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2017年07月27日

中世の村落や町の自治を支えた「無縁」の原理

中世には、無縁所といわれる場があった。例えば、縁切り寺などがその一つで、女が駆け込めば、夫婦の縁を切ることができ、下人が駆け込めば、主従の縁を切ることができた。中世には、こうした無縁所が至る所にあったらしい。津・泊・渡・河原など「無主」の地や、寺の門前などが、それである。そこは、主従関係や家父長制度などの身分秩序(序列原理)が及ばない(無縁な)場であった。そこに集まるのは、定住しない非農業民、例えば、諸国を遍歴した僧侶や勧進聖、手工業者、商人、猿楽・河原者と呼ばれた芸能民であった。この序列原理から無縁な場を母胎として、市場や演場が拡大していった。鎌倉時代後期から、遍歴する非農業民の活動が活発になり、津・泊・渡・河原など「無主」の地や、寺の門前など「聖」なる場所に市が立ち、そうした市を遍歴する無縁の人々が定住して、13世紀には、都市が各地に派生していった。(参考『無縁・公界・楽』網野善彦)

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以下、 「歴史ちょっとだけ(3)網野史学(2)無縁・公界・楽」の要約です。

●無縁空間では、夫婦の縁、主従の縁、貸借関係の縁を断ち切り、重科人さえそこに駆け込む事で刑罰の掟から逃れ得る。また無縁の空間は鋳物師・猿楽・山伏の様な広義の芸能を生み出した。(中世前期まで「芸能」は手工業者や宗教者まで含む広い意味を持っていた)。

戦国期、京の無縁所、阿弥陀寺は墓所であると同時に市場でもあった。「私所」にあたる「氏寺」と区別された「無縁所」としての「公界寺」は主従、戦闘と縁の切れた人々のための寺であった。自治都市は「老若」=「会合衆」によって運営された中世の自治都市(南伊勢・大湊、和泉の堺、北九州の博多等)も、農村の自治組織「惣」も「老若」の形態を持つ「無縁」「公界」の原理に立つ。「老若」という年齢階層的秩序原理は、級社会以前のor未開社会の身分的分化様式であり、性別と並ぶ自然発生的分業秩序である。

供御人、神人の流れをくみ、海民の後裔が作り上げた中世末期の自治都市桑名の「十楽の津」。戦国期「公界衆」にとって「お上」にあたる天皇・将軍・神社などは全く無力となったが、「十楽の津」の住人達は戦国大名が上になる事を容易に認めなかった。「うえなし」の主張、そこに「楽」にも「無縁」「公界」の原理が認められる。

「楽市楽座令は、戦国大名・織豊政権が本所と座の結び付きを打破し領国経済を確立するための法令」とする通説は間違っている。「楽市楽座令」は商人・職人が作り上げた都市法の一つである。

「無縁」「公界」「楽」は同一原理を現す一連の言葉であり、8点の特徴がある。①不入権、②地子、諸役免除(天皇に対する貢納を除く)、③自由通行の保証、④平和領域、平和集団、⑤私的隷属からの解放、⑥貸借関係の消滅、⑦連座制の否定、⑧老若の組織(年齢階梯的秩序原理)

古代末期から山林・河海は「無縁」の場でありアジール(避難所)であった。河原は非人が支配する葬送の地であり、山林は無縁の衆徒達の修行の場であった。鎌倉末から南北朝にかけて非人を組織した禅律僧・時衆達が「無縁」の聖として勧進を盛んにし、橋をかけ、道路を開き、船津をつくり、泊を修造し、更に無縁の場を広げていく。市庭がこのような無主の地、辺境に立てられる、非人の宿、宿駅の宿も無縁の地に立地する、そこに遊女・傀儡子達が生まれる。

海民、山民、鋳物師等各種手工業者、芸能民、陰陽師等知識人、武人、勝負師、宗教人。辺境に生まれた無縁世界の住人達は無縁の原理を逆手に取って天皇に直属するしたたかさも持っていた。不入の地としての「無縁・公界・楽」の淵源は私的所有でなく、原始・太古の本源的「自由」を根に持つ「無縁」の原理である。

①アジールの第一段階(原無縁):最も未開な民族にはアジールは存在しない。原始人類にとって無縁・無主と有縁・有主は未分化

②アジールの第二段階(実利的なアジール):有縁・有主を一方の極に持つ事で無縁原理は自覚され、「無縁・公界・楽」が生まれ宗教思想が形成される。罪人・異邦人・奴隷はそれ自身「無縁」の人であるが、王・族長・呪術師等がそれらを受け入れアジールになるのは彼ら自身無縁の原理を体現する存在であったからに他ならない。

③アジールの第三段階(衰退・終末の段階):有主・有縁の世界を固めた大名達による無縁原理の取り込み、国家権力の人民生活への浸透

「無縁・公界・楽」なる言葉は餓死・野垂れ死と背中合わせでは有ったものの、日本の社会に原始以来脈々と流れる無主・無所有の原思想(原無縁)を表した日本的表現であった。しかし、織豊時代から江戸期に入るにつれ、急速に失われてゆく。「楽」は信長・秀吉によって取り込まれ消え去り、「公界」は「苦界」に転化し「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界に相応しい言葉になっていきます。

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三重県HP「歴史の情報蔵」「戦国時代、三重の各地に公界」から転載。

「自由」という言葉を知らない人はいないと思います。戦国時代の堺(現大阪府)を「自由都市」と呼ぶことがある、ということを御存知の人も多いでしょう。けれど、戦国時代の「自由」とは、現在と違って、その当時の身分制などによる束縛から解放されるというものです(最近では、誤解を避けるため、「自治都市」という用語を用いるようになりました)。具体的に言えば、戦国大名や荘園領主がかける税を免除されたり、主従制に反することなどの罪から免れたりするということであり、当時、「無縁」という言葉が使われていました。そして、その「無縁」が保障される場所を「公界(くがい)」と表現することが多かったようです。

三重県域にも、この「公界」がたくさんありました。最も有名なのが宇治と山田で、共に年寄衆による自治が行われていました。特に、山田の年寄衆は「山田三方」(山田は須原・坂・岩淵の三方に分かれており、三方からそれぞれ代表が出て会合し、衆議していたのが語源のようです)と呼ばれ、三つの花押を並べた形の印は、「公界の印判」と呼ぶにふさわしいものでした。 神宮の港として発達してきた大湊も、経済的基礎を確立させ、会合(えごう)衆による自治が行われており、「大湊公界」という署名が残っています。また、禁裏御料所であった桑名も「十楽の津」と言われ、自由な商売を認めた都市で、戦国大名の介入を許しませんでした。

このほか、松坂も自由な商取引が認められ、科(とが)人の走入りの場でありましたし、外宮の権禰宜であった度会氏の氏寺として建立された光明寺(現伊勢市域に所在)も「無縁」の寺だったようで、評定衆によって経営されていました。また、熊野の北山谷も無年貢の地だったと言われていることや、検地に激しく抵抗したこと、山林が「公界」となる例が多いことなどを考えると、「公界」という言葉こそ用いられていませんが、実質的には「公界」だったと言えるのではないでしょうか。
このように、数多く存在した「公界」も、信長や秀吉による天下統一が進むにつれて、圧倒的な武力の前に屈服せざるを得ませんでした。宇治や山田の年寄衆は江戸時代になってからも存続していますが、それは戦国時代に「公界」として自負を持っていた年寄衆とは随分違ったものだったでしょう。

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