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2015年10月29日

南方系婿入り婚、北方系嫁入り婚

前回記事「日本における婚姻習俗」においては以下の内容について扱った。
・嫁入り婚は北方文化由来として登場。
・婿入り婚(一時的訪婚)は南方系文化として登場。
・嫁入り婚は武家によって登場したものではなく、天皇家を中心に古くから行なわれていた模様。
今回も「日本における婚姻習俗」より、詳細を探ってみる。

◆婚姻習俗の変化
日本の婚姻習俗は隣接諸民族との文化的なつながりのもとに形成され、その後の時代的変遷とともに変貌を遂げてきたが、しかもなおその原型を近時までとどめるものも少なくなかった。
(1)嫁入り婚文化のうち東北地方の年期婿の習俗は、極北の採集狩猟民に連なるものとして日本の最古の文化に位置するものとみなされる。
(2)南方系の一時的訪婚の習俗は、黒潮が流れる房総以南の太平洋海域に分布するとともに、その分流の対馬暖流に沿って日本海域をも北上したことが判明している。
(3)元来、嫁入り婚を取り入れていた北方の遊牧騎馬民は、日本にもっとも遅く入ってきて大和王朝を打ち立てたが、その際、南方系の先住民と盛んに通婚することによって彼らの一時的訪婚の習俗を摂取した。
これら三つの文化史的現象を、(1)縄文、(2)弥生、(3)古墳の各文化段階に対応するものと考えることができる。

◆南方系習俗
よばいと歌垣
婿入り婚などの一時的訪婚の習俗が行われていた地帯(とくに日本西南部)では、若者組などという年齢集団が強力に組織され、ムラの娘たちとの自由な交遊(よばい)を通して結婚の相手を選んでいた。その場合、若者たちの(ときには娘たちの)共同の宿泊所たる「寝宿」が、この「よばい」の拠点をなしていた。「よばい」は、特定の日に限られず、男女が相遭うとき、年中つねに行われていたが、それとは別に、お祭りの際とか、市が開かれるときとか、節日など、一年の特定の日に、未婚男女が集まり、ともに歌いともに踊るなどしながら求愛しあう習俗があった。それは、古代には「歌垣」と称され、『万葉集』や『風土記』にも記載されていた。
そしてこのことは中国南部の少数民族の間でもみいだされた。たとえば雲南省圭山地区のイ族(彝族)のもとでは、寝宿における日常的な自由な交遊のほかに、「火把節」と称する「松明の祭り」が、若者たちの求婚の機会だったという。この松明祭りはまさに歌垣に相応する習俗であった。

一時的訪婚の源流
こうして結ばれる夫婦の婚姻が一時的訪婚の居住形式をとっていたことは、中国南部の少数民族でも同様であった。
この点に着眼した大林太良は、日本の一時的訪婚を中国南部の「不落夫家(ふらくふか)婚」と関連づけた。
江南の少数民族のもとでは、嫁が夫家で式をあげてもすぐに自家に戻り、ある期間(多くの場合、妊娠までの間)別居し、この間、夫家に労力が必要なときや節日などに、夫家の招きで嫁が夫家を訪れ、夫婦生活を営むのである。
日本の一時的訪婚のうちにも、夫家で婚姻成立の祝いがあげられたり、別居中に妻が夫家に通ったりする習俗があった。いわゆる「足入れ婚」「女よばい婚」がそうである。足入れ婚とは、嫁が夫家に初入りする儀礼を伊豆の大島で「足入れ」と称することから、大間知が名づけた術語である。この足入れの後、婿が妻家を訪問する点では婿入り婚と変わりないが、女よばい婚では夫家での婚姻成立祝いの後、嫁が夫家を訪問する点で中国の不落夫家婚とまったく一致しているのである。
また、中国の不落夫家婚のうちにも、日本の婿入り婚や足入れ婚と同様に、別居中の訪問が夫の妻訪い(妻問い)の形をとる場合もみられた。海南島のリー族(黎族)の少なくとも一部の部族がそうである。しかも、このリー族には別居中の婚舎に寝宿を用いる「寝宿婚」の習俗もみいだされた。このようにみてくると、日本の一時的訪婚の諸習俗が中国南部の不落夫家婚と著しく共通しており、両者の文化史的関連性が推定されうるのである。

◆北方系習俗
嫁入り婚の諸習俗
日本の嫁入り婚の文化のうちには、北方諸民族と共通する文化要素が少なからずみいだされた。
日本独特の慣習とみなされがちな仲人結婚もその一つである。
それは中国北方のオロチョン人、満州族、ダフール人、エベンキ人、蒙古族において広く行われていた。男家でたてられた仲人が縁談を女家にもっていくのであるが、興味深いことに、女家の方でよい縁談と思っても、すぐには応諾しないという点で、日本とこれら北方諸民族とは共通していた。
嫁入り婚は、前述のように嫁入りの儀式をもって成立する婚姻であるが、実はその儀式は単独に存在するのではなく、その前後に一、二の儀礼が伴っている。東北から九州まで広く分布しているもっとも基本的な形態では、嫁入りの当日、嫁入りに先だって妻家であげられる儀礼に婿なども参加し、また嫁入り後3日目に婿同伴で嫁の里帰りが行われる。前者は「呉れ渡しの式」とか「嫁迎えの式」などとよばれ、後者は「三ツ目帰り」などと称された。この婚姻成立儀礼は中国の漢族の「親迎」と「回門」に当るものであり、さらに北方の遊牧民族の間にもこの傾向がみられた。
この婚姻儀礼には、しばしば祓い清めの意義をもった呪術的儀礼が伴っていた。婚家が松明や篝火(かがりび)などで嫁を迎える一連の火の儀礼もその一つである。このうち嫁に火をまたがせる儀礼は、中国古代の史書『隋書』倭国伝にも記述されているので、古代にさかのぼる習俗であることが明らかである。この火をまたぐ習俗が集中的に分布している関東地方と長野県には、それと並んで、左右に掲げられた松明の間を花嫁にくぐらせる形式の儀礼も行われていた。そして火をまたぐ形式と松明の間をくぐらせる形式の併存は、驚くべきことに、中国東北地区の満州族の間にも近時まで行われていたのであり、日本における火の儀礼習俗が中国北方から伝播したと推察されるのである。

年期婿の習俗
「年期婿」とは、婿が3年なり5年なり、一定の年限を定めて妻家に住み込みで働き、その年限を勤めあげて初めて妻を自家に引き取るという婚姻習俗をいう。いずれは自家に戻ることを表して「還り婿」ともいう。それは、東北地方に広く分布していた。
この年期婿について、岩手県山形村の人たちは「娘をくれてやるかわりに、婿を自分のために働かせるのだ」と語っていたというが、この説明からすれば、それは人類学上の労役婚とみなされよう。確かに労役婚は、シベリア東北端の極北の狩猟漁労民や中国北方の古代の諸民族で行われており、日本の年期婿がこれら北方諸民族の労役婚文化の一環をなすと解されうる。
しかし、年期婿の習俗には、労役婚とは異なった性格も看取された。すなわち妻家の親がすでに年老いており、また家を継ぐべき男子がまだ幼いため、婿が一定期間、妻家に入って、幼い男子の後見を行うというものである。そして、このいわば幼男子後見型の年期婿と同様の習俗も、中国北方諸民族の間で「期限つきの入婿」として行われていたのである。
このいずれの場合であれ、娘を婚出させることによって妻家が被るであろう労働力の喪失を婿が補填するという意味がみいだされ、娘を他家へ嫁がせる嫁入り婚がその前提となっているのである。

 

以上のように、婿入り婚が南方系の文化、嫁入り婚が北方系文化として日本に定着したことが分かった。
次回は、大和朝廷以降どのように受け継がれていったのか、また、そもそも婿入り婚と嫁入り婚の本質的な違いは何なのか、について探ってみる。

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