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2013年10月31日

日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ シリーズ3-4~性の再生は何故必要なのか?~

いよいよ本シリーズもクライマックスを迎えました。今回と次回の記事でシリーズを完成させていきます。クライマックスのテーマは「性の再生」です。
これまで学んできた認識をもとに、大胆に性の再生の道筋を描いていきます。
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本題に入る前に、そもそも何故このテーマを扱うのか。その問題意識を、実現論やるいネットの「生物・サル・人類」の3つの位相から再度整理しておきます。

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■性の再生は何故必要なのか?
①生物にとって、性は適応の基幹戦略
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進化の源泉はDNAの多様性にある。つまり、同一の自己を複製するのではなく、出来る限り多様な同類他者(非自己)を作り出すことこそ、全ての進化の源泉であり、それこそが適応の基幹戦略である。しかし、同類他者=変異体を作り出すのは極めて危険な営みでもある(∵殆どの変異体は不適応態である)。従って生物は、一方では安定性を保持しつつ、他方では変異を作り出すという極めて困難な課題に直面する。その突破口を開いたのが組み換え系や修復系の酵素(蛋白質)群であり、それを基礎としてより大掛かりな突破口を開いたのが、雌雄分化である。つまり、雌雄分化とは、原理的にはより安定度の高い性(雌)と、より変異度の高い性(雄)への分化(=差異の促進)に他ならない。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=2#03
進化の源泉はDNAの多様性=変異体の創出にあり、一方で、種の保存=継続性はその安定性に起因します。変異と安定がワンセットで「進化の歴史」が形づくられていき、矛盾するふたつの有り様を成立させるその切り札が雌雄分化だったのです。だとすれば、現代に見られる性の衰弱(exセックスレス、中性化、男女同権)は、生物の進化の法則に逆行する「滅亡の構造」そのもの。何としても阻止し、本来の有り様に戻す必要があります。
②サルにとって、性は集団統合の中核
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しかし、原猿も中期以降、一つの画期的な進化を遂げています。それは、それまで原モグラ同様、夫々の縄張りを持ってバラバラに暮らしていたメスたちが、首雄の周りに集まって同居する様に成ったという点です。つまり、オス同士は集団を形成できなかったけれども、首雄とメスは性的引力を下敷きにして、生殖集団(首雄と数匹の雌とその子供たち)を形成した訳です。この生殖集団こそ、サル・人類における集団形成の原基構造です。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=1548
上記構造がサル以前の一般哺乳類と違うのは以下の2点です。

一般哺乳類の場合、それが原猿と同じくオスが単体の場合は庇護依存関係が成立しているのは、メスが子育てをする生殖期間中だけです。それ以外の期間は、メスも外敵に対して対応する能力を持っているが故に、特にオスの庇護を受けているわけではありません。それに対して、ある程度発達した原猿は、オスメスが同居しています。言葉を変えると、生殖期間以外も恒常的な庇護依存関係が成立しています。
また一般哺乳類(同じく単体の場合)は、メス同士はそれぞれオスに生殖期間中の縄張り(安全な生活基盤)を確保してもらう関係ですから、メスはそれぞれの子供を別の場所で育てています。つまりメス同士は別居しています。それに対して原猿はメス同士も同居しています(縄張を共有しています)。つまりメス間の性闘争や縄張確保のためのオス獲得の競争は、ほぼ封印されています。この2点が一般哺乳類と原猿のオスメス関係を巡る、現象的な違いです。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=81625
サルのメスたちが首雄の周りに集まってできたのが史上初の「(生殖)集団」。そしてその集団の中でオスメス役割共認が生まれ、安全な縄張りを共有するためにメス同士の性闘争やオス獲得競争は封印されます。つまり、サル以降、女たちの首雄への収束、女同士の充足関係は、集団統合の中核。だとすれば、性の衰弱は集団の統合力を根底から覆させる史上最大の危機なのです。
③人類にとって、性は集団みんなに開かれた共認充足であり活力源
生物は生き残りをかけて、雌雄分化(差異の促進)という戦略をとりました。進化が進み、原猿となった段階では、集団統合の中核として性が位置づけられていました。では、人類にとって、性はどのような役割を持っていたのでしょうか。
ここでは、現代に生きる私たちの祖先であり、集団にとって性が必要不可欠であった極限時代や縄文時代の人類の様子を見ていきます。

有史以前の人類は、現代人の想像を超える凄まじい生存圧力が生じる環境下に置かれたたました。そこでは、当然のように、強い生存期待が、みんなの最大期待として存在しました。このような過酷な時代を数百万年も生き延びてこられたのは、唯一残された共認機能に全面的に収束し強化することで、自他の不全を同一視し充足・安心感を得、かろうじて極限的な不全感を和らげることができたからなのです。
つまり、人類特有の性は、性行為そのものが他の哺乳類のように本能次元での行為から、共認次元の行為に上昇しているところに起因しているのです。
もう少し具体的に言うと、性の場面は当然ながら相手合ってのことですので、子孫繁栄という本能的なものに加え、共認機能をフルに稼動した相手との同一視から生じる充足感や安心感を得るための行為としての意味が塗り重ねられているのです。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2012/02/001069.html
このように、極限時代では性こそが生存のため(=共認充足を得るための)最大の活力源だったのです。では次に、少し時代を経て、日本の縄文時代と同様に気候風土豊かなタヒチに暮らす人々の様子を見てみます。
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タヒチでは、子供から老人にいたるまで、日常生活の大部分がセックスに関するものであるといわれる。それだけに少年、少女にとってセックスは「お早う」「おやすみ」と同じ意味しかもっていない。つまり、セックスはすでに生活の一部になりきっているのである。
“女は、この島を楽しくするために存在する。” だから短い人生の燃える青春の期間に、できるだけ思い出となる肉体の記録を書きつづる。それにはセックスが最上だ。こうした島のヴァヒネの言葉どおり、情熱を傾け尽くした老女たちは、黙々と子供たちの保育、そして性のテクニックの指導に老後を捧げている。
彼女が体験してきた数々の性についてのこと細かな話が、肉親はいうまでもなく親戚、友人たちを楽しませてくれるからである。セックスは、みずから行うものだけでなく、その話に耳を傾ける人々にも、最大の喜びを与えてくれるのである。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2012/07/001098.html
タヒチの人々において、性は日常の中にあり、子供から老人まで幅広い充足源となっていました。さらに、性の充足は、個人の体験を超えて即座に集団の共認充足となっていたことが伺えます。
以上のように人類にとって、性は集団みんなに開かれた共認充足の中核であり、活力源でした。そこでは、密室化した個別性の高い、現代のような性ではなく、みんなの充足源となりえるようなおおらかで健全な様子が伺えます。性の衰弱は、集団の共認充足の喪失、活力喪失を意味しています。
■まとめ
以上の内容をまとめると、性は、【生物】種の適応戦略→【猿】集団統合の中核→【人類】集団の充足源・活力源と位置づけられてきました。つまり、性の差別化をより推進し性の引力を中核にして、進化をとげてきたと言えるでしょう。男女が互いの性を肯定し、応え合い、感謝することで活力を再生していくような集団形成こそが、性の再生への基盤になっていくのでしょう。
次回は、「日本婚姻史に学ぶ共同体のカタチ」シリーズの最終回です。最後の記事では、性が再生されている「萌芽」を扱います。歴史に学んだ上で、性の可能性をまとめていきます。ご注目ください!

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