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2014年01月09日

家族って何? シリーズ4.江戸時代~市場化の波に対し、村落共同体を守る民衆~

こんにちは!
本年も宜しくお願い致します。
シリーズで追求しています「家族って何?」 今回はシリーズ4です。
江戸時代、農村では家屋ごとに分かれて暮らしているものの、人々が帰属しているのはムラであった。現代的に言うなら「ムラが家族(かつ職場)」であるという事。性関係も開放的で、父親が特定できないという意味で母系を継続していました。
商家も、家業の信用継承の必要から血縁の母系家族であったが、これらに対し、武家のみが「血縁の父子関係」を基本とした家族であった。
前回記事では以上のような内容を検証してきました。
シリーズ3.江戸時代~武家だけが血縁父子相続であった~
江戸時代においては貨幣経済が飛躍的に発展し、町民文化も栄えましたが、このような変化が農村にどのような影響を及ぼしたのか、村落共同体の運営に支障をきたすことは無かったのか、今回はこのあたりを検証してみたいと思います。

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◆江戸の貨幣経済
徳川幕府は、幕藩体制の財政基盤として徹底した米本位制度を実施しました。いわゆる石高制です。石高制の下では、藩の規模から武士の給与に至るまで、全てが米の生産能力で表され、これに基づいて年貢が課税されました。そこから必然的に、各領主は自家消費分を除いた米を販売し、その代金であらゆる物を購入することとなりました。それが市場の形成を促し、貨幣経済を発達させたと言えます。同時に流通網も発達しています。
貞享5年(1688年)に書かれた井原西鶴の『日本永代蔵』によると、北浜の淀屋米市では「一刻の間に、五万貰」(2時間に125万石の取り引き)があったとされ、誇張はあるにせよ相当量の商いがあったとみられます。市場では,、信用取引、先物取引が成立していました。幕府は、しばしば大坂の米市を統制下に置こうとしたが、自由な商売の流れを止めることは出来なかったようです。
江戸時代は、全体を通して米本位経済と貨幣経済が並立していたと言えますが、その中でも時代が下るにつれて、より自由な貨幣経済の比率が増していくようになります。領主米の販売のみならず、農民も余剰生産物が増えて、換金能力が増していきました。貨幣の流通量が増えると、信用経済も発達し、手形決済も日常的に行われるようになりました。
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画像はコチラからお借りしました。
◆農間稼ぎ
江戸時代は階級社会で、農民は貧しかった、暗黒社会であった、とのイメージを植え付けられていますが、それは明治政府が市場社会を正当化するために捏造されたものでした。実際には文化も産業も交易も発達した優れた市民社会が形成されており、最近では多くの人から、むしろ江戸社会を見直すべきとの論調が増えています。
農民の年貢はたしかに重税ではあったが、江戸中期くらいになると、農村にも貨幣経済が浸透してゆき、農間稼ぎという本業以外の副業が盛んに行われるようになりました。農間余業、農間渡世とも言われるもので、農村で耕作の合間に手間稼ぎや商売を行うことを指します。当時の百姓は原則として商売を禁じられていましたが、農間の手仕事や商工業は認められており、事実上、商売が主で農業が従であることも多かったようです。また、余業・余稼に走ったのは自作農や小作農に限ったことではなく、地主層も質屋・酒造・醤油造・太物(木綿織物類)商などを経営しており、目端の利く百姓であろうがなかろうが余業・余稼をやっていました。
農間稼ぎが盛んに行われるようになった背景には、当時の藩財政の安定化のために藩の指導により商品作物や特産物の生産を奨励したことがあります。加えて、重い年貢に対し、副業収入には殆ど無税といってもいい程度の課税であったことがあげられます。
例えば、長洲藩の場合(リンク
>農民の生活水準は、『且且渡世』というわけでは必ずしもなかった。
三田尻宰判の非農産業所得はやや農業所得を上回る、まさしく五分五分。
加調米・出稼ぎを考慮すると46:54。
年貢は著しく重農主義的で、田畠石盛の4割という重税であった。
しかし産業所得が5400貫余もあったうえに、産業活動への課税は薄税であったから、
家計収支は相償うどころか、実に大幅な黒字になっていたのである。
可処分所得に対する消費支出の割合は67%、また所得合計に対する税率は24%で、
今日と大差なく、むしろやや低い(!)

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画像はコチラからお借りしました。
◆江戸への羨望、都市幻想
このような状況において、農村では副業が栄え、農民が直接現金収入を得ることが出来るようになり、次第に市場経済に呑み込まれていくことになりました。その結果、農村では貧富の差が顕著に現れ始めました。また、市場の発達した都市への羨望、そこから都市への流出などが見られるようになります。貨幣経済の浸透により、村落共同体の危機が顕在化してきたわけです。
「江戸時代研究の休み時間」(リンク) に以下のような記事があります。
>なかんずく江戸者をうらやむ人多し、さりながら江戸の事を知らぬ故なり、おかしななはなしなれども、江戸町抔にては不如意なるものは女房・娘を人の囲者に出し、又は酒の酌抔となづけ銭次第・金次第にて自由に成るとかや、其いやしき事恥しき事どもなり、在郷もの・田舎ものと百姓の事をいやしみいへども、田舎などの人々は、女房・娘をたとえ小判を山に積むとも、人の慰みものなどには何ほど貧乏するとも左様の事は決てなし、<
むらに江戸者をうらやむ傾向があることに対し、休意は江戸を拝金主義の蔓延る土地と指摘して、むらのひとに注意を促しています。「江戸のひとは不如意になると、すぐ女房・娘を囲者に出してしまうが、田舎の人は小判を山に積まれてもそんなことはしない」といい、江戸への羨望は幻想であると主張します。
江戸時代後期はむらから都市へとひとが流れ出ることの多かった時期です。それを阻止しようとしたむらの名主の立場からの発言です。

◆幕府、領主の対応
農業生産を経済の基礎とし、そこから年貢を取り立てることによって成り立つ幕藩体制の仕組みは、天保期頃に本格的な行き詰まりを示しました。江戸時代には、何度も奢侈禁止令が出され、幕府は庶民の贅沢を禁止していました。
藩財政の困窮もさることながら、小作人層が商業もふくめた幅広い余業を本業より重視するようになると、封建農村の基盤は崩れることになるから、幕府および藩としては放置しておく訳にはいかなくなります。
安永六年(一七七七)のお触では、専業にたいして「余業」というとらえ方をはじめておこない、百姓の専業は農業であり、「奉公人」、「商向」は余業であると規定し、余業に利益を求めて「走る」百姓を、本業を「取失」った農民としてきびしく批判し、「一途」に農業に精を出すよう命じました。
◆共同体社会を守る民衆運動
貨幣経済の発展、商工業など資本主義的な生産の発展など、社会・経済構造の変化は幕藩体制の危機であったと同時に、村落共同体の危機でもありました。
幕末にかけ飢饉や地震などの災害が多発したことが契機となり、民衆の危機感が顕在化します。「民衆宗教」や「ええじゃないか」などがその顕著な事例です。如来教、天理教、金光教などの民衆宗教は、教義を絶対としたかつての現実離れした宗教ではなく、自分たちの心構えや生活を律することで現実社会を実現しようとする農民の生の声であり、まさに共同体崩壊の危機感から発した農民の世直し期待でありました。
市場化の波によって失われつつある共認充足と秩序の再生こそが農民の願いであり、共同体の維持・存続こそが農民にとって何よりも大切なものであったのです。市場化は、消費主体を拡大すべく、とことん集団を解体するベクトルに向かう構造にありますが、農民自身に市場経済の大きな波が押し寄せながらも、共同体解体の危機に自ら気付き、自らの集団を守るべく立ち上がったことは、世界的に見ても例がなかった事ではないでしょうか。
ところが、このような集団第一の強い収束力も、明治の家制度の導入~近代化政策によりついに引き裂かれてしまいます。
次回は、いよいよ明治時代へと進みます。

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