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2017年6月8日

2017年06月08日

経産省 次官・若手プロジェクト「不安な個人、立ちすくむ国家」への違和感

経産省の「次官・若手プロジェクト」がネットで注目を集めている。
行き詰った国家統合に若手官僚が声をあげたことは○だが、本来それが統合者の役割である。
しかし、それにしては極めてお粗末な内容である。

「不安な個人、立ちすくむ国家」
まず最初に、このタイトルに違和感を感じる。個人と国家という枠組み。
個人のために国家があるのか、国家は個人のためにあるのか。
個人が主体となったのは戦争が始まった5000年前以降、日本においては村落共同体が解体されていく明治以降に過ぎない。
人類500万年の歴史において、99.9%は集団第一の時代であり、個人が主体の時代は人類史上極めて異常な状態といえる。

こと日本においては一部の地域では戦後も夜這い婚が続いていたなど、村落共同体の様式を色濃く残している。
西欧に追いつけ追い越せとばかりに、近代思想を輸入し、学校教育で洗脳し、個人の自由を夢見させ、国家を挙げて市場化に精を出した結果が、現在の行き詰った姿に他ならない。であれば、まず近代の総括が必要であろう。

先日の「実現塾」では、愛・人権・平等などといった感応観念のもつ支配力の強さについて考えさせられた。たしかに近代は、自由・平等・博愛にはじまる近代思想に導かれ、誰もが個人の自由・恋愛へと私権獲得に収束した。その言葉自体だれも真っ当に説明できないが、誰もが納得する力をもつ、それは何故なのか?

本来、言葉は洞窟に隠れ住んでいた仲間に伝えるために生まれたもの。仲間発、集団発である。
それに対し感応観念は、個々人の心の内にある自我に訴えかけたもの、個人発の言葉である。
だから誰も傷つけないし、誰からも受け容れられる。しかし、集団にとっては「個人の自由」は敵対物に他ならない。
感応観念たる近代思想は個人発の、個人が主体の観念である。
ちょうど戦争が始まって古代宗教が生まれ、近代国家のはじまりに近代思想が生まれたことが符号する。
集団から個人へと転換するには、個人主体の観念が必要だったということ。

そして今、個人が主役の市場社会は終焉を迎えようとしている。
にもかかわらず、個人発の観念でしか社会を捉えれられないのが、試験の勝者にすぎない官僚の限界である。
これは学者も政治家もマスコミもみな同じである。
近代思想を疑うどころか錦の御旗に私権社会を勝ち抜いてきた彼らに、自らの基盤を否定し新たな観念を生み出すことは出来ない。

不安な個人に、国家が答を出そうとするのが、そもそも間違いではないか。
現実に生きる不安な個人、その不整合・危機感の集合体が、自らの生きる場を自分たちで作っていくうねりとなる。
それこそが、いわゆる「民主主義社会」であり、日本人の誰もが心底にもつ「共同体社会」への実現の道である。

不安な個人、立ちすくむ国家
~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~

かつて、人生には目指すべきモデルがあり、自然と人生設計ができていた。
今は、何をやったら「合格」「100点」か分からない中で、人生100年、自分の生き方を自分で決断しなければならない。
世の中は昔より豊かになり、日々の危険やリスクは減っているはずだが、個人の不安・不満をこのまま放置すると、社会が不安定化しかねない。我々は、再び「権威」や「型」に頼って不安・不満を解消するのではなく、「自由の中にも秩序があり、個人が安心して挑戦できる新たな社会システム」を創るための努力をはじめなければならないのではないか。

人類がこれまで経験したことのない変化に直面し、個人の生き方や価値観も 急速に変化しつつあるにもかかわらず、日本の社会システムはちっとも変化できていない。このことが人々の焦り、いら立ち、不安に 拍車をかけているのではないか。
なぜ日本は、大きな発想の転換や思い切った選択ができないままなのだろうか。

今後は、人生100年、二毛作三毛作が当たり前。
にも関わらず、「昭和の標準モデル」を前提に作られた制度と、それを当然と思いがちな価値観が絡み合い、変革が進まない。これが、多様な生き方をしようとする個人の選択を歪めているのではないか。

みんなの人生にあてはまり みんなに共感してもらえる「共通の目標」を政府が示すことは難しくなっている。

戦後、日本は、世界に誇れる社会保障制度の構築に成功し、公平性を維持した経済成長を実現。
しかし、本格的な少子高齢化が進むなか、過去に最適だった仕組みは明らかに現在に適応していない。
既に人々の価値観は変化しつつあるにもかかわらず、過去の仕組みに引きずられた既得権や固定観念が改革を阻んでいる。
「シルバー民主主義」を背景に大胆な改革は困難と思い込み、誰もが本質的な課題から逃げているのではないか。

このままでは、いつか社会が立ちゆかなくなることは明らか。
若い世代には、そんな日本を見限って、生活の場を海外に移す動きも出てきている。
従来の延長線上で個別制度を少しずつ手直しするのではなく、今こそ、社会の仕組みを新しい価値観に基づいて抜本的に組み替える時期に来ているのではないか。
①一律に年齢で「高齢者=弱者」とみなす社会保障をやめ、働ける限り貢献する社会へ
②子どもや教育への投資を財政における最優先課題に
③「公」の課題を全て官が担うのではなく、意欲と能力ある個人が担い手に(公共事業・サイバー空間対策など)
これにより、個人の帰属・つながりを回復し、不確実でも明るい未来を実現する。

2025年には、団塊の世代の大半が75歳を超えている。
それまでに高齢者が支えられる側から支える側へと転換するような社会を作り上げる必要がある。
そこから逆算すると、この数年が勝負。
かつて、少子化を止めるためには、団塊ジュニアを対象に効果的な少子化対策を行う必要があったが、今や彼らはすでに40歳を超えており、対策が後手に回りつつある。今回、高齢者が社会を支える側に回れるかは、日本が少子高齢化を克服できるかの最後のチャンス。

2度目の見逃し三振はもう許されない。
日本は、アジアがいずれ経験する高齢化を20年早く経験する。
これを解決していくのが日本に課せられた歴史的使命であり 挑戦しがいのある課題ではないか。
日本社会が思い切った決断をして変わってみせることが、アジア、ひいては国際社会への貢献にもつながるのではないか。

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