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2019年07月23日

★日本の官僚制度は明治以降にどのように導入されたのか?

明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか?」リンクで、明治時代初期に始まった教育制度を紹介しましたが、その後どのような歩みを進めたのか?
現在日本の抱える、政治・経済、教育、原発、環境etc…、様々な問題に答えを出せず、国を滅亡へと向かわせている試験エリート=官僚に繋がる官僚制度までの成り立ちを見ていきたいと思います。リンクより

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■明治政府発足当初は地縁血縁重視

明治政府が発足した1868年、政府は総裁・議定・参与からなる三職制を定めた。そして、参与としての人材を得るため、徴士貢士制を定めて各藩から藩士を集めた。もっとも実際には、薩摩・長州出身者から官吏を登用することが多く、地縁・血縁を重視した藩閥政府が形成された。

■官僚養成のため帝国大学を設立。文官試験は補助的方法として出発

この情況を憂えた伊藤博文は、ドイツ・フランスが官吏養成所を作り成功した事例を調査させた。伊藤は1885年内閣総理大臣に就任し、1886年(明治19年)に帝国大学令を定めて東京大学を帝国大学とし、藩閥にとらわれない官吏養成機関(主として文官の養成機関)とした。

翌1887年(明治20年)には文官試験試補及見習規則を定めた。この試験は後の私立大学出身者に受験資格を付与した。帝国大学の法科大学・文科大学の卒業者は、この試験を経ずに各省の試補として採用され、こちらの方が採用人数は多かった。入省後、学士試補が主流で試験試補は傍流という実質的な差別待遇も行われ、後の官学・私学による待遇格差の遠因となる。

■武官も藩閥政治からスタート

他方、文官と共に官吏をなす武官についても、薩長藩閥によって占められる状況(海軍は薩摩、陸軍は長州)が続いた。

1878年(明治11年)近衛兵の一部が西南戦争後の待遇や俸給への不満などから、暴動を起こす(竹橋事件)。この事件をきっかけに、軍令と軍政を分離すべきという主張が唱えられ、同年、陸軍省から独立した参謀本部が陸軍に設置される(1893年には海軍に軍令部が置かれる)。これは後に大日本帝国憲法の下、統帥権独立の端緒となる。これにより、初めて官吏のうちに文官と武官の区別が生じる。

■大日本帝国憲法制定後、文官任用令

1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が制定され、再度内閣総理大臣となっていた伊藤博文は、1894年(明治27年)、文官任用令と文官試験規則を定める。この文官任用令と文官試験規則により、技術官でない高等文官は文官高等試験合格者から採用されるのを本則とした。

■藩閥政治と政党政治の対立から自由任用が制限
1898年(明治31年)にわが国最初の政党内閣(憲政党)である第一次大隈内閣が誕生したが、同内閣は藩閥政治への対抗上、行政機構への政党勢力の拡大を意図して政党員を勅任官である各省次官、局長、知事等に大量に任用した。政党員の猟官運動も激しく、その改革を望む声は高まった。

4ヶ月あまりでこの第一次大隈内閣が瓦解した後、再び、藩閥を代表する山縣内閣が登場し、猟官の弊への反省そして政党勢力の伸張を抑える目的から、文官任用令が改正され、自由任用とされていた勅任官の資格要件が定められ、勅任官は3等の奏任官に在職した者又は勅任官在職1年以上の者等に限ることとされるなど、自由任用の範囲が縮小される。

その後も、政党政治と藩閥政治の力関係で、自由任用の範囲はたびたび変わることとなる。

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