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2015年10月08日

共同体規範の解体過程

日本民族の精神的土台として共同体規範があるのは間違いないだろう。
しかし、市場経済の浸透により共同体が解体され同時に共同体規範もその場を失ってしまい、共同体に取って代わった市場経済も行き詰まりを見せ、現在は社会規範が有効に働かないきわめて危険な状態である。市場経済が行き詰ったにもかかわらず、それを牽引してきた法律や制度のみが幅を利かしており、社会規範が有効に働く空間が無い状態で個々人のモラルのみが頼み綱として問われる状況である。
果たしてこの先、共同体規範の再生、社会規範の形成はどのように実現可能なのだろうか。

「思想と空想の狭間で」を読んで、そんなことを思ってみた。

◆共同体規範の形成
かつての「農村共同体」のように、代々受け継がれていく田畑を住民達がお互い協働しながら維持していくような地縁・血縁的共同体では、生活の中での住民の共通認識や共通の利害が個人の中での多くを占める。個人の「自己意識」は近代の産物であり、それ以前の自己意識とは「共同体意識」と区別されるものではなかった。

そうした共同体の内部では、住民同士の衝突や軋轢は共同体全体の利益や秩序を損なうものとして、強く抑制される。他人を傷つけること、他人の財産(田畑)を荒らすことは共同体全体の損失であり、そういった行為は強く戒められなければならない。
そうした中から「共同体的規範=道徳律」が生まれ、犯罪的な行為はもちろん、「モラル(規律)」や「マナー(礼儀)」などについても、強く個人の行動を規制する力を持つようになる。この共同体的規範を犯すことは共同体全体の規律への違反でもあり、共同体全員からの強い注意や非難を受けることになる。共同体的規範はこのようにして、共同体の内部の個人に対し、その行動を律する強制力を発揮する。

◆市場経済による共同体解体
市場経済の浸透と商品交換は、互酬性に支配される共同体を解体する。土地と労働力は商品化され、商品交換のシステムに乗せられる。農民もまた土地から切り離されて労働者となり、その労働力もまた商品交換のシステムに組み込まれていく。
やがて(共同体内部で存在した)個人的な付き合いから「おまけ」「値引き」(互酬性交換)を行なってきた商店が消え、スーパーやコンビニへと姿を変える。農地もまた個別の土地の生産性が評価されることになり、「協働」から労働力の「雇用」へ、そして生産効率の向上のための「機械化」へと向かう。

そうして共同体は解体され、やがて「地域社会」と呼ばれるようになる。
この「地域社会」は、共同体とは違った顔を見せることになる。
土地と切り離された労働者は、労働力の「買い手」を求めて移り住む。それはまた仕事の場と生活の場が切り離されることでもあり、職場に応じて生活の場もまた流動化することになる。「地域社会」の住民は住居と離れた場所で働き、仕事の上でも生活の中でも、地域社会と利害が一致することは少なくなる。

同じように「血縁」による共同体もまた、解体を余儀なくされる。「血縁共同体」も親・祖先から子・子孫へと引き継がれる互酬(贈与)によって保たれてきた。もちろん今でも「親−子」という血縁関係は存続し、その中での互酬性交換は存在しうるが、共同体としての認識、利害を共有することは難しくなってくる。相続される土地や財産があったとしても、それらの土地・財産はすでに市場での売買が可能な「商品」として、でしかない。ここでもまた子は親の職業・居住地を「守るべきもの」として受け継ぐことは少なく、子もまた個人的な希望と条件によって職業や居住地を選択するのである。

流動化する労働者は「地縁的共同体」から切り離され、また「血縁的共同体」からも切り離される。 そのような中で、「共同体的規範」もまた無力化せざるを得ない。共同体的規範が個人に対して強制力を持つのは、その規範からの逸脱が互酬性交換の拒絶や排除(村八分など)によって、自らの生活への直接的な打撃となって返ってくるからである。共同体が解体された「地域社会」では、互酬性交換の関係が支配的なものとはなり得ず、規範の逸脱が自らへの打撃となって返ってくることが少なくなってしまうのである。
このようにして、個人の認識として共同体的規範を守らなければならない必然性が薄れるばかりか、個人に規範を守らせようとする力を持った「共同体」自体も解体されてしまっているため、規範自体が無力化されてしまう。

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