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2017年5月19日

2017年05月19日

日本の学術が考える「教育改革」

「21世紀の教養と教養教育 」と題し、日本学術会議が議論を重ね、大学教育についての提言をまとめている。
2010年の内容であり少々古いが、日本の学術界がどのように現状を認識し未来を築こうとしているのか、興味深い。

 

日本の展望―学術からの提言2010
グローバル化の進む21世紀初頭の現在、地球環境・生態系破壊の危険性や、地域紛争・テロ、新型感染症、金融危機といった問題など、予測のつかない困難が人間・国家・人類社会を襲っている。他方、世界各国は、グローバルな経済競争のなかで自国の豊かさの維持・向上を図り、それぞれの社会内における種々の対立や貧困・差別などを解決しつつ、多文化共生・多民族共生とローカルな文化・社会の活性化を持続的に確保し促進するという課題や、それらの課題への適切な対応と活力ある豊かな市民社会の展開を図るという課題に直面している。
世界各国と人類社会が共通に直面しているこうした現代のさまざまな問題と課題は、それらに対応しうる知識・知性・教養の向上を切実に求めている。その知識・知性・教養とは、異質なもの(個人・民族・国家や宗教・文化)の間での相互信頼と協力・協働を促進し、それらの問題や課題の性質・構造を見極め、合理的かつ適切な解決方法を構想し実行していく基盤となるものである。しかるに、その基盤となるべき教養は低下していると言われ、その再構築が喫緊の課題だと指摘されている。

人類社会が直面している様々な課題に対し、どのように答を出し、未来をつくっていくのか。
答を出すためには、それに対応しうる知識・知性・教養の向上が必要であり、低下した教養の再構築が必要であると言う。
しかし今現在、新たな社会構築に向けた有効な新理論はどこからも誰からも出てこない状況。
それは何故なのか?
そもそも冒頭の様々な問題はどのように生まれてきたのか?
基盤となる教養が低下したのは何故なのか?
社会の要請に対し、学術はどう応えていくのかが問われているわけだが、、、

20世紀半ば以降、例えば、生活水準の向上をもたらしてきた科学技術・経済の発展が地球環境・生態系の破壊などの危機を引き起こすというように、人間の営みが交叉反転し矛盾した結果をもたらすという事態が目立つようになった。自由・人権の拡大、自我の解放と個の確立や「豊かさ」の追求をはじめとする「近代(モダン)のプロジェクト」への信頼が揺らぎ、そのプロジェクトを支え先導してきた科学技術や「知」の在り方が問い直されるようになってきた(この知の在り方に関わる変化を「知の地殻変動」と呼ぶ)。この問い直しは、その根底において、価値と倫理の再編・再構築を迫っている。自己中心・自国中心・強者中心の生き方・考え方や社会の在り方ではなく、多様性と自他の違いを認め尊重しつつ、相互信頼と連帯・協働の輪を拡げていくことのできる生き方・考え方と社会の在り方を求めている。この求めに応えうる倫理の再構築とその倫理に裏打ちされた教養の形成を図っていくことが重要である。

市場社会をリードしてきたのは、自由・人権の拡大、自我の解放、個の確立といった近代思想であることは間違いない。
その結果、地球環境・生態系の破壊などの危機を引き起こした以上、社会を牽引してきた近代思想が間違っていたと言わざるを得ない。まず、この点の総括が必要ではないか。

「るいネット」より
大転換期の予感と事実の追求
>「人々は、これまで無数の常識(規範とか観念。現在もっとも支配的な観念は、自由とか個人とか人権だと云って良いでしょう)に則って家庭生活を営み、あるいは経済生活を営んできました。しかしその結果が、先進国における全面的な行き詰まり(世界バブル・財政破綻・環境破壊・精神破壊)であり、崩壊の危機であるとすれば、それらを導いてきた常識群の根幹部が(従って、大部分の常識が)根本的に間違っているからだと考えるしかありません。おそらく人類は今、全文明史を覆すほどの大転換期に入ったのではないでしょうか。 」<

そう、近代への信頼が揺らいだとか、知の地殻変動といった位相の問題ではない。
全文明史を覆すほどの大転換期である。
近代思想を含め、これまでの常識では全く答を出せないということ。
全文明史を遡って、人類史の構造を解明しないと答えは見えないということを意味している。

古典的な「教養」は、広い意味での階級社会を基盤にして、エリート性を含意しつつも人格の陶冶を含む啓蒙主義的な理念として構築されてきた。そして、特に19世紀後半以降の産業社会と市民社会の進展を背景にして、近代的な産業社会・市民社会(政治社会)に参入し、そこで成功するにふさわしい知的・文化的素養や倫理・規範を身につけていることとして観念され評価されるようになった。言い換えれば、教養は、エリート性を維持しつつ、「近代=産業=市民社会」において成功するための重要なパスポートとして機能してきた。そして、この間、その理念と機能は、「教養主義」によって維持され展開してきた。この伝統は、日本を含む先進諸国では、経済の高度成長と高等教育の大衆化が急速に進んだ1970年頃までは、エリート性を徐々に低下させてきたとはいえ、個人的成功の要件として機能し、その機能にも裏打ちされた「大衆的教養主義」として曲がりなりにも維持されてきた。

しかし1970年代後半以降、「教養主義の没落」「教養主義の終焉」とも言われる変化が起こり、その変化に対する危機意識が表明されるようになった。その変化と危機意識の背景には、次のような社会と大学教育の変化があった。前述のようなグローバル化の進展やメディアの地殻変動に伴って、国際的な経済競争の激化と産業構造・企業活動・仕事世界の流動化・複雑化、豊かな情報消費社会の進展とライフスタイル・価値観の多様化などが進んだからであり、もう一方で、大学教育のさらなる大衆化と学問・研究の専門分化・高度化に伴って、学生の学力や学習意欲・興味関心の多様化と専門教育・実学教育のウェートを高める傾向が目立つようになったからである。かくして1980年代半ば以降、大学教育の質向上や「卓越性の追求」をスローガンに掲げた改革と、一般教育・教養教育の見直しと再興・再構築を目指す改革の動きが活発化することになった。

1970年を境とした変化は、国際的な経済競争の激化と産業構造・企業活動・仕事世界の流動化・複雑化、豊かな情報消費社会の進展とライフスタイル・価値観の多様化、、などといった変化の類なのだろうか。

明治の近代化以降、西洋の近代思想を輸入し、国家を挙げて市場拡大に躍起になった。
誰もが豊かさを求め、近代思想をバイブルとし、勉強に励み、受験戦争を勝ち抜き、市場の牽引車になっていった。
日本においては1970年頃、ついに豊かさを実現した。つまり、豊かさ追求の方程式は成立しなくなった。
かつては、時代の要請は先進国の仲間入り、豊かさ追求にあった。だからこそ、それに応じた学術が必要とされたに過ぎない。そうである以上、今現在の社会の要請は何か、人々の期待は何か、そこに応えていくのが学術の役割であり、教育の存在意義である。

「21世紀の教養と教養教育」は大学教育のカリキュラムへと提言が続くが、
まずもって学術界を牽引してきた学者自らが、その拠って立つ思想を総括し、人類史に遡り社会構造を解明し、今後の社会をつくっていく新たな理論構築をすべきであろう。それ無しにこれまで同様、近代思想を大事にしたままの教育を続けても全くもって意味がないどころか、ますます迷宮に入るだけである。

 

 

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