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2016年09月29日

江戸の遊郭「吉原」って知ってますか?

江戸の遊郭「吉原」って、知っていますか?

今回は、堀口茉純・著『江戸はスゴイ』から、遊郭「吉原」誕生の背景を紹介します。
※堀口茉純は、明治大学在学中に文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後、女優として舞台やテレビドラマに多数出演し、「オ江戸ル」としても注目されています。

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◆吉原は江戸の特殊な人口事情から生まれた特殊な町だ。
江戸の町は、徳川家康の江戸入府によって初めて開発が始まったフロンティアだ。幕府が開府すると、参勤交代の大名や侍たちが全国各地から押し寄せ、商工業者も続々と誘致。宗教的拠り所となる寺社地も多く作られてゆく。城下町の整備は急ピッチで進み、土木人足が大量流入した。つまり、男ばかりがあふれていたのである。

このころの正確な人口統計はないが、圧倒的な女性不足であったことは想像に難くない。その証拠に、女子が誘拐されて遊女として売られるといった事件が多発。江戸のそこかしこに売春宿が乱立したし、遊女を置いた銭湯=湯女風呂のような風俗店が大流行し、風紀の乱れは甚だしかったという。こうした場所は金を払えば長期滞在ができることから、犯罪者の潜伏先にもなりやすく、治安も乱れる。

◆江戸の女性不足は深刻な社会問題だったのだ。
そこで、遊女屋を代表して、庄司甚右衛門という男が遊郭の建設を幕府に提案した。遊郭というのは、公娼(公式に営業を認められてた遊女)を政治的な意図を持って一カ所に集めておくエリアのこと。周囲を堀や土塁で囲んだため、城郭の郭に見立て、遊郭と呼ぶようになった。歴史的には豊臣秀吉が京都、大坂に造った先例がある。

遊女屋にとっては幕府公認という箔がつき、公式に営業権が得られて悪質な同業者と差別化できるというメリットがあった。幕府にとっても、市中に散在する遊女屋を一カ所にまとめることで管理がしやすくなり、社会問題を収束させられるというメリットがあった。ウィンウィンの関係である。
こうして元和4年(1618)、江戸唯一の幕府公認の遊郭が、日本橋葺屋町(現在の人形町のあたり)に誕生。このあたりは一面に葦が生い茂っていたところから「葦原(あしわら)」と呼ばれていたのだが、「あし」は「悪し」と音が同じで縁起が悪いため、「よし」と読ませて字も「吉」の字を当てて「吉原」と呼ばれるようになったという。

江戸城から間近の好立地だったが、さすがに御城の目の前に遊郭があるのも……ということで、明暦の大火を期に浅草田圃に移転した。この経緯から、日本橋の吉原を元吉原、浅草田圃の吉原を新吉原と呼んで区別する。われわれが時代劇や小説などでなじみ深いのは、新吉原の方だ。
新吉原は周囲を田畑が囲んだ、一般世界とは隔絶した場所にあった。江戸の中心地から遠く北に離れていたため「北国」とも呼ばれた陸の孤島は、仕事に疲れた殿方が日常を離れてハメを外すには、恰好のロケーションといえる。

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