2008年04月21日
一夜官女祭り(悲話の伝説)・・・別の解釈
大阪の西端、西淀川区に鎮座する野里住吉神社において、毎年二月二十日に一夜官女の祭りを行っています。
この御祭は、若い娘が人身御供として神に奉げられる悲しい伝説に基づいていると言われています。
その内容とは、
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「のりちゃんず」より
昔、この野里は、風水害と厄病の流行に苦しんでいました。古老達は、村を救わんとの願いから、ある一つの決断をします。毎年、白矢の打ち込まれた家の娘を神に捧げる。
人身御供の娘は毎年定められた日の深夜に、唐櫃に入れられて神社境内に放置されたのです。
そして、七年目のこと。村人たちがこの儀式の準備をしていると、一人の武士が訪れ、なにごとが起きているのかと尋ねました。
話しを聞いた武士は怒りの表情を見せます。「神は人を救うもので犠牲にするものではない」
そう喝破すると、自身が唐櫃に入ると言い出します。村人達はどう考えたでしょうか。しかし、結局は武士の言葉通りにすることにしました。今年ばかりは娘の入っていない唐櫃を境内に運び込むと、
一晩、そこに放置したのです。
翌朝、村人達が神社に行くと、唐櫃は壊れ、境内は血塗れとなっていました。血を追いかけると、隣の申村まで続いており、大きな狒々が絶命していたのでした。武士の姿もどこにも見えませんでした。
村を救い、なんの礼も求めることなく姿を消したのです。この後、大阪夏の陣で絶命した薄田隼人、別名・岩見重太郎こそが、この武士の正体であったと伝えられています。
「 巫女装束研究所」より写真お貸ししました。
「一夜官女祭り」は悲話を今に伝える祭りとして有名です。でも、現在はとっても楽しい祭りとして、行われています。
しかし、「のりちゃんず」の作者はこの悲話を、官女による客人への「おもてなし」の文化ではないかと,説いています。
官女、「神の嫁」の定義として
・・・・・・・(中略)・・・・・・神にたいしては、常に逢わねばならなかった。反面、神の嫁であるということは、人間の男性を拒否せねばならぬということであった。」
つまり、人間の男を拒否し続けた「神の嫁」は、反面、神に対しては、いつでもどこでも寝なくてはいけなかった、ということです。
神とは・・・、こう言ってしまうのはいけないかもしれませんが、定義の曖昧なものだと思います。
例えば、漂着物を「えびす」と呼びます。これは、遠く海の彼方からやってきたものを、憧れを持って眺めた過去からの習慣かもしれませんし、もっと別の意味があったかもしれません。客人を「神」として歓待する風俗もあったようですから・・・。
官女の役割と日本の風習を説明から新たな説を説いています。
書籍:「性の民俗誌」には、ある先生が、ある村に赴任することになり、途中で民家に泊めてもらったら、その家の娘さんが細々と世話を焼いてくれ、夜も部屋から去らなかった・・・などという話しが紹介されています。これは、泊めてもらった家でのことだから、当然「一夜」のこと。
ただ、それならば、「一夜」にする必要があったのでしょうか。私は、これにこそ不自然を感じるのですが・・・。
つまり、「一夜官女」の夫は・・・この神は・・・、客神なのではないかと考えれば、すごく納得がいくのですが・・・。
例えば、ナイルの氾濫のように、毎年、一年に一度、「野里の渡し」が大きく乱れることがあり、その日、「神がやってきた」と見た、とか。もしくは、今のお盆のように、年に一度ないし二度、祖霊が帰ってくると考えられていたとか。そういう「特別の神」を歓待するための女性が、「一夜官女」ではないか、と思えるのです。
つまり、「客人」=「神」と考えてしまえば、「誰とでも寝る女性」=「神の嫁」という見方も、強ち無理のあるものではなくなってくるわけです。
大切な「客人」=「神」を、一夜官女が大切に接待していたと言う文化が、途中で人身御供を英雄が救ったと言う物語に変化していったという解釈です。
日本の「官女」や「巫女」とは、どんな存在であったのか?や、性的にオープンであった昔の日本文化からすると、不明反は多くありますが、十分にありえる説であると思います。
- posted by koukei at : 2008年04月21日 | コメント (3件)| トラックバック (0)
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