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2014年02月18日

再読 日本婚姻史 「縄文から弥生への婚姻様式の変化」

みなさんこんにちは 😀
再読 日本婚姻史 第4回です。
前回記事までは「縄文時代の婚姻様式」について扱ってきました。今回記事からは、「弥生時代の婚姻様式」についてまとめたいと思います。
sannaimaruyama-takayukasoko.jpg
渡来人(呉人)がもたらした高床倉庫(三内丸山遺跡)

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渡来人の到来

縄文時代から弥生時代への変化は、渡来人の到来によってもたらされます。
現在、渡来人の到来は、縄文後期から弥生にかけて概ね3~4波にわたって行われたと考えられています。これら渡来人はいずれも大陸での戦乱から逃れて、日本に渡来してきます。
以下、日本人の源流を探してより引用

<第一波>

縄文時代晩期、逼塞状態にあったこの日本列島に、朝鮮南部から水田稲作農耕技術が伝播した。その最初期の農耕技術をもたらしたのは実は縄文人自身だったという見方があるが、朝鮮半島南部や、もっと遡れば山東半島・遼東半島などからの渡来人が、農耕技術の伝播・実地指導に関わったことは確実である。それは石製の農具などの伝播ルートで確認される。ただし、この菜畑曲り田段階の渡来は、唐津平野や糸島平野という比較的狭い範囲に、数百人の規模であったとされる。


<第二波>
次の渡来の波は約200年後、板付遺跡を初めとする福岡平野への渡来である。この渡来も環壕集落というような新しい概念を伴い、かつ松菊里型竪穴住居という朝鮮の土着技術を持ち込んでいることから、朝鮮半島南部からということがほぼ確実であるが、規模はかなり大きく福岡平野から北部九州を埋め尽くした。そして、彼等渡来人の無文土器技術を基に作られた初期の弥生土器、板付Ⅰ,Ⅱ式土器は、一般的には遠賀川式土器と総称されて、西日本各地へ稲作と共に伝播した。

<第三波>
その後おそらく2、300年の間に、次の、長江中・下流域ないし江南地方からの直接の渡来があったと考えられる。それを端的に現すものが高床倉庫すなわち高床の穀倉である。その渡来の影響がいかに大きいものであったかは、伊勢神宮の神殿が高床倉庫の形をそのままに、今に伝えていることからも推測できる。

<第四波>
次の渡来の大きな波は、弥生前期末2,400~2,500年前、朝鮮半島北部から中国東北部の青銅器文化の影響を受けた人々の渡来である。彼等は、中国東北部の東胡(のちの鮮卑、烏丸)の侵入を受け朝鮮半島で武力闘争が激化する中、戦禍を逃れてきた人々でありその集団の規模はそれまでの渡来人の規模と比べ、かなり大きかったと言われている。


婚姻様式の変化

これら渡来人が到来する中で、縄文社会の社会構造は変化していきますが、その中で社会の基底部とも言える婚姻様式にも変化が生じます。
先回記事で再読したように、縄文時代は単一集団内での族内婚としての兄妹総偶婚が中心でしたが、集団密度が高い地域や時代では、族外婚としての交叉総偶婚が広がっていました。(二群・三群と言った複数集団での婚姻を行ったヒロバをクナドと呼ぶことから、クナド婚とも言います)
そして、同じく先回記事で再読したように、日本の交叉総偶婚(クナド婚)は、実母子間の禁婚のみが顕著で、それ以外は父系(父・娘)や兄妹の交わりも許された、特殊な全員婚であると言うのが特徴でした。すなわち、集団内で分け隔てなく交わる族内婚の全員婚形態を、そのまま族外に持ち込んだ婚姻様式であったと言えます。
このような族内婚と族外婚が並行して行われていた縄文時代の婚姻様式は、大陸からの渡来人、特に第三波、中国南部の呉から渡来してきた呉人によって、大きな変化がもたらされます。
以下、るいネット投稿「縄文から弥生への婚姻様式の変化~共認風土に取り込まれていく渡来人」より引用

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの呉人と思われる。社会(集団と集団の関係世界)の基礎部には、婚姻制度=男女の有り様が存在する。上記渡来人による婚姻制度の変化が、高群逸枝氏の「日本婚姻史」からも読み取れる。



(中略)



~「日本婚姻史」高群逸枝より~

>しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落体から部族連合体への道が開け始めた。
~中略~

>なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

~ここまで~



ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

対偶婚と言うのは、複数の兄弟姉妹集団間の集団婚のことを言います。
つまり、分け隔てなく交わる(ある意味でルーズな)全員婚であった、縄文時代のクナド婚に、複数の兄弟姉妹間で交わる(=クナド婚で行われていた父娘、兄妹間での婚姻は禁止する)と言う婚姻規範=関係制限が渡来人によって持ち込まれたと言うことになります。そして、時代が進み、集団を前提とした集団婚であった婚姻制度が、個別の関係である婚姻制度へと変化します。それが男が女の部落に通う「妻問婚」の始まりです。
このように、渡来人によって新たな婚姻規範=関係制限(婚姻相手が限定されていく)がもたらされたのが、縄文時代から弥生時代への婚姻制度の変化を考える上での重要ポイントとなりますが、一方で、縄文時代を通して形成された全員婚の充足規範は強く残り続けたと言う実態もあるようです。
以下、同るいネット投稿より引用

ただし、これはあくまでも表向きで、実態の性関係はクナドが根強く残り続けていくようだ。



~「日本婚姻史」高群逸枝より~

>クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

~ここまで~



このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

まとめ

以上、今回は縄文時代から弥生時代にかけての婚姻様式の変化を見てきましたが、その変化とは、「縄文時代の全員婚に、渡来人によって婚姻規範=婚姻関係の制限が段階的に持ち込まれた」ために生じ、「全員婚→対偶婚→妻問婚=集団婚→個別婚」へと変化して行ったとまとめることが出来ます。
渡来人の到来により、このような婚姻様式の変化が生じたことが弥生時代を考える上での重要ポイントと言えますが、一方で「縄文以来の群婚原理=全員婚の充足原理は残り続け、「夜這婚」として明治~昭和初期まで存在していた」ことも見逃せない重要ポイントと言えそうです。
さて、次回は弥生時代の婚姻様式の変化の「その後」を見ていきたいと思います。
お楽しみに 😈

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