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2015年10月15日

父系婚への転換は武士の登場によるもの?

家族って何? シリーズ3.江戸時代~武家だけが血縁父子相続であった~
>日本の江戸時代の家族?は、農村は村単位、商家は母系単位、その中で性はオープンで血縁の父子関係にこだわらないという共通の特徴があります。一方、武家は、これらとは異なり、血縁の父子相続を基本とする「家」を重視してこれに帰属し、嫁取りによってこれを存続させています。

日本の支配者層の婚姻形態は古くは妻問い婚、婿取り婚といった母系婚でしたが、先の投稿に見るように、武士の時代に父系婚に転換していますが、それは何時頃からなのでしょうか、また何を契機に変化したのでしょうか?
「日本の結婚形態の移り変わり」 よりまとめてみました。

◆平安時代〜招婿婚という形態
「妻問い婚」、「婿取り婚」という言葉は、時代時々の代表的な婚姻語の名称である。その二つをあわせて総称を「婿取り式婚」「招婿婚」と呼ぶ。
「妻問い婚」の「妻問い」、『婿取り婚』の『婿取り」という言葉がはじめて使われたのはいつだったのか?
まず『妻問」のほうは、古代の「風土記」などから「万葉集」まで使われ、「婿取り」のほうは、平安時代の「源氏物語」などから鎌倉時代初期の「愚管抄」など多くの文献に見られ、鎌倉時代中期ごろには少し衰えを見せたが、それに似た語が多く南北朝時代ころまで続いた。

招婿婚をまとめると、それは形態的には男子が女子の族または、家に招かれて、通ったりすんだりする婚姻生活で、機能的には、その婚姻生活によって、女子の族または家に子女を生むこと、すなわちその族または、家の成員を増やすことが、招婿婚の主たる要件であるということができる。そのことから見てもわかるように招婿婚、その本質は純粋な意味においてその起源は、女性中心なことから母系婚であることがわかる。妻問いした男を女の妻方の生活体に組み入れようとする意思があったことで生まれた、婿取りをあわせて呼ぶものである。

◆嫁取り婚への変化
嫁取りへと変わっていくはじめの起こりとは。めとりであるといえる。
「めとり」とは男が暴力で女を捕らえることである。藤沢衛彦氏の「めとり」説は、婦女略奪であるとされている。漢字で書くと「女捕り」だとしている。女を捕まえる、もっともである。めとりは主に、道路上で行われていたため「辻とり」とも呼ばれている。「めとり」「辻捕り」は各層関係なく行われたとされる。その行為が多く行われたため、刑罰が間に合わず、行為が横行して止めるに止められない状態なった。そのために「女は捕られても仕方が無い」と人々は思うようになった。そういえることが「お伽草子」にある。「ものぐさ太郎がある年長夫で都にでて、任終わりの帰国のときに、都のお土産に妻を得たいと、宿の主人に相談すると、その主人は「そうしたければ辻捕りをしなさい。」とものぐさ太郎に教えている。このことからもわかるように「めとり」「辻捕り」は罪の意識無く人々に浸透していたことがわかる。ものぐさ太郎のような一般的な庶民が女を(妻)を欲しがるのは当たり前のことだろうが、それが思うようにいかないからといって女を物のように見てそれを得ようとするのはおかしいことだ。このように女を得ようとする男が多いとそこに目をつけてそれを商売にしようと考え実際に「女売り」(女を辻捕りして売る)をする人々があらわれた。女を欲しがる男は、罪の意識はあったかどうかは、知らないが、彼らを「商人」とみたてて女を買った。これは女性をものとしてみている証拠である。この男たちの意識が略奪婚という形になり、それを多少正当化して成り立ったのが「嫁取り婚」の始まりだと考えることができる。

嫁取り婚への変化の時期の女の財産はどうだったのか。
以前の氏族制では女の財産と、男の財産の違いは無く、財産共有の権利をもっていた。鎌倉時代、南北朝時代のころまではこの制度であった。
どうして変わったのか、それは以前は女の身柄は女の族を離れることは無かったのだが、夫の家に迎え入れられる立場になると男の側からして不都合なことがあったからだ。鎌倉幕府も「貞永式目」で、女の財産に対し制約するような規定を作った。例えば、罪人の妻に対する財産の没収の規定である。しかし妻の財産は夫の財産と別のところ(家領圏)に属していることが多かったために幕府は財産を没収することが困難であった。そこに財産が残れば、その族がまた力をつけることにもなりかねないのだ。女の財産は、族の共有であった。女の財産には、後ろ盾があったので回収が難しかったのである。そこで幕府は、家人や公家らと結婚した女には財産を与えないということにし、女の財産を縮小していった。こうして女の財産権というものは、南北朝時代頃から急速に衰えていった。父権と並んで力を持っていた母権は財産権を失うことできえていった。こうなると出てくるのはもちろん父権である。ここで家族制になり、親権は家父長権に変わった。以前男がそれに近い状態だった、相手の財産の依存者になったのだ。ここに女は男の後ろになった。この背景があって婿取り(女優位)から嫁取り(男優位)に変わっていった。

◆室町時代〜嫁取り婚という形態
嫁取婚の時期とは、大まかに言って室町時代以後から昭和時代の日本国憲法が成立した1947年ごろとされている。
嫁取婚とは何だろうか。嫁取婚の始まりとはいつごろであったのか。またどのようにして定着していったのだろうか。
嫁取婚が現れたのは婿取婚の終滅の反面である。嫁取婚の遠い前兆といえるのは,母系の族の中の父系観念のあらわれがそれといえる。嫁取婚の形になるまでには、その前の形成段階があった。その形成段階といえるのが(由来)略奪婚、召上婚,進上婚であるといえる。
そして嫁取婚の最も重要な意味とは、「子を産むこと」である。

それを一番必要としたのは、当時力を伸ばし始めていた武家層である。
ではなぜ武家層は嫁取りを必要としたのか?
武家が自分の一族を残していくには「家」が一番大切であった。財産を相続するものがいなければ、「家」は消滅する、残らない。そこで一番必要となったのは「相続人=子」である。しかし男はいくらがんばっても子を生むことができない。そこで必然的に女にたどり着く。女は子を産むことができる。というよりは、子を産むものだ。女性が必要である。武家たちにとって女は必要なものになった。でも人間として大切だったのかといえばそうともいえない。中国の儒家の言葉に「子なきは去る」という言葉があるように、当時の女性は,「相続人を産む」これが存在の意味であり、子を産むことのできないものは「機能を果たさない無意味なもの」とみなされた。いくら嫁に行っても子ができなければ、自分の意思はまったく関係なく家を追い出されたのだ。平安時代はそのようなことは無かった。財産でたとえても、男女にそれぞれあり、女は、男に関係なく自分の意思で子に相続させることができていた。しかしこの時代は家父長(男)がすべての権限を握り、女子供は無財産が当たり前で、夫の被扶養者という立場になり、すべて夫に頼るしかなくなった。
そうなってくると当たり前に家父長が自分の純系の子供を相続人として財産を相続させる。そこで男の「家」が確立されるのであった。こうして確立された「家」で必要とされた結婚形態が言うまでも無く「嫁取り婚」なのである。

※略奪婚はどのように発生したのか?
父子相続のために武家としては嫁取り婚が必要であったのは理解できるが、その始まりが略奪であったとは驚きである。妻問いから一転して略奪に至るには、武士階級の登場を抜きには考えられないが、引き続きその詳細を追いかけてみたい。

 

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