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2015年11月05日

大らかな母系婚姻制は武家社会~明治維新を通じて衰退

父系婚への転換は武士の登場によるもの?
日本における婚姻習俗
南方系婿入り婚、北方系嫁入り婚

これまで、日本における父系婚への転換は武士の登場によるものとして、婚姻制について歴史を遡って検証してきたが、概ね南方由来の母系婚から、北方由来の父系婚へと武士の時代に大きく転換したことが分かった。しかしこの母系婚と父系婚とは集団統合上も全く異なる制度であり大きな転換であった。大らかな母系婚から家父長が実権を握る父系婚だが、明治時代になり父系婚が法制度として定着していくこととなる。以下、リンクより。

◆婚姻二類型の異質性
婿入り婚によって代表される一時的訪婚は、嫁入り婚とともに日本の伝統的な婚姻習俗をなしているが、嫁入り婚についてはとくに説明するまでもない。婚姻は、嫁が夫家に入る「嫁入り」の時点で成立し、そのまま生涯夫家で夫婦生活が営まれるのである(人類学の「夫方居住婚」)。

ところで、この婚姻の二類型は、婚姻成立の祝いが催される場所(妻家・夫家)や夫婦の居住方式において異なっているだけではない。きわめて異なった文化要素がそれぞれの類型に付着し、社会的に著しく対照的な婚姻習俗をなしているのである。
・一時的訪婚にあっては、配偶者の選択が成人男女の自由な交遊を通して行われ、
 若者組や娘仲間と彼らの寝宿が、その婚前交遊の機会を保障している。
 が、嫁入り婚にあっては一般に男女間の接触を禁圧する規範のもとに、
 婚姻の配偶者はもっぱら家長の意思によって決定され、家長の委託を受けた仲人(なこうど)がその選択に携わる。
・その社会的な基盤としては、一時的訪婚では、若者組・中老・長老という年齢階梯(かいてい)制が編成される。
 対して、嫁入り婚では多かれ少なかれ家父長制的な家族が前面に現われる。
・さらに親族のあり方は、一時的訪婚では双系的な範囲で親族間の交際が営まれるのが基本である。
 対して、嫁入り婚では父系的親族集団(「同族」)が組織される。
要するに、この二つの婚姻形態は、社会的に際だって異質的な婚姻類型として存在していた。

このように社会的にきわめて異質的な二大婚姻類型は、その文化的系統において、南北二つの圏域と関連したものと考えられるのである。一時的訪婚は、中国の江南(長江以南)からインドシナ方面にかけて居住する諸民族の婚姻習俗に源流を発するものであり、他方、嫁入り婚は、中国北部や韓国やシベリア東北端の諸民族の文化と関連するものと推定されるのである。それゆえ、日本の婚姻習俗を考察する場合、つねにこれらの隣接諸民族との文化比較が要求されるのである。

◆婚姻習俗の変化
さて、古代の支配階層に採用されたとされる一時的訪婚は、大和時代に限らず平安時代の貴族層にも受け継がれた。
・平安貴族にあっては、少なくとも嫡妻に関する限り、婚姻当初の妻訪い(妻問い)のあと、
 妻は夫家に同居する建前であった。つまり一時的訪婚がとられていたわけである。
・ところが、鎌倉時代に入ると、武家が政治の実権を掌握し、
 それに伴い東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上する。
・室町時代に創始された伊勢流、小笠原流の武家礼法も、嫁入り婚にのっとった婚姻儀礼を採用し、室町幕府や江戸幕府がこれに準拠した。このように鎌倉時代から江戸時代まで、支配階層たる武家社会のもとでもっぱら嫁入り婚が行われ、一時的訪婚は支配階層からまったく姿を消したのである。

一時的訪婚の衰退の傾向は、明治時代に入って、いっそう顕著となる。
一時的訪婚と密接に結び付いていた若者組や「よばい」が、維新政府の旧慣陋習(ろうしゅう)打破の政策や明治10年代末からの儒教的な国民教化の政策において批判の対象とされ、さらに日清日露の両戦後のころから展開する官製青年団運動では若者組が青年団に改編され、同運動の眼目の一つだった「風俗の矯正」によって「よばい」習俗は急速に衰微したのである。
このような経過のなかで、1898年(明治31)施行の民法は「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」(第788条)と規定し、嫁入り婚が唯一公式の婚姻形態として、国家権力によって認証されたのである。

◆鎌倉時代に入り武家が政治の実権を掌握し、東国の武家社会における嫁入り婚が支配階層の婚姻形態として浮上してきたとあるが、武士階級にどのように定着していったのだろうか、もともとの疑問は武士による略奪婚が父系婚の始まりという点である。引き続き調査してみる。

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