2009年04月30日
中山太郎の「日本婚姻史」から~共同婚~☆9☆こんな雑魚寝も…!
こんばんは。ツツジが美しい季節になりました もうすぐ連休ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
さて、前回は、「結婚」にかかわる雑魚寝を紹介しました。
今回は、もっと直接的かつ切実 な雑魚寝について紹介します。
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★妊娠を目的としたる雑魚寝
古代の雑魚寝の土俗が時の力に駆られて崩壊し、更に他の土俗と抱合して種々なる変態的の派生を見るようになったが、次に言う妊娠を目的とした雑魚寝は、その一例として考えることができる。これは「神の申し子」の俗信を培い、再変して「感生伝説」の源流となった。山城の国宇治町縣神社
例祭で、神輿が町内を渡御(午前二時頃)する間だけは、神前はもちろん町中一切の灯火を消す全くの闇(くらやみ)祭だが、その闇黒の時間を利用し、諸国から集まった多数の男女が旅館または民家に鮨詰めのようになって寝るが、その折に名も所も知らぬ男女が手が触れ足の障るままに相通ずる。その結果妊娠した婦人が、神様から子種を授けられたことになるのである。この僅かな一例を以って他を類推するのは少々速断の嫌いはあるが、摂州の住吉神社の「子種石」や大和奈良の水屋神社の「お×こ石」や、京都の梅宮神社の「またげ石」なども、その古い土俗に遡れば縣神社の種貰いと同工異曲のものだと想像される。
摂津の国真上の笠森稲荷(瘡守と付会されて有名な下の病の神)
毎年七月十七日から二十日まで四日間行われる例祭で、子の無い婦人は夜々尻をまくって河原の石の上に座っていると、必ず子を授かるというので、大正の時代にも祭礼の後にはこうした志願の女性を見かけるとあるが、この子供を授ける神の正体も大概は見当がつくのである。下野の国柏倉の金毘羅神社
明治八九年の頃は子授けの神として関八州の流行神となり、参籠の女性が群集したものだが、子授けの神は天狗の仮面を被った神官どもであることが露顕した騒ぎがあった。神の申し子の真相は概して神官の奸計に出たものが多い。
子どもを産むことは、当時の女性にとって切実な願いだったのですね。父親が誰かはあまり関係ないことから、戸籍上の結婚=夫・父親はいても、庶民は実質は母系制であったのではないかと思います。
また、父親が誰か分からないことが、次にあるような伝説の下地ともなっていったようです。以下は筆者の言葉をそのまま引用しています(改行のみ適宜入れています)。
『この場合に併せ考えるべきことは、感生伝説に対する雑魚寝の土俗からの観察である。例えば間人皇妃が金色比丘を呑んで懐胎し聖徳法王を産んだとか。藤原鎌足の母が、夢に坤門から藤が生え出て日本国に、花咲くと夢のみて妊娠したとか。僧伝教の母が比叡の日吉神社に参籠し霊夢を感得して受胎したとか。
更に誰でも知っている豊太閤の母が日輪懐中に入ると夢みて懐妊したとかいう伝説であるが、これ等のうちには支那の感生伝説の影響を受けたものもあろうし、また名僧や英雄が往々人を欺くほどの道理をつけ、出生を神聖ならしむために、好んでかかる奇蹟を捏造し付会したものもあるが、その中には「種貰い」系統に属するものの伝説化されたものが在ったことも考慮から逸してはならぬ。
飛騨の工匠の母は非常なる醜婦で、人妻となることができぬのを恨み、氏神へ祈願し神水を飲んで受胎し工匠を生んだとあるのは、その神水を飲む者が悉く妊娠するというのならば、ヴントの言うところの妊娠トーテムとして適当の例証であるが、そうでなくして工匠の母だけであった点から見ると、これも「種貰い」の範疇に属すべきことと思われる。
江戸期における特殊部落の女性たちが、素人の子が欲しさに好んで種貰いに出かけたことは有名なものであるが、これなどもその子に英雄とか名僧とかが出れば、一変して感生伝説の材料となるべき可能性を有している。僧日蓮が吾は施陀羅の子なりと言って憚らなかったのは、民衆を相手にした立宗だけに感生伝説の必要がなかったからである。』
前回紹介した、みんなの充足のための雑魚寝とは違って、本当に子どもを産む必要に迫られていて、それに応えるかたちとしての雑魚寝による『種貰い』は、言葉通り「種を(わけて)貰う」=助け合いの意味もあったのだと思われます。
最後に、女たちが集う、何やら楽しそうな 雑魚寝をご紹介します。
★性的行為の予習としての雑魚寝
雑魚寝は男女共臥するのが原則だが、例外とも言える女同士だけの雑魚寝がある。越後の国岩船郡の粟生島
古くらかお籠りと称して女ばかりで雑魚寝をする土俗がある。別段に定まった日があるのではなく、亭主たちが漁に出たといっては、その漁が豊富であったといっては、更に海が荒れるといっては、女房達や娘達が島の鎮守神の社に集まって酒を酌み交わし、女同士で一夜を添寝して過ごす。風俗上よろしくないと度々禁令を発するが、島の女たちにとっては唯一の「歓楽の殿堂」を取り去ることが出来なかった、と大正13年の新聞にある。
雑魚寝の意味は女性に限り許される秘密ということで分からないが、警察署は島司が風俗上から禁令を発したところから見ると、一種の「寝宿」の名残ではないかと考えられる。そもそも、越後には古俗が多く残っており、田植後の「かくせち」とか秋収後の「苧うみ流し」とか、女性ばかりで行う土俗も相当にあるので、強いて言えばこれもその派生とも言えるが、そのいずれも性的行為の予習であるという点において一致する。『草深い村々に行なわれた性教育は、明治期の文明開化の風で吹き払われてしまったが、国初時代から伝統的に承けついで来たものには、露骨ではあったがかなり深刻なる教範があったのである。』
性は共同体みんなの充足課題 だから、どうしたらよりみんなが充足できるかを、ベテランが新人さんに教えるのは当然 観念的な性教育しか行われない現代よりも、すごく真っ当で健全な性教育ですね。年下さんたちにとって、たくさんのことを知っているお姉さんたちはすごく頼りになりそう。お姉さんたちも、年下さんたちに色々教えて可愛がる役割は、楽しいし充足できるものだったのではないでしょうか。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございます
- posted by mori-ma at : 2009年04月30日 | コメント (6件)| トラックバック (0)
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comments
危機的な状況(外圧が高い)時には、ボス集中婚(一夫多妻)になると思ったのですが、総偶婚(団体婚?)になる事もあるのですね。
外圧と活力、どちらが主要因になるのか考えていくと面白いかも…。
浅間山大噴火に関して調べてみました。当時の惨劇は想像を絶する内容でした。以下がその内容です。
>生存者は 93 名だった。異常を察知して,村の高台にある鎌原観音堂に逃げたものだけでなく、災害がおさまるように願って観音堂にお参りに来ていたもの、関所の番に行っていて家を留守にしていたものもいたのではないかと考えられる。この 93 名は四散せずに鎌原再建の道を選んだ。再建の方法として取られたのは、親を失った子と子を失った親を親子とし、夫を失った妻と妻を失った夫を夫婦にするという家族の作成だった。九月二十四日の第一回の結婚式で 7 組が結ばれ、暮れの十二月二十三日に第二回の結婚式があげられた。こうして新しい家を作り,さらに家と家が協力して村を再建した。<
危機に対応する為、一丸となって村の復興に力を合わせていたことが伺えます。ここまでの外圧は、極めて稀な状況ですが、集団婚としては村としては最善の策だったのだと思います。もともと村落共同体を母体として成立しているからこそ、このような婚姻形態がとられたと理解した方が良さそうですね。非常に勉強になりました。
The Ginyu Forceさん、コメントありがとうございます☆
外圧が高くても総偶婚になったのは、もともと戸籍上は一対婚でも、実態は夜這いなど総偶婚に近い形態だったからではないかと思います。残った村人が話し合い、みんなにとっていちばん良いかたちを決めたのではないでしょうか。
河内のおやじさん、コメント&詳しい情報をありがとうございます☆
親や子や夫や妻を亡くし、でも思いがけず生き残ってしまった人たちが、残った力をふりしぼって村の再建に尽力する姿を想像すると、涙が出てきそうです。
火山の噴火以外にも、地震や干ばつなどで消滅の危機にさらされた村落共同体は、他にもたくさんあったはずです。その度に助け合って智恵を絞って、命が現代までつながってきたんですね。ありがたいです。
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