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2017年7月20日

2017年07月20日

脱恋愛・脱結婚の潮流~強制化された恋愛、結婚からの離脱

面白い記事を見つけた。

・・・憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた
・・・自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか
そう、自由な恋愛もまた、いつしか強制圧力となっていたというもの。
であれば現在の恋愛離れは、強制圧力としての恋愛からの離脱現象とも捉えられる。
様々な新しい男女関係は、強制化された「恋愛」からの離脱現象として始まったのではないか。

戦後、恋愛結婚が増加し、見合い結婚が減少していく。そのクロスする年が1970年である。
貧困を克服し、豊かさを実現した年、1970年。
1960年代以前、貧困の時代、農業生産が主流、地方では家父長権が残存、結婚は「家」にとっての生産課題であった。
同時に「家」を取り巻く農村共同体としての課題でもあった。
当然のように、結婚は個人の自由に委ねられる課題ではなく、家、共同体を貫く生産課題として存在していた。
しかし、自由恋愛をエンジンとした市場経済の拡大により、共同体社会から離脱し、市場社会へと身を投じる流れが主流に。
結果、共同体は崩壊、個人の自由、自由な恋愛をエネルギー源とする、個人が主役の時代となった。

個人が主役の時代、これは同時に生きづらい時代になったとも言える。
共同体の時代、貧困の時代は、その規範、課題により社会的評価、収束先が確かにあった。
貧困の消滅により私権序列~強制圧力も消滅した、残るのは個々人の私益獲得の差くらいしかない。
私権獲得の原動力であった性欠乏も衰弱する一方で、表層的なモテルモテナイといった相対格差のみ取り沙汰される。
・・・彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた
・・・そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された
いつしか自由な恋愛は、恋愛こそが正とでも云うべく強制化され、「自由な個人」の足かせとなり、個々人を苦しめていく。
そんな「恋愛」が作りだす空気こそ面倒くさい。恋愛から離脱していくのも当然だろう。
脱恋愛、脱結婚、、今はまだ既存の恋愛観や制度からの離脱に過ぎないが、向かう先は本源収束、本源の男女関係以外にない。

 

◆「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから

>恋人いらないってホント?出現!“いきなり結婚族”
「恋愛が面倒」「セックスを嫌悪している」。そうした若者が急増している。9月に発表された国の調査でも、独身男性の約7割、女性の約6割に交際相手がおらず、独身男女の4割に性経験がないことが明らかになった。一方、恋愛プロセスを飛ばして「いきなり結婚」を目指す若者もいるという。一体、何が起きているのか。

リンク先には、恋愛を経ないで結婚を望む若者の話がまとめられている。
昔から「結婚と恋愛は別物」とは言われているにもかかわらず、結婚するためにわざわざ恋愛を経由しなければならないのは理不尽なわけで、こういう意見が出てくるのも当然だろう。家族を持つ・子どもを育てるといった家庭的なノウハウと、異性とときめいた時間を過ごすためのノウハウは大きく違っているので、恋愛が下手だから配偶者として不適かといったら、そうとも限らない。
むしろ、世の中には、恋愛上手だけれども結婚相手としては最悪な人も多い。だから、結婚する前に恋愛というハードルを越えなければならないという固定観念は、恋愛なんてどうでもいいから結婚したい人には邪魔でしかない。

恋愛の延長線上に結婚があるということ、逆に言うと恋愛というハードルを越えなければ結婚はできないということは、単なる共同幻想、あるいは流行でしかない。

 

◆猫も杓子も恋愛だった、あの時代

そういえば、猫も杓子も恋愛を持ち上げていた、あの、恋愛結婚の時代とは何だったのだろう?

ある時期までの恋愛結婚には、伝統的なライフスタイルや価値観から離れ、欧米風のライフスタイルや価値観に憧れるニュアンスが含まれていた。好きな者同士が自由に結婚できる社会は、そうでない社会よりは望ましいものだっただろう。

だが、恋愛結婚のアーリーアダプター達の二代目が思春期を迎え、恋愛結婚のレイトマジョリティが結婚適齢期を迎えた後の時代においては、そうとも限らない。

憧れの対象だった恋愛結婚は、いつしか当然のテンプレートとなり、ある種の強迫性を帯びてきた。「好きな者同士が、自由に伴侶を選びあう」はずの恋愛結婚が、「好きな者同士を探さなければならない」ものへと変貌していった。今にして思えば、四半世紀ほど前の若者は、今の若者よりも必死に恋愛して、結婚しようとしていたと思う。彼氏・彼女がいることが正義で、彼氏・彼女がいないことが悪であるかのような雰囲気が漂っていた。90年代のクリスマスの雰囲気などは、まさにそういうものだった。

そして、そういった雰囲気についていけない者には、「ダサい」という烙印が容赦なく押された。「まじめな」「かたい奴」だとしても、「ダサくて」「恋愛ができなければ」話にならない――そんな風に考えている人が、当事者たる若者だけでなく、少し年上の人達にすら珍しくなかったことを、私はよく憶えている。

今にして思うと、あの、恋愛にみんなが必死になっていた時代に、心の底から恋愛したがっていた人はそれほどいなかったんじゃないかと思う。

「みんなが恋愛しているから」「テレビやドラマで恋愛が恰好良いこととして描かれているから」「恋愛していないとダサいと思われるから」、なんとなく恋愛しよう、とにかく恋愛しなければ、と思っていた人って結構いたんじゃないだろうか。表向きは自由なパートナー選択が浸透したようにみえて、実のところ、恋愛の強制というか、自由選択を無理矢理に押し付けたものではなかったか。恋愛結婚推進派は、見合い結婚やイエの都合による結婚の不自由を批判し、自由な恋愛を良いものとしていたのだけれど、そういう自由が与えられた結果として、それでみんな恋愛を謳歌し結婚できていれば、世の中はこんなに少子化にはなっていない。

恋愛と結婚がセットとみなされるようになって実際に起こったのは、非婚化と少子化だった。それと、恋愛して結婚しなければならないという、強迫的な固定観念。

 

◆アーリーアダプターにとっての自由はレイトマジョリティにとっての束縛

ちなみに私は、旧来の束縛から自由にしてくれるような価値観やライフスタイルは、ある時点までは自由の源でも、ある時点からは抑圧の源になってしまうと思っている。

 そこには例外は無くて、初期のキリスト教の教えも、昨今の個人主義も、諸々の解放運動のたぐいもたぶん同じ。新しい価値観やライフスタイルがまだ世間に浸透しきっていないうちは、それらはアーリーアダプターを自由にしてくれる。だが、レイトマジョリティにまで浸透し、半ば常識とみなされるようになると、今度はその価値観やライフスタイル自身が旧来の束縛に取ってかわって、人々の心を縛り付けるようになる。

 たぶん、恋愛結婚もそういうものだったのだろうと思う。

 そこにマスメディアと資本主義システムが手を突っ込んで、恋愛と結婚が、さも常識であるかのように吹聴した。若者に恋愛してもらったほうがお金が儲かる、若者がお金を落としてくれる、というわけだ。

 言い換えると、トレンディドラマやクリスマスのシティホテルやレジャースキー場は、あの世代の男女関係に値札をつけて換金したってことだ。値札のついていなかったものに値札をつけて経済成長とは、いかにも現代資本主義的で抜け目のないことだが、そのためには、恋愛が固定観念になって、クリスマスを異性と過ごすのが常識になって、カップルでスキー場に出かけるのがトレンディでなければならなかった。バレンタインデーだってそうだ。そうやってメディアをあげて馬鹿騒ぎをして、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気をつくることが、お金儲けをしたい大人の人達にとって肝心なことだったのだろう。

おぼこいことに、私も私の周辺の同世代も、そういう換金の構図にはほとんど気付いていなかったが。

 

◆やっと恋愛の呪縛が解消されてきた

 でも、バブルがはじけて、就職氷河期があって、恋愛結婚についていけない人が続出して、それからも長い時間が経って。どうやら下の世代は恋愛の呪縛から少しずつ解放されてきたようにみえる。

恋愛したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
結婚したい人はすればいい。けれども、したくない人はしなくて良い。
もちろん現在でも、「孫の顔が観たい」的なプレッシャーは残っている。けれども、「恋愛できなければ人にあらず」という雰囲気が無くなっただけでも好ましいことだ。

>ただし、個人個人が「結婚には恋愛が必要」と思い込んだのみならず、社会から要請されたとの側面もあるかと。つまり、村落共同体単位での「通過儀礼」が崩壊し、世間全体から「大人」として認められるための新しい通過儀礼として「恋愛(するだけの社会性)および結婚」が必要とされた

>単身者が親戚から「あんたまだいい人いないの」と言われ続けるのも、「通過儀礼を経ていない」と見られているから、と解釈するといろいろ腑に落ちる。昔は見合い結婚が全盛だったが、当時の通過儀礼を経ていない人には見合い話なんて来なかったんぢゃよ

>んで、「恋愛をすっとばして結婚」というのは、通過儀礼の前提であった「恋愛をうまくこなせるだけの社会性の涵養」をすっとばすというわけで、まあ社会性の涵養がとてつもなく面倒だというのはわかるが、だからこそ通過儀礼として機能していたんぢゃろ、と思う反面で

>でもまあ日本人はカタチを重視するので、「兎にも角にも結婚した」ということで良しとなるのかもしれん

 

そう、いつしか恋愛と恋愛結婚には「恋愛できるぐらいに社会性を身に付けている」という成長の証、つまり通過儀礼としての性質を帯びていった。自由な個人主義社会ができあがり、社会から通過儀礼らしきものがことごとく消え去った後には、恋愛経験が通過儀礼としての機能を帯びるようになった。通過儀礼としての機能を帯びるようになったということは、つまり、恋愛もまた個人を抑圧する社会的因子の一つになったということに他ならない。

しかし今、恋愛のそうした通過儀礼的で抑圧的な性質までもが希薄になりつつある。おめでとう! また私達は、ひとつ自由になりましたね! まあ、この自由もまた未来の不自由の芽になっていくのだろうが、その負債を支払うのは現世代ではなく未来の世代なので、今は喜んでおけば良いのだろう。

恋愛の呪縛が解消された後の世界は、戦前世界に先祖返りするのではない。イエ血縁も希薄になってしまった現代社会における「恋愛抜きの結婚」とは、旧来の結婚に比べてもっと社会契約的で、もっと経済的で、もっと身も蓋も無いものになるだろうと私は予感する。そういう、身も蓋も無い結婚や社会契約的なパートナーシップが新しい常識となり、新しい抑圧の源となった時、未来の世代は何を思い、何を悩むだろうか。

参照: 「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉とこれから

 

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2017年07月20日

古代・中世の商工業(座と問丸・馬借・土倉・酒屋)

『新しい歴史教科書-その嘘の構造と歴史的位置-この教科書から何を学ぶか?』「第2章:中世の日本」批判19を要約しました。
●商工業の発展の結果としての座の成立

律令国家は調や贄という形で品物を献納させていたが、10世紀ごろ、律令国家の統制力が緩み、この体制は崩壊。それに代って、有力な寺社や貴族が自分の荘園に住む商人や職人を「神人」「寄人」という形で隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を献納させた。朝廷も商人や職人を「供御人」という形で役所に隷属させ、免税特権を与える代わりに品物を直接献納させた。

この「職(しき)」を得るということは、朝廷や貴族や寺社に隷属する事で特権を得て、営業の独占をはかるということだったのであり、主として神聖なものとしての朝廷・貴族・寺社に隷属することによって行われていた。この「職人(しきにん)」の中には、荘園や公領の荘官や地頭などの武士も含まれており、荘官・地頭などは、それぞれの地の管理と年貢の徴収を仕事とする「職(しき)」を得た人という意味であった。

中世前期の商工業・農業の発展とともに、商人や手工業者の朝廷・貴族・寺社からの独立は進み、彼らは自治組織「座」を結成し、朝廷や貴族・寺社へ「座役」としての銭を払う代わりに、免税特権や、朝廷の役所や貴族・寺社が支配する地域における自由通行権と営業の独占権を得るようになった。座の結成とは商人・手工業者が政治的にも独自性を強め、自治組織として動き出したことを意味する。そしてこの時代は、農民・商人・手工業者・武士の身分は分離しておらず、座は村を単位としても結成されていた。

●武家権力の登場の結果としての座の成立

商工業者が朝廷・貴族・寺社から独立していった、もう一つの理由が武家権力の登場である。
京都は朝廷・貴族・寺社の支配地が複雑に入り組んでおり、各支配地で朝廷・貴族・寺社が検断権(裁判・警察権)や徴税権を持っていた。京都に住む商工業者は、朝廷・貴族・寺社の隷属民として「供御人」「神人」「寄人」の身分を得て、商業上の特権を保持してきた。彼らは集落単位でまとまりその集団を座と呼んでいた。この場合の座は、神に仕える人々の集団を意味する座であり、商業上の特権はそれに付随するものであった。

室町幕府は所領が少なく経済的基盤が小さい事もあって、全国的商工業の中心である京都にその経済的基盤を置いた。
室町幕府は徐々に京都における直接的支配権を掌握し、検断権と徴税権を掌握し、商工業者には役銭を直接課税するようになった。その結果、京都でも朝廷・貴族・寺社による商工業民の支配は廃絶し、商工業民は神に仕える隷属民ではなく、純粋に利益を追求するようになった。さらに戦国時代になると、戦国大名は領国内で朝廷・貴族・寺社の支配を受けてその隷属民として商業上の特権をもっていた商工業者をその支配から切り離し、大名に直属した商工業者集団へと組替えていった。

●都市の形成と特権的大商人(問丸・馬借・土倉・酒屋)の形成

室町時代に登場した運送業者(問丸)や金融業者(土倉・酒屋)は、特権的大商人であり、彼らの営業範囲は広く、朝廷や幕府、守護大名にも癒着していた。問丸は鎌倉時代に、全国の港や津に居住し、渡船や商人宿を営み、年貢物や商品の中継・保管・輸送・販売に携わった業者のこと。年貢の保管・輸送などの業務を朝廷の役所や貴族に代って請け負う業務のことを「問職(といしき)」「問丸職(といまるしき)と呼んだ。彼らは室町時代になると、配下に廻船人という海の運送業者や馬借などを組みこみ、広域的に独占的な営業を行った。

馬借も単なる運送業者ではなく、有力寺社に隷属した商人である。近江の大津・坂本、山城の淀・山崎・木津、越前の敦賀、若狭の小浜などが集住地として知られ、特に近江・山城の馬借は京都に米を搬入する米商人でもあり、かつ叡山・日吉社の「神人」であり、その地域における物資の運送の独占権をもっていた。
しかし、馬借は獣(馬)に関わる仕事であったからか次第に賎視され、室町時代ともなると「非人」に等しい扱いを受けるようになった。室町時代の土一揆において馬借が最も過激な戦闘集団となっていったのには、このことが背景にあるかもしれない。

土倉も有力寺社に隷属した金融業者である。寺社に納められた初穂などを元手に人に貸し付け、利子をとる業者として登場した。叡山・日吉社の「寄人」として僧形のものが多く、土壁の倉に質物などを保管する事から土倉と呼ばれた。平均的な利率は月に6~8%と高いが、彼らは金貸し業だけではなく、荘園の代官となって年貢徴収や荘園経営にも当たり、室町時代になると、日明貿易にも携わるものも出た。彼らも朝廷や貴族・寺社と繋がり、その業務を請け負う事を代償にして利益をあげていた特権的大商人である。

酒屋も有力寺社(ex.叡山)と結びつき、その「寄人」として酒の醸造と販売の独占権を持っていた。そして、金融業にも進出した。

土倉や酒屋は朝廷や貴族・寺社の所領からの年貢の徴収を請け負い、これら権門の財政を事実上担う存在になった。室町幕府も京都の土倉・酒屋に役銭を課税してするとともに、彼らを幕府の勘定方に任命して、その財政を担う官僚として組織していった。

これらの特権的商人は大都市に集住し、その財力を背景に、他の商人や手工業者を統制する存在になっていった。納屋衆として自治都市の運営にあたった有力な商工業者には、問丸などの特権的商人が多かったのである。

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