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2013年11月10日

東南アジアの「融合・アメーバー文化」は、南方モンゴロイドの特性から来ている

みなさんこんにちは。
東南アジアにおける、南方モンゴロイド的社会とその可能性を探るシリーズ、第5回目です。
第1回から第4回まで、東南アジアを中心とする南方モンゴロイドの特徴について見てきました。
今回からは、視点を変えて、このような南方モンゴロイドで構成された東南アジア地域が世界との関わりの中で、どのような変化を遂げて行ったのかを見て行きたいと思います。
【1】有史以来の東南アジアは、世界貿易の中心地だった。
東南アジアの世界は、欧米の植民地となった後進国というマイナーなイメージが作られています。が、200年前までは世界の最先端の文化を持った世界貿易の中心地でした。
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東南アジアは、世界貿易の中心地であり、最先端の文化を発信していた。
当時の世界貿易センターとしての活躍の情景が、良く分かる文書を紹介します。
【南アジアの経済と歴史】

(前文省略で途中から)・・・・・
歴史を顧みれば、アジアは有史以来、世界の先進地域だったのである。西欧がアジアを経済的に上回ったのはせいぜい19世紀以降のことである。産業革命が18世紀の後半にイギリスで始まり、それがヨーロッパ大陸に波及し世界経済をリードする以前は、アジアこそが世界で最大の輸出商品の供給地域であった。
西欧はアジアの物産を求めて、遠路はるばる航海してきていたのである。しかし、欧米のアジアに対する優越はそれから200年強、20世紀の終わりまで続いた。
・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・
■〔アジアは古代から近世に至るまでどのように世界市場にかかわってきたか〕
アジアは古代から現代に至るまで、植民地時代から20世紀後半の約200年を除いて商品(工業品と 1 次産品)の世界最大の供給基地であった。
陸のシルクロード(主に中国と中央アジア・インド北部とのラクダの隊商による交易)と海のシルクロード(主にインド沿海部と東南アジアと中国との交易)と現在呼ばれている海上ルートによる交易と 2 通りの交易ルートがあったが、中世以降主流になったのは海上ルートであった。

◆(古代:紀元前から10世紀頃まで)
モンスーン(季節風)の卓越風の変化(夏季は南西風、冬は北東風)を利用し帆船で 1 年サイクルの交易をおこなった。その時に積極的な役割を果たしていたのは主にインド商人であった。インド商人(アラブ人、ペルシャ人も存在した)がインド、東南アジア、中国の間を往来し、インド文明(バラモン教=神権王制、仏教、サンスクリット文字、農耕技術など)を東南アジアにもたらした。
主な貿易商品は中国が輸出していたものは絹織物、金属製品、陶器(量的に増えたのは10世紀の南宋以降)であり、インドの輸出品は綿織物、貴金属、宝飾品であり、東南アジアの輸出品は香辛料、香料(香木、乳香)、貴金属などであった。
また、インド商人は東南アジアのマレー半島やビルマのマンダレーまで偏西風にのってやってきて、そこで食料(主に米)と飲料水の補給を行った。マレー半島西側の主な港にいったん陸揚げされた商品は牛車や象にのせてマレー半島を横断し、シャム湾側の港から再度、船にのせてベトナム、中国方面に運ばれた。マレー半島の東側の貿易で大きな役割を果たしていたのはカンボジア人の扶南や後の真臘(クメール)であった。かえり船で中国の商品が逆ルートでインド方面に運ばれた。・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・

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ダウ船(インド海周辺で活躍・小型船で沿岸を航行:写真はウキペディアより)

◆10世紀に入り、中国の宋の時代になると東西貿易の形が一変する。
それは宋が陶磁器(景徳鎮)の大量生産に成功し、輸出が急増したからである。陶磁器は重量が重く、梱包も大きくなるので、マレー半島を横断するルートは次第に使われなくなり、中国商人がマラッカ海峡まで大型船で直接進出する。
そのため、スマトラ島におけるパレンバンやジャンビ、後に14世紀終わりごろからマラッカが貿易の主要な中継点になる。同時にインドシナ半島の中継機能は次第に低下し、クメール帝国も没落を余儀なくされてくる。
元、明朝時代に陶磁器貿易はいっそう盛んになる。
当時のヨーロッパはイスラム商人(オスマン・トルコ)経由でアジアの商品(香辛料、綿織物など)を買っていた。地中海貿易によってイタリーのベネツィアなどは大いに栄えた。
また、この時期になるとインド、アラブ商人がイスラム教をもたらした。1400年前後にはマラッカ王国が成立し、一大貿易拠点となった。マラッカ王国はイスラム教を受け入れた。インド商人のもたらす綿織物が東南アジア最大の人気商品となり、インドネシアも港湾都市の商人はイスラム教に改宗するものが増えていった。
当時の貿易商品はいっそう豊富になり、東南アジアでは胡椒のほかモルッカ諸島の香辛料(丁子、ニクズク、メース)が目玉商品としてヨーロッパにもたらされた。中国からの輸出品は陶磁器が主流となり、インドは綿織物が主な輸出品となった。

 
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ジャンク船(中国中心に東南アジア周辺で活躍・大航海が可能)

上記から、『有史以来、東南アジアは世界貿易の中心地だった』ことが、良く分かります。
時代毎にその対象エリア(世界の先進地域)を広げながら、その貿易ルート(海の道)を開拓して港市国家を作り、世界貿易の中心地であり続ました。
大きく見ると次の3つの宗教伝来と、その対象エリアの拡大に整理できます。
①仏教伝来時     【中国】⇔【東南アジア】⇔【インド】
②イスラム教伝来時 【中国】⇔【東南アジア】⇔【インド・イスラム】
③キリスト教伝来時  【中国】⇔【東南アジア】⇔【インド・イスラム】⇔【欧州】
上記のように、
①インド商人(仏教)~中国商人(儒教)、②イスラム商人(イスラム教)、 ③欧州人(キリスト教)
と、多くの人種と宗教が東南アジアに訪れています。
このように、多彩な人種と宗教の波に晒されながらも、世界貿易の中心地であり続けられたのは何故でしょうか?
【2】東南アジアの「融合・アメーバー文化」は、南方モンゴロイドの特性
東南アジアは、外部勢力に対して正面からぶつからずに、アメーバーのように包み込み、自らも変化・融合することで、良好な関係を築き続けてきたようです。
その文化性が、多彩・多様な人種と世界貿易を継続できて来た基盤でしょう。
その事例となる、インドネシアの重層宗教文化の記事を紹介します。
インドネシア専科>F-10章 インドネシア人の信仰心>695.重層信仰

世界の宗教勢力図から見るとインドネシアの地はヒンドゥー教、仏教、イスラム教、キリスト教という世界で名だたる宗教が拮抗してきた最前線である。
インドネシアの宗教はイスラム教が90%弱、キリスト教が10%弱、残りわずかをヒンドゥー教とその他という勢力図であり、人口から見る限りイスラム教国である。しかしインドネシア人、特にジャワ人のイスラム教は一般に知られている中東のイスラム教とは様相を異にしている。
宗教の様相がインドネシア独特である所以はシンクレティズムあるいは重層信仰といわれるように、イスラム教であってもイスラム以外の宗教要素を内在していることである。
特にアニミズム(次項)的傾向はインドネシアすべての民族に共通する性向である。このような民族をこえる共通の感情があって初めてインドネシア人としての連帯に昇華したといえよう。
即ち典型的なジャワ人の場合、そもそもアニミズム信仰のところへ仏教とヒンドゥー教がやってきた。さらにイスラム教がやってきて、現在はイスラム教が支配している。しかしその宗教的態度は古い宗教を完全に捨てることなく次々と新しい宗教を受け入れた。
歴史的には仏教⇒ヒンドゥー教⇒イスラム教と入れ替ってきたが、実態は入れ替わりというよりも累積である。イスラム教のようないわゆる表向きの登録上の宗教は上着のようなものである。上着の下にインドネシア人の別の宗教が隠されている。あるいはカステラケーキの上に塗られたチョコレートにも例えられる。このような傾向はジャワ人において顕著であり、このような信仰のあり方は“重層信仰”といわれる。
このため一見イスラム教に見えても他の宗教が矛盾することなく同一人物の中に存在している。このような宗教的態度は日本人の神教と仏教の神仏習合関係と似ており、風土に由来する要因もあろう。

 

さらに、「融合・アメーバー文化」の事例として、
インドネシア:男性社会文化のイスラム教だが、南方モンゴロイド(母系)文化を残して、女性の社会進出がさかん。
フィリピン:キリスト教だがマリア信仰が強く、これは、元からあった土着の地母神信仰〔母系社会文化)をキリスト教が吸収して生まれた。
個人主義のキリスト教なのに、家族主義の連帯感が非常に強い。
東南アジア文化には、母系が変形した双系文化が色濃く残り、大家族が強く残っています。そして、女性の社会進出が非常に盛ん(と言うよりも、社会は女性が支えている?)で、優秀な女性が上司であるなどと言うケースも多い。
「南方モンゴロイド文化」である母系が変形した双系文化が継承されているので、2001年,東南アジアで二人の女性大統領、フィリピンのアロヨ大統領と,インドネシアのメガワティ大統が誕生したのでしょう。
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アロヨ大統領    メガワティ大統領
タイ国は華人をも融合
近年では流入済みの華人のタイ国への同化は急速に進み、外国に移住しないくなった。
華人は地場投資を積極的に推進し、旅館、レストラン等に地場投資した。タイは華人の資本で全国的にインフラ整備が進展し、企業誘致に貢献した。
「融合・アメーバー文化」つまり、外部勢力に対して正面からぶつからずに、アメーバーのように包み込み、自らも変化・融合することで、良好な関係を築き続けてきた東南アジアの文化は、どこから来たのでしょうか?
それは、
東南アジア文化圏=南方モンゴロイドの共通する
①母系性の文化より、侵略・皆殺しではなく、 ②多神教、精霊信仰を残存しながら受け入れる文化圏である。
受け入れて、自らアメーバーのように変化・融合する「融合・アメーバー文化」⇒重層宗教 ⇒多宗教エリア ⇒多国籍文化 ⇒多彩な国家システム

つまり、その「融合・アメーバー文化」特性を生かせて、
東南アジアは、多数の民族が住み、様々な宗教が存在し、いろいろな形態で国家運営をしているという多様性に富んだ東南アジア文化圏が存続しているのだと思います。
この特色は、そのまま日本の特色と言ってもよい感じがします。
つまり、南方モンゴロイド文化圏に、日本も含まれるのだと思います。

次回は、東南アジアが、南方モンゴロイドの特性である「融合・アメーバー文化」から、欧米の侵略以降どのように適応してきたのか、更に深く追求していきたいと思います。ご期待ください。

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