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2017年09月15日

【南北朝仮説】北朝とは百済勢力であり、南朝とは後発の新羅・高麗勢力では?

北朝・南朝とは何なのか?仮説を提起したい。

孝明天皇の皇子(睦仁)とスリカエられて明治天皇になった大室寅之祐は南朝と云われている。

大室家は山口県熊毛郡田布施町麻郷の小字である鞠府(麻里府)にある。この地は平安時代の中期頃から大内氏の拠点で、高麗からの渡来民たちの末裔が住民の多くを占めていた。大内氏の傭兵となった因島村上水軍も、漕ぎ手の大部分は半島からの渡来民の末裔だった。

百済発祥の多々良姓を称した大内氏は、大内氏を頼って渡来してきた半島系民族集団を配下に置く在日居留民団の団長として存在していた。

『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾著 成甲社刊)「第二章 大室天皇はなぜ田布施にいたのか」「第三章 卒族たちの憧れは奇兵隊天皇」から要約する。

山陽山陰地方は古来から朝鮮半島民の流入が絶えないが、周防国は、百済王族の琳聖太子の子孫を自称する大内氏の本拠であった。平安時代頃に渡来してきた大内氏は、周防・長門を中心に支配領域を広げ、百済の琳聖太子の末裔と称した。但し、琳聖太子は架空の人物とされている。

半島渡来人は当初は百済人だったが、やがて統一新羅人、さらには高麗人になる。平清盛も瀬戸内海の制海権を確保し、日宋貿易に本格的に進出したが、清盛は海上要員として、高麗人を多数移入した。

1363年に南朝から北朝に帰順した大内氏は、周防国大内村から山口に本拠を移す。この頃から琳聖太子の末裔を自称し始めた大内氏は、1399年に渡鮮して倭寇を討伐した功績に高麗王に対し百済の故地に領地の下賜を請願する。この請願そのものは、成就の寸前で高麗王臣の反対により不成功に終るが、このように、足利氏に仕えながら大内氏は高麗王にも秋波を送っていた。
このように大内氏は、中国地方と北九州の数カ国が大内氏を国王として分国・独立し、李氏朝鮮を宗主国に仰ぐこともあり得たのである。分国・独立の危機を感じた室町幕府にとっては、この地の高麗系住民をヤマト文化に同化させることが重要な課題だった。

実際、高麗では満州系女直族の李成桂が裏切りによって李氏朝鮮を建てていた。まず元を裏切り、双城総管府を陥落させた李成桂は、次には明の密命で、1392年に高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建て朝鮮国王になる。大内氏が李氏朝鮮を通じる可能性もありえたのである。実際、15世紀には大内教弘は防長両国の他に筑前・豊前・肥前を合せて5カ国の守護を兼ねるが、少弐教頼と戦った時、対馬に逃げた少弐を討伐するため、対馬の部分割譲を李氏朝鮮に提案している。

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この説自体は事実であろう。
その上で、一つの仮説を提起する。
天皇家を頂点とする日本の支配階級の出自が朝鮮半島である。
まずは、百済勢が支配権に握る。支配の完成形が平安朝であり、その糸を引いていたのが秦氏である。彼ら平安貴族は専ら農民からの収奪に血道を上げる。

しかし、これで朝鮮半島からの流入は終わりではなく、その後も新羅勢や高麗勢が流入する。日本国内に領土を持たない彼らは、市場ネットワーク・芸能ネットワークを形成する。この市場・芸能ネットワークに依拠したのが南朝である。

ということは、北朝とは初期に流入して平安朝をつくった勢力(主力は百済勢)であり、南朝とはその後に流入してきた新羅勢・高麗勢ではないか。

※元々、南朝派であった大内氏は百済王族の末裔を自称しているものの、平安中期に登場したことや高麗出身者を抱えていたことから考えて、後発の高麗出自であった可能性が高い。

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