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2017年6月1日

2017年06月01日

教員も軍隊式の強制教育を受け養成された

学校において生徒たちにとっての教員とは、絶対的な存在である。
学校制度ができた明治時代には、その教員を養成する師範学校が重要な役割として設立されている。
師範学校の生徒(将来の教員)は、徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入され、
兵式体操で身体を訓練し、全員が寄宿舎生活をし、帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されたという。
教員もまた軍隊式による強制教育を受け、養成されたのであった。
(※学校は軍隊をモデルに作られた。その強権体質が、今、子供を潰し始めた。)リンク

 

近代的教職像の確立と変遷
1885年、太政官制に代わって内閣制度が導入され、伊藤博文が初代首相に任命される。
伊藤により米国、英国などで外交官を経験していた開明主義者の官僚、森有礼が初代文部大臣に任命される。
西欧化による国民の啓蒙を続行しつつ、天皇を中心とした日本人としての国民意識形成と倫理的行動原理を育成強化するというという重要な 課題と、明治初期から目前の必要をみたすために応急的、試行錯誤的に進められてきた教育事業を整理して、一貫した教育体系を作り上げる課題が森有礼に課せられた。

この森文相によって、1886年に「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が 公布され、この後の日本教育発展の基盤となる教育制度の基本的骨格が形成されることになる。
1890 年には教育勅語が発布される。
その直前に行われた小学校令の改正では、「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及 国民教育ノ基礎並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨スト」として 小学校教育の目的が規定され、道徳教育、国民教育、普通の知識技能の習得の三本柱で構成される初等教育の目的が明示された。この目的規定はその後50年にわたって変わることなく維持された。

森文相は、国民教育における初等学校教員の重要性を認識しており、師範学校の役割を重視した。
森の制定した師範学校令第一条は、次のように規定した。
「師範学校ハ 教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシム ルコトニ注目スヘキモノトス」。
ここで注目されることは、法令の条文でわざわざ、未来の教員に「順良」「信愛」「威重」という三つの気質ないしは徳性を植えつけること をめざすと書き込んでいることである。
森の案では、当初は、それぞれ、従順、友愛、 威儀と表現されていた。こちらの方が分かりやすい。
師範学校の生徒が身につけるべき理想的な資質は、「順良、信愛、威重」すなわち、上長の命令に従属すること、同僚に愛情あふれた信頼を寄せること、児童の行動や態度を重々しく威厳をもって統制するということにされたのである。

未来の教員に徹底して国家的イデオロギー(国民道徳と天皇への忠誠)を注入することを目指す。
生徒は、兵式体操で身体を訓練し、また全員が寄宿舎生活をして帰属意識や集団的規律を身につけた特有の人物像が形成されることになる。生徒には、兵役の免除、授業料や食費の無償、衣服や雑費の支給などの特権が与えられた反面、 卒業後一定期間の教職への奉職義務(男子10年、女子5年)が課されていた。また、中等学校教員および師範学校の教員を養成するための機関として、高等師範学校が設置された。

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2017年06月01日

気候変動と日本史

気候と日本史

上記画像および下記年表は、ブログ「家・街・考」からお借りしました。

大きくは、600~700年は寒冷期→700~1300年は温暖期→1300~1800年は寒冷期→1800~現在は温暖期だが、途中でも急激な寒冷化や温暖化が見られる。

●600~700年(寒冷化)
・587年:蘇我氏が物部氏を滅亡
・618年:隋が滅亡し、唐が中国を統一、律令制を整備
・644・661・667年:唐が高句麗に出兵し、朝鮮半島の戦乱が激化
・645年:大化の改新=中大兄皇子・中臣(のちの藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を殺害
・660年:唐+新羅連合軍が百済を滅亡
・663年:白村江の戦い=日本+百済連合軍が唐+新羅連合軍に敗戦
・668年:唐+新羅連合軍が高句麗を滅亡
・676年:新羅が唐に敵対・戦勝し、新羅が朝鮮半島を統一
・672年:壬申の乱=天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が天智天皇の子・大友皇子に戦勝
・694年:藤原京が完成=持統天皇が皇位継承
・701年:大宝律令=法律で統治し、公地公民を規定

●700~800年代後半(温暖化)
・710年:平城京へ遷都
・743年:墾田永年私財法=新規開墾した土地は私有でき、子孫への相続や売買も自由に
・794年:桓武天皇が平安京に遷都
・797年:坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、朝廷が東北地方の蝦夷に派兵し、反乱を鎮圧

●800年代後半~900年(寒冷化)
・894年:遣唐使の停止
・907年:唐が滅亡、五代十国時代に

●900~950年(急速な温暖化)
・935・936年:新羅が滅亡し、高麗が朝鮮半島を統一
・939年:平将門の乱(関東地方)
・939年:藤原純友の乱(瀬戸内海地方)

●950~1000年(寒冷化)
・960年:宋(北宋)が中国を統一
・1016年:藤原道長が摂政となり実権を掌握

●1050~1200年(温暖化)
・1051年:前九年の役(東北地方)=源頼義・義家父子が地元の有力豪族・安倍氏を滅亡
・1083年:後三年の役(東北地方)=源義家が地元の有力豪族・清原氏の内紛に介入して平定
・1086年:白河上皇の院政開始=白河上皇→鳥羽上皇→後鳥羽上皇と院政が継承
・1156年:保元の乱
・1159年:平治の乱
・1167年:平清盛が太政大臣に就任
・1185年:壇ノ浦の戦い=源氏(源義経)が平氏を滅亡
・1192年:鎌倉幕府開設

●1200~1300年代前半(寒冷化)
・1206年:チンギス・ハンがモンゴルを統一
・1221年:承久の乱=幕府(北条氏ら)が朝廷(後鳥羽上皇)に戦勝、幕は六波羅探題で朝廷を監視
※御鳥羽上皇の味方の貴族・武士の西日本の領地を没収し、功績のあった東日本の御家人をその地頭に任命
・1232年:御成敗式目=執権・北条泰時が武士の法律を制定
・1271年:モンゴル帝国のフビライ・ハン(5代)が中国統一し、元の皇帝に
・1274年:文永の役
・1281年:弘安の役
・1297年:永仁の徳政令=困窮化対策に、御家人の所領の売却・質入禁止、御家人の元所領の無償返却
・1333年:鎌倉幕府が滅亡
・1333年:建武の新政=武家を排除し、後醍醐天皇を中心にした公家政治
・1336年:南北朝の動乱=武士の不満から挙兵、京都の北朝と吉野の南朝(後醍醐天皇)に分裂
・1338年:足利尊氏が征夷大将軍に任命され、室町幕府開設
※ 守護には軍事費用の調達を名目に権限が強化され、武士や荘園・公領を支配下に組み込んでいき、領国化していったが(守護大名)、一部の武士や農民は団結して一揆等で対抗

●1300年代前半~1400年(温暖化)
・1368年:元がモンゴルへ退去し、明が中国を統一
・1392年:高麗滅、朝鮮国(李氏朝鮮)が朝鮮半島を統一
・1392年:足利義満が南北朝を統一
・1404年:足利義満が日明貿易を開始

●1400年~1500年代前半(寒冷化)
・1428年:正長の土一揆=京都近郊の惣が団結し、借金帳消・土地返却のため、土倉・酒屋等を襲撃
・1467年:応仁の乱
・1485年:山城の国一揆=武士と農民が管領で守護大名の畠山氏を追い払い、約9年間自治
・1488年:加賀(石川県南部)の一向一揆=浄土真宗信者が守護大名を自害に追い込み、約93年間支配

●1500年代前半~1600年(温暖化)
・1560年:桶狭間の戦い
・1573年:室町幕府が滅亡
・1590年:豊臣の全国統一
・1600年:関ヶ原の戦い
・1603年:徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開設

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