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2017年06月29日

集団自治で秩序化されていた江戸以前~共同体を破壊した明治の地租改正と学校制度

●日本の幕藩体制の統治能力は、中国(明・清)の中央集権(皇帝独裁と官僚制)のそれを、はるかに上回っていた。

中国の歴代王朝の人民を把握する力は時代を経るごとに弱まっていき、唐の後半には兵役が、明の後半には労役が、清の中頃には戸籍に基づく徴税そのものが放棄される。

中国の科挙官僚に行政能力はなかった。科挙に合格するために必要なのは、儒教経典の丸暗記や規則に従って詩文をつくる能力にすぎないからである。しかも、中国の科挙官僚たちは、地位と職権を乱用して庶民から収奪の限りを尽くした。

●江戸時代までは、共同体の自治能力によって秩序化されていた。

日本の村落共同体は、村落集団を秩序化し統合する機能を有していた(田植えや稲刈りなどの共同作業、道路・用水路・入会地などの管理、年貢の割り当てと納入、そして集団としての規範など)。この村落共同体の自治能力を土台にして、幕府や藩の統治と社会秩序が成り立っていた(同様のことは、座や仲間が機能していた商工業にもいえる。)

実際、幕府や藩は、最低限必要な法度等を定めるのみで、後は農民や町人の共同体の自治に委ねていた。法度も支配者が上から押し付けられたものではなく、農民の規範を元に法制化されていた。

その典型が「慶安の触書」である。その原型は「百姓身持之事」という江戸時代の農民が自分たちでつくった規範である。それが甲府藩をはじめとして主に東日本の藩の法「触書」として採用され、幕法となっていった。あるいは、1713年の分地制限令は、生産量10石、耕地1町より少なくなるような耕地分割相続をしてはならないという内容だが、村において農民自らが「このまま分地を続ければ我々は共倒れする」という危機意識から、分地制限を取り決めた村掟をつくり、幕府にその法制化を求めたのが分地制限令である。

明治以降、法律は上から押し付けられるものになったが、江戸時代は、農民がつくった規範が幕府や藩に採用され法制化されていたのである。

●戦闘に明け暮れた戦国大名でさえ、民の生活第一であった。例えば、豊臣秀吉は1593年、尾張国復興策の中で、尾張国領主秀次の家臣の軍役を半減し、村が負担する夫役(労働力負担)を免除し、「(これで)給人(家臣)も百姓(村)も成りたち候様」と述べている。また、欧州の農民反乱が支配者と農民との間の血で血を争う殺し合いであったのに対して、江戸時代の百姓一揆のほとんどは年貢等についての陳情と交渉にすぎなかった。

●また、江戸時代には農地の私有権は存在していなかった。農地は村の共有財産であり、その上の大名も領地の管理者にすぎなかった。

●明治の地租改正によって農地私有(個人所有)がはじめて確立した。

地租改正によって農民たちが「所有した」土地を自分の自由裁量で売却できるようになると同時に、これまで村全体で納めていた年貢に代わって、農民個人に地租が課税されることになった。農地の私有制度によって、農地は投機の渦の中に巻き込まれ、投資家たちは稲田や漁業権や湾の使用権を買い漁った。その結果、江戸時代の日本には存在しなかった大地主が出現し、一般農民は小作に転落していった。戦後の農地改革で「戦前の大地主は封建的な存在であり、日本を戦争に導いた」と喧伝されたが、日本の大地主は近代的な私有制度の下で登場したのである。

明治の初期に地租改正や学校の制度化に反対する農民一揆が起こっている。それは、農地の私有制度(地租改正)や学校制度が共同体を破壊するものだったからである。

参考『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子著 文藝春秋刊)

 

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