2013年04月27日
「共同体社会における生産と婚姻」~その④ 農村の婚姻はどのようなものか?
富山県 白川郷 画像はこちらサイト名から
「共同体社会における生産と婚姻」を追求するシリーズの4回目です。前回は、日本の農業史を概観しながら、所謂農民の生産者としてのあり様を見てきました。今回は彼ら農民の婚姻様式がどのようなものであったか、探って行きたいと思います。
■村の発生
そもそも農民たちが暮らした環境はどのようなものだったのでしょうか?
近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。
wikipedia
「村落」が登場するのは鎌倉後期(1300年頃)のようで、それまでは村とはいえない小規模な集落が散在していたものと思われます。「集落」は古代より存在していますが、これら集落の中での婚姻は、それぞれの出自に基づく規範があったでしょう。大陸系住民の集落では儒教の規範の通り、父系一対婚、縄文出自の自生集落などでは母系性、又村内婚が主の極めて近親婚的なものでもあったようです。
■農村の婚姻習俗
例えば徳島県(阿波国)の吉野川沿いの麻植郡(おえぐん)川島町では、
昔は聟入婚が普通であった。若連中は、夜になると夜遊びといって若い娘のいる家へ四、五人が連れだって遊びに行く。娘の家では喜んで若連をむかえる。この頃の娘の夜なべ仕事は、糸ひき、粉ひき、ぬいものであった。仕事をしながら雑談にふけるのである。時々白米をもちより、大根、いも、ごぼうなどをかきまぜてすしを作り、食べ競べなどもした。
ここでは、部落ごとの歌合戦がおこなわれた。このときうたう歌が「お姿節」である。当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。
「ヨバイ」から足入の儀式にいたる婚姻習俗は、村人の承認する正常なコースであっこ。「ヨバイ」は、自由の中に若者仲間、娘仲間のおきてが守られ、決して放埓無秩序な交りではなかった。しかし、明治以降聟入婚より嫁入婚へかわるにしたがって、次第に「ヨバイ」は不道徳な行為とみられるようになった。
明治以前の聟入婚、村内婚の時代においては、若者組や娘組の共同監視や自然統制の中において、若い男女は、かなり自由に恋愛結婚をおこなっていたと考えられる。
川島町の婚姻習俗について
だそうです。因みにこの地域は天正17年(1589年)に検地が入ったそうで、それ以前は「自然村」だったようです。
麻植郡の様子 画像はこちらから
同じく徳島県松尾川流域のレポートでは
聟入婚は、古い婚姻形式で、男が女のもとへ通い、婚姻成立祝を嫁方であげ、婚舎もある期間嫁方におくものである。このように、聟入婚とは、嫁方に主体がおかれた、女性上位の婚姻習俗であった。しかし、中世以降男性の権力が強くなり、封建時代の到来によって、完全に男子中心の嫁入婚となった。
松尾川流域の婚姻習俗
松尾川の様子 画像はこちらから
聟(ムコ)入の例は、他にも有り、
調査の結果、最も奇形的な婚姻は富山県の白川郷。この里はむかしから養蚕が主な生活手段で、女による手先仕事が必要となる産業だったため、長男に嫁いだ女のほかは、すべて男の側が「通い婚」(妻問い婚ともいわれる)を行い、子供ができても、女が男性の家庭に入ることはまったくなかった。ために、それぞれの家は大家族で、平均して30人から40人もが同じ家に暮らしていた。1年に120-150貫の繭(まゆ)の生産高で、山桑摘みが20人もいたという。この収穫量は一家で田地を6町歩耕して得られる農家の収入と同等だった。
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だそうです。
嫁入り婚は、男子直系を前提としているので、家督の相続を重んじる貴族階級や武家では行なわれていました。しかし、働き手として女が重視される農村集落では婿入婚が多かったようです。男子直系にする必要がなく(継ぐべき家督が無く)、働き手(女)を重視したからなのでしょう。徳島県にしても富山県にしても「男が女の下へ通う「妻問い婚」であったのは、こうした事情を反映して、働き手を他所の家には出さない、或いは働き手ではない男は「家」に入ることも女を迎えることもままならない、ということではないでしょうか?
婚姻に関しても特に禁忌はなく、村内婚が多いとなれば、相応の秩序と生まれた子どもの扱いさえ決めておけば、後は顔見知りの中で自然と婚姻関係も成立していたものと考えられます。この場合複数の男女関係も有り得たと思われ、母親は自明でも誰が父親かは余り重視しない(と言うか良く分からない)、と言うこともあったのではなかろうかと思います。
更に続けます。先ほどと同じ徳島県のレポートで勝浦川上流域の婚姻習俗として
阿波の婚姻形式で最も古い形であるといわれる掠奪結婚の奇風がとの地でもみられる。古老の話によるとこの風習は明治年代まで続いていたといわれる。掠奪結婚のよび名は、「嫁かつぎ」とか、「嫁かたぎ」とか、また、「嫁さんぬすみ」、とかいわれていた。
男女交際の場は、土用の入り前後のみそ,しょうゆうを作るときの粉ひき場、もみすり場などが盛んに利用されていた。交通の不便なところであるが、それでも峠をこえて、福原、落合、相生、沢谷方面からも若連がやってきたという。
このようにきれいな娘のいる家や村へは自然に若連が集まってきたので、粉ひきも楽であった。そこで、娘のいない家では、近所から娘をやとってきて粉をひいてもらうという状態であった。
若連が集まると麦粉と湯茶がだされるもの普通であるが、もみすりのときなどには、カユかごもく寿司のでることがあった。
勝浦川上流の婚姻習俗
勝浦川調査区域 画像はこちらから
娘の器量がよければ多くの男たちが寄ってきて、仕事が楽になった、とのことです。これなども普段外に出ない娘に近づく為、農作業の手伝いなどの折に娘に近づこうとしているのでしょう。男手が必要な時期が限られていたことも示していると思います。
■まとめ
「共同体社会における生産と婚姻」をテーマに、日本の農業社会の歴史を見ながら探求してきました。稲作を中心とする農業は、支配階級による開墾によって進められ、その後武士階級が所領を開発して進めてきました。藩内の年貢を納める庄屋や組頭、百姓代などは、次第に財を得て領主に倣い家督を継ぐため父系になって行ったのでしょう(或いは庄屋などは大名の家臣の時代から既に父系であったかも知れません)。しかし村の中では、奥に行けば行くほど母系の村内婚、近親婚のような形態であったものと考えられます。
その背景には、農業生産の主な担い手は男ではなく女であり、生産者として重視されたのは女性ではなかったか、という点です。男が必要とされたのは女手だけでは回らない繁忙期や開墾などの力作業などの際だけで、日常の生産は女で十分、むしろ女の方が良く気がついて細やかに配慮しながら手際よくやる、と言うことではなかったかと思います。その結果女は実家に止まり男が婿入するようにしていたのではなかろうかと思います。
一方、領主階級やこれに近い百姓の代表者階級などは、家督(領地、財産、役職など)の相続の為父系の嫁入り婚であったでしょう。なお、紹介した通り、山奥の村でも次第に嫁入り婚になっていった様で、ここには年貢の取立てなどの制度や封建社会の男性優位などが次第に村にも浸透していったものと思います。またその過程では、夜這いなどの風習は放埓無秩序で不道徳であるとして、道徳観念も塗り替えられていった様子が見て取れます。
- posted by saito at : 2013年04月27日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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