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2017年9月28日

2017年09月28日

個人主義の果てに結婚・出産・育児(集団課題)が『個人の自由選択』へ

結婚・出産・育児の問題の根本には、子を産み育てることが「個人の自由選択」になっていることが挙げられる。
(このような論調の記事は見たことが無かったが、初めて見かけたので紹介したい。)

「個人の自由選択」の背景には、共同体集団の解体と、恋愛の自由、個人の自由を促進した近代思想がある。
明治政府による共同体破壊、近代思想の輸入から250年、高度経済成長による共同体崩壊からはたかが60年、
人類500万年の歴史は、集団適応の時代であった。
結婚・出産・育児などという生殖課題は、当たり前だが最も重要な集団課題であった。
個人が第一の時代など、たかだか数十年に過ぎず、その意味で人類史上異常な状態であるということ。
「種の存続」という生物にとっての根本課題が、「個人の自由」に脅かされているのが、近代思想に導かれた現代という時代である。

近代的な結婚観に基づく“目的論的な家族像”の衰退と個人の自由選択に任された“結婚・出産・育児”の問題

ある人にとっては出産育児の決断はそれほど悩むべき問題ではなく、むしろ自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の主要な目的』だと考えています。ある人にとっては出産育児の決定は深刻な悩むべき問題となり、自分が父親・母親となって子どもを持つことを『人生の重要な選択』だと考えているかもしれません。
出産育児を『人生の主要な目的』と捉えるかそれとも『人生の重要な選択』と捉えるかは小さな違いに見えても、実際には非常に大きな心理的態度と性的アイデンティティの違いがあります。

高度経済成長期までの日本の標準的世帯では、性別役割分担(男は仕事・女は家庭)のある『近代的家族観』が生きており、結婚・出産・育児というのは誰もがいずれは経験すべき『人生の主要な目的』と位置づけられていました。男女平等の客観的な追求は『社会的性差と結びついた出産・育児による格差』をどう解釈すべきなのかという非常に困難な課題に直面しています。

自然界の生物の多くは『自己の遺伝子保存』を究極の目的としていますから、人間のように妊娠出産をするかしないかを主体的に選択することなどはあり得ませんが、経済生活と認識水準を向上させた人類は自意識の拡大や育児コストの増大によって、出産・育児を人生計画の一部に組み込むようになり行動選択の対象とするようになりました。ヒト以外の動物では異性を選ぶ性選択と生殖(繁殖戦略)は直結していますが、人間には『恋愛・性愛・結婚・父親と母親』という関係性の違いがあり、特定の異性を性的パートナーとして選択しても必ずしも子どもを作るわけではありません。

父親・母親・子から構成される近代的家族が社会の構成単位であった時代には、近代的家族を形成してそれを再生産することが目的化しているので、出産育児を決断することの迷いは殆ど無かったと考えられます。出産育児を『人生の主要な目的』と捕える考え方とは、今している勉強や仕事は最終的には結婚をして家族を作り子どもを育てるための手段であるとする考え方であり、『結婚・家族・出産育児・子どもの自立(=社会の再生産)』というのが人生の究極の課題となります。発達心理学の各種発達理論やライフサイクル論も、基本的にはこの近代的家族観を前提としており、『結婚・出産・育児』が社会的自立のための重要なライフイベントとして定義されていたこともありました。

地域共同体が衰退の危機にある現代社会では、社会の最小構成単位としての家族(世帯)は、最後の最後に残されたゲマインシャフト(情緒的人間集団)とも言えますから、近代家族を失うことは精神的安楽の場や自己アイデンティティの一部を喪失することを意味します。守るべき家族がいるからつらい仕事を頑張れるという人も少なくありませんから、資本主義社会における労働のモチベーションと家族(帰れる場所・情的な人間集団)というのはかなり密接な関係があります。シングルマザーが子どもを育てるという選択肢そのものは尊重すべきであり法的な不平等などは無くすべきですが、家族そのものが存在しないのがデフォルトと考えられるほどに、人間の精神は個人主義化していないというのが現実ですから、今後も少子化(高齢化)問題と合わせて近代家族の再生産と停滞の問題は繰り返し現れてくると考えられます。

他人に必要以上に干渉しない現代の自由主義社会は、結婚・労働・出産・育児を『個人の自由な選択の結果』と位置づけることにより、個人を結婚・家族形成にまつわる社会的圧力(世間の眼差し)から大きく解放しましたが、人々に共有される『家族の再生産の物語』を喪失しかかっているとも言えます。戦後に伝統的な“イエ制度”が解体されたことで、多くの個人は家(家系)を残すという束縛から逃れましたが、家系(血統)を残すという共有幻想としての目的を失ったことで、一定の年齢で結婚しなければならないという社会的義務が消滅したとも言えます。個人とイエ(家系)の分離が進んだ結果、結婚を必然的なものと見なす前提で作られた『お見合い結婚』の衰退が起こり、後は、個人の主観的な幸福や好きな異性の選択、経済的な生活設計の問題、育児しやすい環境の用意としての結婚(婚姻制度)が残ることになったわけです。

近代以前の社会(共同体)では、結婚して子どもを産み育てることが、人生の主要な目的であり共同体維持(防衛)のための社会的責務でもあったので『家族(子ども)の再生産の物語』に特別な意味づけや解釈は必要ありませんでした。しかし、近代以降の社会では『経済生活の発展・認識能力(情報環境)の拡張・人権と個人主義』により、結婚・出産・育児が『個人の自由な選択』の問題となり、個人個人が『自分の人生の物語』の中で家族や育児の価値を実感しなければならなくなりました。このことは、冒頭に書いた、出産育児を『人生の主要な目的』として全面的に受け容れることができるか、出産育児を『人生の重要な選択』として様々な人生設計を予測しながら思い悩むかの違いにもつながってきますが、『母親・父親としての役割を担う自分』をどのくらい肯定的に受容できるのかという自己アイデンティティとも関係しています。

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