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2017年8月31日

2017年08月31日

葛城氏と秦氏

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったことに象徴されるように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

以下、「泰澄大師 と 日本文化 」の一部要約です。

●京都の愛宕山の寺院には、「大和葛城・鴨氏の役小角」と「越前秦氏の泰澄」の起源に関わる、奈良時代の伝承がある。銅鐸・鉄器をもたらした人々は、出雲など日本海側から渡来し、丹後・亀岡などに拠点、大和に至り、三輪山山麓を本拠とした。彼らは、水・鉄をもたらす山を崇めたが、その中の一集団が、奈良盆地 南西に暮らした葛城鴨氏である。 今日の奈良「高鴨神社」一帯に暮らし、やがて新しい勢力の流入を受け北上し、山代に至る。 その後、奈良時代、同じく葛城から山代へ北上したのが山岳修験の「役小角」である。

天智天皇は、大津京守護のために、奈良の大神神社から、今の日吉大社へ出雲の神である「大己貴神」を勧請した。天武天皇は、出雲の一族である鴨氏奉祭の上鴨神社社殿を整えた。桓武天皇も平安京の護りとしたのは、賀茂社の地である。

古墳時代、秦氏は主に北九州~河内・山代に至るが、一方、日本海側、越前から淡海(滋賀)を経て山代に南下した秦氏もある。その一人が泰澄。泰澄(越前秦氏)は、奈良時代の修験道の僧。越前国白山を開山した。泰澄の父は、秦氏の 秦角於だとする説がある。

秦氏の拠点拡大や、その二つの渡来ルートの合流は、松尾大社の祭神「大山咋神」と「市杵島姫命」に伺える。大山咋神は、日吉大社の奥宮磐座に残る古代の神山信仰で、山城の松尾大社から保津川を昇り、亀岡に伝わる。市杵島姫命は、元来、北九州の宗像大社の祭神である。また、越前から南下した泰澄の白山信仰は、日吉大社など滋賀に多く伝わり、山城に至る。
以上、出雲からは亀岡、大和~山代、 一方では、越前からの淡海~山代。 出雲から伝来した磐座信仰、大国主信仰は、亀岡の出雲大神宮や愛宕神社、そして山代の山頂に至り、今日の愛宕山社寺に伝わる。最澄は、奈良の三輪山より大物主の分霊を日枝山(比叡山)に勧請して、大比叡とした。

『秦氏の研究 -日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究-』(大和岩雄 著/大和書房)は、泰澄の生まれた足羽郡に秦氏がいたことを指摘し、また、秦氏の山岳信仰の山である愛宕山の開基が泰澄であり、愛宕山を「白山」ということをあげて泰澄が秦氏の出であることを主張している。泰澄は 702年、文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、717年、越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。 各地にて仏教の布教活動を行い、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜る。737年に流行した疱瘡を収束させた功により泰澄の戒名と大和尚位を賜ったと伝えられる。

この時期600年代後半~700年代、愛宕山麓、嵯峨野周辺では秦氏の活動が活発となる。

●松尾大社 縁起(ホームページ)より
[磐座祭祀] 当社の御祭神「大山咋神」は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇。
[秦氏来住] 五・六世紀の頃、近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている 秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎ開拓。
[秦氏の開拓] [大堰と用水路][酒造神]
[平安京誘引] 時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説。
〔神殿の造営〕 701年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)。

●修験道の開祖に仮託された役小角も山岳修行者の一人だった。平安時代になると最澄が比叡山、空海が高野山を開くなど山岳仏教が隆盛し、密教の験者たちがその験力を得るために山岳修行を行なった。また安倍晴明などの陰陽師で山岳修行をしたものも少なくなかった。こうした験力をおさめた密教の験者たちが修験道を作りあげてゆく。中世期に修験道が全盛期をむかえ、熊野を本拠として、本山派や当山派などの中央の修験をはじめ、羽黒山・彦山・白山・立山など地方の諸山の修験が活発な活動をするようになった(本山は三井寺を後ろ盾としてまとまり、当山派は吉野を拠点とした大和の諸大寺の修験から成る)。白山山麓の永平寺を修行道場とした曹洞宗、身延山の七面山を道場とした日蓮宗、一遍が熊野で啓示を得て開教した時宗など、鎌倉新仏教も山岳信仰や修験道と密接な関係を持っている。

近世期には山岳を拠点として諸国を遊行した修験者や聖たちは村や町に定着して、氏神や小祠小堂の祭や芸能にたずさわったり、加持祈祷などの活動に従事した。その影響は強く、現在でも奥三河の花祭などのように、山村には彼らが残した祭
や芸能が伝えられている。また近世中期以降になると在俗の庶民たちが講をつくって羽黒・富士・白山・立山・木曾御岳・大峯・石鎚・彦山などの山岳にのぼるようになっていった。

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2017年08月31日

試験制度の功罪~あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する

先週の「実現塾」では、市場拡大における先進国の差、違い、構造について学んだ。

日本は先進国の中でもいち早く豊かさを実現したが、一方隣国の中国ははるか四大文明の頃から市場の歴史があるが、未だに豊かさが実現したとは言えない。その理由は中国の科挙制度にあり、科挙制度により官僚機構が腐敗、それどころか国家が腐敗していることにあると。
日本の官僚登用制度も科挙を参考にしており、現在の官僚(試験エリート)の無能さ、暴走を見るに付け、試験制度が社会を腐敗に導くことは誰しも納得のいく事実だろう。

 

今回は「科挙」がどのようなものかを参考に紹介。

「科挙の功罪――あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する」より

 

科挙は6世紀の隋の時代に始祖の文帝によって初めて導入され、1904年の清朝末期に廃止されるまで、1300年以上続いた制度です。優秀な人間を選抜するとともに、皇帝の権力を強化するのが目的でした。

家柄や出自に関係なく、ペーパーテストの成績さえよければ高級官僚として登用するというのは、世界的に見ても画期的なことでした。事実、18世紀くらいまでのヨーロッパでは、高官は貴族の世襲が当たり前でしたから、中国の科挙は非常に優れた制度として紹介されていたようです。

この科挙ですが、最も効果的に機能したのは宋(960年-1279年)の時代だったというのが一般的な評価です。宋に先立つ隋や唐の時代はまだまだ貴族階級の力が強かったのですが、宋代にもなると、彼らの力は衰えます。宋の時代には、科挙の試験に合格することが、高級官僚へのほぼ唯一の道筋となりました。

中国における高級官僚の地位は、現代の日本のキャリア官僚などに比べると比較にならないくらい強大なものでした。古代の中国では伝統的に公金と私財の区別はありません。賄賂も当然のものでした。官僚は、税や付け届けで集めたお金や供物の中から一定額(一説には、集めたお金のたかだか1%以下と言われています)さえ皇帝に上納すれば、あとは私財とすることが可能でした。

時代にもよりますが、今の日本の金銭価値にすると、兆円から数十兆円単位の蓄財をした官僚も数多くいました。百億円程度の蓄財しかしなかった高級官僚が「清廉な人物」とされていたというのですから、あとは推して知るべしでしょう。出自を問わず、ペーパーテストに合格すればこの地位を得られるのですから、優秀な人間が科挙合格を狙ったのも当然と言えます。

とは言え科挙は、宋代までは、実際に優秀な実務者を選ぶ機能を果たしました。科挙の首席合格者が有能な宰相になったという例も少なくありません。南宋の三忠臣の1人とされる文天祥などがその例です。その理由には諸説ありますが、宋の頃まではペーパーテストとはいえ出題範囲も広く、また「志」を育むような文章も勉強しなくてはならなかったという説が有力です。

趣が変わったのは明(1368年-1644年)の時代です。この頃になると朱子学の影響が強くなり、出題範囲は四書五行(論語、孟子、大学、中庸、易経、詩経、書経、礼記、春秋)に限定されます。ひたすらこれを暗記したものが科挙に合格するようになったのです。

では、どのような人間が科挙に合格するかというと、記憶力が良く、親がお金持ちで、子どものころからひたすら科挙合格に時間を使った人間です。時代によって制度も変わるのですが、科挙にはいくつかのステップがあり、概ね30代後半で最終試験に合格するというのが、合格者の一般的なパターンでした。子供のころからカウントすると、30年以上ひたすら科挙合格に向けて頑張った人間が合格するわけです。合格できない人間は、60歳、70歳まで試験を受け続けたとも言われます。一族からの期待があまりに高かったため、期待に応えられずに発狂したり自死を選んだりした人間も多かったと言います。

しかし、ひたすら儒学関連の古典を記憶した人間が実務者として優秀かと言えばそんなことはないのは容易に想像がつきます。実際、明代では、科挙に合格したからといって、実務者としては必ずしも優秀ではない人間が数多くいたようです。

それでも明の政治がそれなりに回った背景としては、そうした官僚の限界を補う一群の存在がありました。それは宦官です。宦官は男性器を切除された皇帝の世話役、補佐役です。日本人の感覚からはなかなか理解しにくい存在であり、中国からさまざまな文化を吸収した日本でも、宦官という制度を取り入れようとしたという話は、筆者は寡聞にして知りません。

宦官は、学(といっても四書五経に限定されたものですが)こそありませんでしたが、世間知に長け、また、科挙合格者にはない度胸や才を持ち合わせていました。中国史に残るトラブルを解決したのが宦官だったという話も多々あります。

宦官と科挙合格の官僚が絶妙のバランスで牽制しあい、難局においては協力したことが、中国の政治を支えたのです。

しかし、科挙の制度は時代を下るにしたがって、どんどん自己目的化し、優秀な人材の輩出という機能を失っていきます。清代になると、古典を知っていることが最高のことであり、実際の政治は俗事として下に見なすようになったとも言われています。しかし、科挙の運営が科挙合格者によって運営されているのですから(名目上は皇帝直轄の試験ではありましたが)、その制度は容易には変わりません。

それでも中国一国で物事が完結しているうちはよかったのですが、19世紀になると、西洋の列強が科学技術なども武器にして中国に攻め入ってくるようになります。1840年のアヘン戦争がそのさきがけです。これには当時の科挙合格者は全く対応できず、宦官も役には立ちませんでした。その結果、19世紀後半、清は欧米列強の軍門に下ることになってしまったのです。

科挙が廃止されたのは、日清戦争に敗れて約10年後の20世紀初頭です。清朝末期の権力者、西太后の決定によるものでした。西太后は歴史上、必ずしも称賛される存在ではありませんが、この意思決定については、評価は高いようです。科挙の廃止を西太后に提案した康有為は、「科挙のない日本にも優秀な人は多い」と言ったとされています。

こうして科挙は1300年超の歴史に幕を下ろしたのです。しかし、その影響は、いまでも日本の大学入試や公務員試験に残っていることは皆さんご存知の通りです。それがいつどのように変わるのかは興味深いところです。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・どんなに効果的な制度であっても、長く続くとそれが自己目的化し、本来の役割を果たせなくなる可能性が高い。その制度で恩恵を受けた人間がそれを監督すれば、その傾向はますます高まる
・権力が集中化するのは危険。パワーバランスをとる何かしらの仕組みやガバナンスが必要
・物事を変えるきっかけとして外圧は有効。しかし本来は、時代遅れのものは、外圧によらず、自発的に変える仕組みが内在化していることが望ましい

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