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2009年03月12日

朝鮮半島南部からの本格的渡来

歴博による弥生の実年代と新たな課題
>現在見つかっている人骨から判断すると、弥生早期には文物だけが伝来し(縄文人が朝鮮半島南部から稲作を持ち込み)、弥生前期には大陸系の人が渡来したことになる。
とあるように、
水田稲作は、朝鮮半島南部から(弥生前期には人も)北部九州に渡来したことは確実で、本稿では大陸における南部朝鮮までの伝播と、北部九州への渡来の痕跡を紹介します。
(寺沢薫著『日本の歴史02王権誕生』より。)
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弥生稲作のふるさと
これまで考えられてきた水田稲作の日本列島への伝来ルートは次のようになる。
Ⅰ 華北から渤海湾の北をまわり、朝鮮半島を南下して伝来したとする「北回りルート」
Ⅱ 華中から朝鮮半島を経由して伝来したとする「半島ルート」で、次の三つがある。
 a 山東~遼東半島から朝鮮半島北部を経由するルート
 b 山東半島から朝鮮半島中部西岸を経由するルート
 c 長江下流域から黄海を超え、朝鮮半島南部西岸を経由するルート
Ⅲ 長江下流域から東海を越えての「直接伝来ルート」
Ⅳ 華南地方から南島経由で伝来したとする「海上の道ルート」
図版は日本史入門サイト 歴史の扉 第3章弥生時代よりお借りしました。Ⅰは一番上のルート、Ⅱaはその下で途中から二股に分かれる北側のルート、Ⅱbは二俣の南側のルート、Ⅱcは3本目の半島南部を経由するルート、Ⅲは4本目の直接ルート、Ⅳは一番下のルートに対応しています。
(クリックすると大きくなります。)
inasakunodennrai.gif
1999年、韓国中清南道論山市と慶尚南道蔚山市で無文土器時代前期から中期にかけて(前8~前5世紀頃)の小区画の水田が発掘された。縄文晩期後半(弥生早期)の水田の直前に当たるもので、Ⅱのルートの決定的な証拠になった。
菜畑遺跡や曲り田遺跡などで見られる磨製石包丁、磨製石鎌、大型蛤刃石斧、抉入り柱状片刃石斧などは、朝鮮半島南部の磨製石器群と驚くほど似ている。
朝鮮半島への水稲伝来
では、Ⅱのルートのうちa~cのいずれか?については、ではないか。
それは長江と黄河の間の淮河の下流域で、中国最北端の新石器時代の水稲農耕遺跡が見つかったからである。南京の北東の低湿地帯から(前5000~前3500年)4千粒ものジャポニカ種の炭化米が検出された。立地から見て水田稲作で、河姆渡遺跡と同様の骨製の鋤も出ている。また、江蘇省北端からは前2500年の龍山文化の城壁集落から多数の短粒米が出土し、水田らしき跡も検出されている。
渡来人登場
最近、北部九州の渡来人(弥生人)と大陸の同時代人骨との比較研究が進んでおり、ミトコンドリアのDNA分析などから、山東半島江南地域の出土人骨と高い親縁性のあることが指摘され始めている。
渡来系弥生人は、同じ北部九州でも、長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。前者は山東、朝鮮半島から北東起源後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源の可能性が高いという。
和佐野喜久生氏は、日中韓の炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも、玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、有明海沿岸地域のそれはやや長めで大きいことをつきとめた。前者は同時代の朝鮮半島のものに近く後者は中国の長江や淮河流域のものに近いという。期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。
いずれも後者は、Ⅲの長江下流域からの直接渡来説を浮上させるかもしれない。
渡来人の足跡
渡来人がたずさえてきた物には、水稲技術や大陸系磨製石器などの農工具以外にも多くのものがある。
1 土器
朝鮮半島南部の無文土器と形や製作技術がそっくりな土器が西日本に広く分布している。無文土器とは朝鮮半島で前8世紀から1世紀にかけて作られた。無文土器中期(松菊里式)は縄文晩期後半から板付Ⅰ式の水田稲作と深く関与し、弥生土器の最大の特徴でもある壷もその影響によって普遍化した。
2 支石墓
朝鮮半島の無文土器文化を特徴づける墓制。縄文晩期前半の支石墓の分布は、畑雑穀農業の痕跡が確認される島原半島や熊本平野周辺の火山灰土壌地帯とも一致し、続く縄文晩期後半から弥生前期初めの分布が、玄界灘沿岸と有明海沿岸の二つの平野部に分かれて波及している。
米と人骨で見られた二つのタイプがここにも表れており、渡来のルートに二段階、二ルートあったことのさらなる証拠といえよう。
3 集落の周りに環壕をめぐらす技術と「松菊里型」と呼ばれる二本主柱の竪穴住居
松菊里型住居は、縄文晩期後半から弥生中期前半まで、西日本各地の弥生集落にその痕跡をとどめている。渡来人の数世代後の子孫が東へと移住しながらも、かたくなにその住居構造を守っていったのであろう。
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次回は、「Ⅲ 長江下流域からの直接渡来」の可能性について紹介します。

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