったのかどうかという点にあった。今回また引き続き婚姻制の変遷について探ってみる。

以下は、リンクからの引用。

日本における婚姻習俗
日本の伝統的な婚姻は、かつては、嫁入り婚のみだと無造作に考えられていた。ところが、1929年(昭和4)の『聟(むこ)入考』で、柳田国男(やなぎたくにお)は、嫁入り婚――柳田のいう「嫁入り式中心の婚姻」――と並んで、「婿入り式中心の婚姻」が日本の二大婚姻類型をなし、しかも「婿入り式中心の婚姻」が古代の支配的な婚姻であって、「嫁入り式中心の婚姻」は中世武家階層のもとで初めて形成されたと論じ、学界に大きな波紋をひきおこし、爾後(じご)、この考え方が日本婚姻史の通説的見解をなしてきたのである。近時、この通説的見解に批判が提起されたが、その点は後にふれることとする。

この「婿入り式中心の婚姻」と「嫁入り式中心の婚姻」の二類型は、妻家であげられる婿入りの式で婚姻が成立するか、それとも夫家での嫁入りの式で婚姻が成立するかという、婚姻成立祝いの方式に着目したものであった。ところで、それらが後に、「婿入り婚」と「嫁入り婚」という略称でよばれることが民俗学界で一般的となったが、この略称法の「婿入り婚」という語は、夫が妻家に生涯居住する婚姻、つまり人類学上の妻方居住婚と誤解されかねなかった。そのため、人類学界のなかでは、婿入り婚の語にかえて、「一時的訪婚」という術語を用いる傾向も生じた。というのは、この婚姻の居住方式(民俗学の「婚舎」のあり方)をみると、婿入りの式があげられたのち、一時的に夫妻が別居し、この間、配偶者の訪問によって夫婦生活が営まれる婚姻だからである。

ただ、このような意味の「一時的訪婚」は、婿入り婚だけに限られはしない。後述する「足入れ婚」「女よばい婚」「寝宿婚」もまた、結婚当初の一時期、夫妻が別居し訪婚が営まれる点でかわりがない。そこで以下では、民俗学上の婿入り婚に限定して考察するときはやはり「婿入り婚」の語を用い、前述の訪婚諸習俗を包括的に考察する場合に「一時的訪婚」の術語を使うこととする。

続けて、リンクより
嫁入り婚の古代起源
日本の嫁入り婚には、前記のように、北方の諸民族と共通するさまざまな習俗がみいだされたが、次の二つの習俗もその点で無視しえぬ重要性を有している。
その第一は、中国の学者が「収継婚」と総称している習俗である。すなわち古代北方の遊牧民の間には、もしある男性が亡くなると、その寡婦は義子の妻とされる(俗に「後母をめとる婚姻」という)か、亡夫の弟にめとられる(人類学の「レビレート婚」)か、あるいは亡夫の甥(おい)の妻とされるか、の3方式があったのである。日本ではレビレート婚が近時まで広く行われていたものの、古代の史料にはまだみいだされていない。これに対して後母をめとる婚姻や、甥が義理の伯(叔)母をめとる婚姻は、古代の天皇家の間に行われていた。おそらくレビレート婚も、近時の広汎(こうはん)な分布状況からみて古い時代にさかのぼるものと推察され、そしてそれらは中国北方の遊牧民文化に連なるものとみなされよう。

第二に注目すべきものは、日本古代の姉妹型一夫多妻制の習俗である。それは、妻たちが互いに姉妹であるという特殊な一夫多妻制で、記紀には18件の事例が記述され、天皇家を中心として古代日本に少なからず行われていたのである。そして同様の習俗が韓国では高麗(こうらい)朝の王族のもとで、満州族やモンゴル人では17世紀の前半にやはり王族間で盛んに行われていたのであり、北方系文化に属することは論をまたないのである。
このように考察してくると、日本の嫁入り婚文化は日本民族生成時にまでさかのぼるものと考えられるのである。したがって嫁入り婚が中世の武家階層のもとで初めて形成されたとする柳田国男たちの通説は再検討されねばならないのである。古代日本には、一時的訪婚とともに、嫁入り婚が少なくとも一部で行われていたとみてよいであろう。

 

これによると嫁入り婚は武家によって登場したものではなく北方文化由来として天皇家を中心に古くから行なわれていた模様。また、通い婚は南方系文化として登場している模様。次回、もう少し追いかけてみたい。

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