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2018年1月11日

2018年01月11日

私権社会から本源社会への大転換、その本流は教育革命

◆「仕方なく生きている」子ども達
生きる意欲を失った若者たちが増えている、という話を聞いたのは2015年の暮れだったろうか。
勉強はもちろん、部活にも、仲間づきあいにも意欲が湧かず、何の為に生きているのか分からないまま「仕方なく生きている」子ども達。

かつて1970年代には三無主義の若者が登場した。
貧困の克服~私権獲得を活力源にしていたが、70年の豊かさ実現により根底の私権活力自体が衰弱、生きる課題を失ったからだ。
それまでの時代を牽引し、学生運動も後押ししていた(全てを否定する)近代思想も、豊かさ実現により否定対象を失い、思想自体が輝きを失い、意味を持たなくなった。

 

◆囲い込む母親
しかし、無気力・無関心・無責任の三無主義世代の若者も抗えなかったのは、その頃から急速に増してくる受験戦争による勉強圧力であった。豊かさ実現は、同時に村落共同体の消滅と核家族化への移行を意味する。核家族における家庭の課題はといえば旦那の出世と子どもの成長だけだ。とりわけ母親の生きがいは子どもが全て、子どもの出来不出来が母親の評価を決する。かくして母親の囲い込みから勉強圧力がのしかかり受験熱が過熱していく。この構造は今現在も続いている。

 

◆役に立たない勉強を強いる学校
当然のように学校もまた、試験の点数を取るためだけの勉強を強い、予備校化していく。
明けても暮れてもテスト、テスト、、受験の結果が学校の評価を決するからだ。
お題目の「生きる力」の獲得とは裏腹に、暗記することが勉強となり、思考力は衰弱するばかり。
かくして思考停止の若者が大量生産されていく。当然、実社会では使い物にならない。

 

◆悲鳴をあげる子ども達
豊かさを実現した70年に、すでに私権活力は衰弱に向かっている。

しかし、Q:「いい生活→いい大学」という目標が、子供の勉強意欲に繋がると思いますか?、Q:大学を出れば、安定した生活が送れると思いますか? という世論調査(リンク)に、当然のようにネット調査では9割以上が否定しているのに対し、聞き取り調査では一定数の賛同者がいるように、これは実社会の現実を知らない母親か、母親の刷り込みだろうか。

根底の私権活力は衰弱しているにも拘らず、勉強すればいい生活が待っているという幻想だけを刷り込まれ、やりたくもない勉強を仕方なく続けてきた子ども達。バブルもはじけた90年代には「自分探し」がブームとなり、00年代には「やりたいことが見つからない」若者が増え、とりあえずの安定志向~資格取得がブームになったが、ここにきてついに限界に達し、「仕方なく生きる」子供たちが登場した。
契機となったのは11年の福島原発事故、12年の不正選挙。
お上とエリートによる事実隠ぺい、不正工作は身分序列と学歴信仰に終止符を打つには充分な出来事だった。

 

◆社会の全面的な活力低下
「仕方なく生きている」のは何も子ども達ばかりではない。
さかのぼれば三無主義の世代(今で言う50代)まで、同じような状況かもしれない。
自ら主体的に考えること、追求することをせず、ただ教科書に書いていることを、教師に、親に言われるままに詰め込んできただけである。

かくして、生きる活力もない、自ら考える頭もない人間であふれ、社会は全面的に活力を失った。
このような閉塞状況が真っ先に顕在化するのが若者であり子供たちである。
このままでは社会は滅亡するしかない。
(試験の)強制圧力にしか反応しない思考停止人間、無気力人間を生産する張本人、学校教育を直ちに変革しなければならない。
教育革命待ったなし!

(つづく)

 

 

 

 

 

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2018年01月11日

秦氏は6世紀前半の日本の人口の約5%を占めていた氏族集団?

『遊心逍遙記』「『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文春新書」を編集したもの。

●秦氏とは、山背国を本拠とする秦氏本宗家(族長)を中心に、単一の血族だけではなくゆるやかな氏族連合を形成した集団。そして秦氏は、秦人(朝鮮半島からの移住民)、秦人部・秦部(共に倭人の農民)を包含する。秦氏の本宗家は、中国を祖国とする秦の遺民と称する人々。秦氏については、秦の始皇帝の子孫、弓月の君の渡来説や、朝鮮半島慶尚北道蔚珍郡(海曲県の古名が波旦[ハタ])からの渡来説など諸説ある。

●著者の水谷氏は「中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など朝鮮半島各地の人々も含まれていたもの」と推測し、6世紀前半頃の日本の人口の約5%を占めていたと推論。日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族が秦氏である。山背国を本拠地に、北は下野・上野国から南は豊前・筑後国にまたがる。加藤謙吉氏の調査によれば、34ヵ国89部に及ぶ。
その人口の多さが秦氏の経済力の源泉であり、農業、漁業、鉱業、土木などの技術面に秀で、殖産興業の民という生き方を貫いている集団。

●政治的な局面では秦河勝とその後の数人を除き、意識的に一線を画するという方針をとった。政治と距離を置くことで、当時の最大の氏族規模に増殖し、経済的な側面から隠然たる影響力を持った。秦河勝以外、特定の王族や豪族と密着した関係を築くことなく、中央の政治と距離を置き、経済的な基盤形成に徹した。秦氏は摂津、播磨、豊前、若狭へと増殖し展開してゆき、経済的・実利的にその存続基盤を拡大していった。

●秦氏は最初、大和朝津間・腋上(現在の御所市)に定着し、5世紀後半から末ころに本拠を置くようになる。山背への移住は葛城氏の衰退に伴うことと関係する。賀茂氏(鴨氏)も同様である。
秦氏には様々な系統がある。著者は『日本書紀』雄略天皇15年条にみえる秦酒公(秦造酒)を事実上の初代と推定する。太秦を本拠とした秦氏本宗家である。広隆寺を建てる秦河勝の本拠になる。葛野郡の嵯峨野一帯が重要な居地となる。
一方、山背国紀伊郡深草の地には深草秦氏が居て、秦大津父の伝承の地である。稲荷山を奉斎し、伏見稲荷神社の創立に繋がっていく。

●ここに秦氏が狩猟祭祀から農耕祭祀へと脱却を図った跡が垣間見られる。
系譜の異なる秦氏がそれぞれにその定着地の産土神や土着の信仰を採り入れ、秦氏の奉斎して行った。
上賀茂神社や下鴨神社に秦氏の影響が見られるのは、秦氏と鴨氏の融和を示す。松尾大社も秦氏の奉斎する神社である。

秦氏は地方に定着するにあたり、在来の神祇信仰に接近し、これと融和的な関係を築くことを重視。
秦氏は元からあった在来の神を祭る社と、新しく他の地域の神を勧請するというやり方を併用した。後者には、大陸から持ち伝えてきた神もいた。「韓神(からかみ)」である。
秦氏が関わる神社として取り上げられているのは、松尾大社、賀茂神社、葛野坐月読神社、蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)、伏見稲荷、韓神、園韓神祭、平野神社。

●また、秦大津父は深草から伊勢へ商業活動をしていた。治水のプロ集団でもあり、葛野川の大堰の造成や桂川の大改修を行う。河内国茨田(まんだ)郡(現在の寝屋川市)にいた秦氏は馬を飼育。この地に太秦・秦という地名や太秦高塚古墳がある。上野加代子氏は「秦氏が水上交通の拠点としているところに妙見菩薩信仰が多く分布している」と推論している。

●秦氏は「長岡京・平安京建都の功労者」。長岡京の築かれた乙訓郡が秦物集氏という枝氏の根拠地だった。平安京の造宮職の長官を務めた藤原小黒麻呂が秦氏と姻戚関係にあった。平安京の大内裏(平安京)のあった場所が、もとは秦河勝の邸宅があったところ。桓武天皇が多くの渡来系豪族出身の女性を娶った(ただしそこに秦氏はいない)。桓武天皇の母高野新笠は渡来系豪族の娘であり、桓武朝においては、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だった。

●室町時代には『風姿花伝』で、世阿弥が秦氏を名乗っている。

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