2022年12月29日
縄文時代 約14,000年間の概観~縄文草創期から早期まで
【縄文人の特性】縄文中期に見る縄文人の著しい観念進化とその背景②
では、縄文時代の人口動態の変化、その背後にある外圧・環境の変化を考察しました。
縄文時代の区分は諸説ありますが、始期は概ね約BC15,000年から、終期は概ね約BC1,000年で、約14,000年もの長い時代を形成しています。この長い時代のなかで、気候変動や大陸からの人種の到来、日本列島内の人の移動や変動があり、一口に縄文といっても年代ごとに、その特質は豊かな変化を生んでいます。
とりわけ縄文中期は人口が増大し集落を形成し、火炎土器のような生命力あふれる土器の登場、黒曜石の広域化など、非常に活発で特徴的な時期です。前の記事で述べたクナドの登場もその一つです。集団と集団が接するにつれて、自然が相手だけでなく同類からの期待や緊張圧力が加わったことが、縄文中期の大きな特徴をもたらせた要因にあるように思われます。
縄文時代の変容を具体的にイメージするためにも、約14,000年続いた縄文時代の気候変化、人口動態、生活様式、特徴等を概観しておきます。
■縄文以前の旧石器時代 ~BC15,000年
BC31,000年以前の日本列島は大陸と繋がっており、針葉樹に包まれていたと考えられています。日本列島での人骨の発掘は、沖縄でBC30,000年、24,000年、16,000年(湊川人)/静岡でBC16,000年となりますが、いずれも縄文人とは繋がっていません。
BC23,000年頃は、現代よりもマイナス5℃で、寒冷化に伴いバイカル湖に居住していた人種がサハリン経由で日本に移住し、旧石器時代を形成したと考えられている。専ら狩猟が生業で定住の痕跡はありません。BC13,000年頃で、人口は700~3000人だったと推察されています。
■縄文時代 草創期 BC15,000年~10,000年
BC13,000年頃に北東アジア最古の土器が発掘(青森県大平山本Ⅰ遺跡)。文様や装飾は無く煮炊きあとのある土器で、定住生活の始まりとされています。「北海道・北東北の縄文遺跡群」のHPによると、定住とは言え、住居は移動式テントのようなもので、最小限の土地利用で自然環境に適応した生活を送っていたようですね。まだ竪穴式住居ではないようです。
またBC10,000年頃の遺跡として鳥浜貝塚があり、釣針や丸木舟など漁労の痕跡や、竪穴式住居など縄文時代の草創期~前期にかけて漁労・採集の定住生活の痕跡が見られます。
このBC11,000年頃は、新たな人種が、モンゴル高原から朝鮮半島を経由して北九州から日本列島に流入してきたと考えられています。
Y染色体の配列変異から判別した人種ではD2系とされており、このD2系がその後の縄文文化を形成していきます。なおD2系は日本とチベットで認められ、現在でも日本人に4割程度おり世界でも珍しいです。縄文文化が現在の日本文化の土台になっている傍証です。
BC10,000年頃は現在よりマイナス4℃程度で、玄界灘が開通し日本海に暖流が流れ込み、現在の日本列島のカタチになります。それまでの日本海は外洋に閉ざされた大きな湖みたいなカタチですね。その後日本海側が温暖化してゆき、西日本から徐々に木の実が豊富な落葉広葉樹林帯に移行。採集生産と定住化が本格化していったと思われます。
BC13,000年頃で700~3000人であった人口は徐々に増えていったと考えられますが、BC10,000年頃でもまだ1万人には到達していなかったと思われます。
■縄文時代 早期 BC10,000年~5000年
BC8,200年は、現在の約マイナス5℃で最終後氷期が終わり、気候が温暖化し海水面が上昇。東日本を中心とした縄文文化が始まる時期です。
BC7,500年、南九州の上野原遺跡に最古の大規模定住集落跡が見つかっています。52軒の竪穴住居群を中心に,39基の集石や16基の連穴土坑などの調理施設をもった集落(ムラ)が発見されました。南九州地域における定住化初期の様子を知る大集落といえます。
上野原縄文の森より
BC6,000年、日本列島の人口は約2万人。九州と東日本に人口は偏りを見せていますが、落葉樹林隊や栄養豊富な火山帯の傍に定住化したのではないかと思われます。なお、BC5,300年に九州で鬼界カルデラが噴火し、以降西日本は数千年間噴火の影響をうけ人口増加が止まったと考えられています。
次回、縄文前期~中期~晩期につづきます・・・
- posted by kida at : 2022年12月29日 | コメント (0件)| トラックバック (0)
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