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2015年11月12日

掠奪婚は男の嫉妬発?

大らかな母系婚姻制は武家社会~明治維新を通じて衰退
>鎌倉時代に入り武家が政治の実権を掌握し、東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上してきたとあるが、武士階級にどのように定着していったのだろうか、もともとの疑問は武士による略奪婚が父系婚の始まりという点である。

略奪婚について調べてみたところ、「女性史研究」第21集(編集・家族史研究会)に記事があった。

掠奪婚というのは、その名のとおり女を掠奪して結婚することである。中山太郎はその『日本婚姻史』(一九二八年刊)で、掠奪婚の例として、当時各地に残っていた「嫁かつぎ」、「嫁かたげ」、「かつぎだし」、「思い立ち」、「どら」など呼び名は違うが、「嫁盗み」のことを説明している。これらの例は、相手の女の意志とは無関係に盗みだしてくるもの、あらかじめ女と共謀して行なうものなどであるが、多くはそれなりのその土地のルールがあり、周囲もそれを認めているというものであった。

 中山太郎は、掠奪婚は古くからあり、それが形をかえて残っているとしている。掠奪の理由については「共同婚及び団体婚にあっては…..男子の妻は部落の共有であり個別の結婚は許されてゐぬ…..かかる自然に背き倫常に反した婚姻がさう永久に持続される筈がないと同時に…..男子の嫉妬は何時までも此の婚制に忍従することができなくなってきて、個別的婚姻に入るべき工夫が案出された。それがここに言うところの掠奪婚である」など個別の婚姻に入る前段の男の嫉妬がその原因と前置きし、更に続けてその発生について解説を紹介している。

(1) 女子不足を補うために他部落から掠奪した(食物をとる時の困難または足手まとい、その他の理由で女を殺したので)。
(2) トーテム信仰から族内婚が禁止されていたので族外婚をするためである。
(3) 女子を仕事に服させるため奴隷として掠奪した。
(4) 妻は男の共有であったので、独占するため戦利またはその他によって掠奪した。

 我国の場合、この四つのどれとも関係しており、一説でもって解釈するわけにはいかないといいながら、「特に異なる氏神をもつ部落のものが通婚する場合、神を憧って正式の婚礼を行わず掠奪の形をとったのが、各地に慣行せられたのではないか」と特別な原因もあげている。

 掠奪婚がなぜ起ってきたのかということについて、中山太郎は、最初は男の嫉妬から等といいながらも古説のいずれもあてはまるとし、更には氏神を異にする云々…..をあげ、掠奪婚の発生についての説明に混乱をもちこんでいる。これは「我国には掠奪婚はりっぱに存在していたけれども、発生してから余りにも多くの年処を経ているため、手懸りを失ってしまっている。従って一説だけを以って代表させる確信がない」というくだりからも明らかである。

 ところで、江守五夫氏は『日本の婚姻 その歴史と民俗』のなかで、「『嫁盗み』といっても掠奪婚と混同されてはならない」として、 「嫁盗み」と「掠奪婚」を区別している。掠奪婚についての説明はここではなされていないが、「嫁盗み」については、「嫁自身が盗まれるのを承知しているのが通常であって言うなれば民族学上の駈落婚に相応する」と説明している。しかも、「若者の集団の勢力が強い地域に集中しており、配偶者選択権が伝統的に承認されていた地帯で、親の婚姻統制権が形成されはじめたところで生起するのである」と書いている。その証拠に、沖縄の少なくとも庶民階層では、親の介入がなかったので、「嫁盗み」もなかったということであるが、このことについて中山太郎は、琉球の糸満地方、宮古島の婚礼の儀式は、いずれも寝ている花嫁を連れさっていくことから掠奪婚が儀式に残っていったのではないかと推測し、掠奪婚の存在を証明しようとしている。

 中山太郎のいう「掠奪婚」、「嫁盗み」をどのように解釈し区別しなければならないか残されている問題である。
 ちなみに、海音寺潮五郎の作品「賢将門」では、雲門はその妻を掠奪したとある。当時、掠奪婚は一般の人々にとってはめずらしいことではなかったが、豪族と称せられるほどの階級の者はもうしないことであったと書かれている。わりと真実性が高いとされている『真福寺将門記』では、習事が妻を掠奪したという記述はみられない。

 

 

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